多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、東京都「浄福寺城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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伊東潤(著),西股総生(監修)

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浄福寺城の位置と歴史

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山城というのは地形に左右されやすく、縄張りとしての面白みに欠ける一面がある。それでも防御パーツを効果的に組み合わせることで、その防御力は格段に上がる。今回は、その典型例である浄福寺城を紹介していこう。

浄福寺城と聞いてピンと来る方は少ないだろう。また隣接する八王子城ではなく、なぜ浄福寺城を取り上げるのかという疑問をお持ちかもしれない。しかし、これまで私は様々な機会を通じて八王子城について書いてきた上、既刊の『城を攻める 城を守る』(講談社現代新書)でも取り上げた。それゆえ今回は、八王子城の搦手防衛線に焦点を当て、その重大な任務の一端を担っていた浄福寺城について書きたいと思う。

浄福寺城は、東京都八王子市の西部にあたる下恩方町にある標高356・4m、比高160mの千手山の尾根沿いに築かれた山城である。その南には、八王子城という北条氏創築の大城郭があるため目立たない存在になっているが、八王子城ができるまでは、甲斐国から関東平野に出るための重要ルートだった北浅川沿いの古案下道(陣馬街道)を扼する重要な城だった。

その名の由来は北麓に新義真言宗の浄福寺があるためで、当時の文書には由井城の名で登場する。確かに由井城の名は、北条氏の永禄年間(1558~1570)の古文書に頻繁に出てくるが、由井城と浄福寺城が同一かどうかについては、結論を急がない方がよいかもしれない。

ちなみに浄福寺城は、別名、新城、松竹城、案下城、千手山城とも呼ばれている。新城は新たに築かれた城だからで(何に対して新たかは分からない)、松竹はその字名から、案下は城の南を通る古案下道から、千手山は浄福寺の山号から取られている。

築城は大永5年(1525)頃で、『新編武蔵風土記稿』という史料に、「大石源左衛門尉入道道俊と云う者当地に居城を構えし」とあるので、創築者は大石道俊入道(定久か)と考えていいだろう。

大石氏は、14世紀末期に武蔵守護職にして関東管領の山内上杉能憲の守護代として歴史の表舞台に登場する。この時の当主の憲重は武蔵・下総両国の守護代を務めるなどして、その権勢は、同じく上野国の守護代を務めていた白井長尾氏と並び立つものだった。

一代挟んでその跡を継いだ憲儀は永享の乱から享徳の乱にかけて活躍したものの討ち死にし、その後継の源左衛門尉(房重か)も古河公方勢力との一連の戦いで討ち死にを遂げた。その源左衛門尉から二代後の当主が、浄福寺城を造ったという定久こと道俊になる。

その後、大石氏は西武蔵に強固な地盤を築いていくが、大永年間(1521~1528)に入ると、小田原北条氏が関東管領の山内上杉氏や相模守護の扇谷両上杉氏の領国への攻勢を強めてきた。

両上杉氏の衰退と小田原北条氏の興隆が天文15年(1546)の河越合戦によって明らかになると、当主の定仲は北条氏に接近していく。結局、岩付城の太田全鑑、勝沼城の三田綱秀(後に裏切って討伐される)、天神山城の藤田康邦といった武蔵国の有力国衆と共に、大石氏も北条傘下に加わることになった。

だが杣保郡だけを領有する三田氏などとは違い、多摩、入間、比企、高麗、新座の五郡を領し、主城の滝山を中心に、戸倉、高月、浄福寺といった支城群を構える西武蔵最大勢力の大石氏は、傘下入りするだけでは済まされなかった。

北条氏三代当主の氏康は、三男(実質次男)の藤菊丸を大石定仲に養子入りさせ、その勢力を漸進的に吸収しようとした。この藤菊丸が後の氏照である。

氏康は大石氏との無用の軋轢を避け、まず西武蔵に古来より根を張る国人の由井氏に藤菊丸を養子入りさせ、その姓を名乗らせた。さらに氏康は、藤菊丸を大石氏の本拠である滝山城に入れず、由井氏館にとどめて大石氏との合議制による領国経営策を推し進めようとした。大石氏の家臣には由井氏の血縁者も多かったとされ、大石姓よりも西武蔵で名の通っている由井姓の方が、勢力の浸透を図るのに好都合だった。

この由井氏館が、浄福寺城ないしは千手山の山麓居館だったという説が有力になりつつある。

その後、氏康は氏照を大石定仲に養子入りさせ、その娘か妹と縁組させた上、永禄元年(1558)頃になって、ようやく氏照を滝山城に入れた。河越合戦から実に10年以上の歳月を経てのことだった。在地国人に対する北条氏の慎重な融和策の一端がうかがえる。氏照は三田氏討伐戦、第二次国府台合戦、第一次・第二次関宿合戦などで指揮官の一人として活躍し、西武蔵の差配と下野・下総方面侵攻の責任者、すなわち北条氏の東部方面軍司令官の座に上っていく。

最終的には四代当主の氏政の片腕として辣腕を振るい、豊臣氏と軋轢が生じた折も、常に強硬論を唱えて決戦を主張したため、小田原合戦が終わった後、氏政と共に切腹している。

いずれにせよ小田原合戦前後の記録に、浄福寺城は一切出てこない。氏照が主力勢を率いて小田原城に入っていたこともあり、残る兵力では八王子城を守るのに精いっぱいだったからで、おそらく捨て城とされていたと思われる。

徳川家康の関東入封後、浄福寺城は廃城となり、長い眠りに就くことになる。

その役割と構造

image by PIXTA / 38412392

浄福寺城の南を流れる北浅川は、千手山の南西端の尾根先端部に当たって流路を南に変え、八王子城外郭部の竪堀の終端部に再び当たることで、今度は北西に流路を変えていく。つまり千手山の南西端の尾根と八王子城の外郭部の竪堀は、北浅川を介して一直線になっている。

これが、西から和田峠(案下峠)を越えてやってくる仮想敵の武田氏(後には徳川氏)に対する防衛線になっていたという説がある。つまり八王子城搦手と浄福寺城は、一体化とまではいかないまでも、古案下道を南北から連携して防衛、ないしは遮断することを目的としていたと分かってくる。

ちなみに古案下道は、甲斐国から小仏峠を越えて関東に入る小仏道が開発されるまでの甲斐国と関東を結ぶ主要道であり、永禄12年(1569)の武田信玄の関東侵攻直前、北条家中でやり取りされている書状などから、極めて重視されていたと分かる。

また一説に、浄福寺城はこの侵攻の直前に築かれたという説もあるが、その構造から検討すると、この城が街道封鎖だけを目的としたものではないと分かる。つまり、この城単体でも立て籠れる城であり、国人の詰城と考えるべきだろう。

では、城の構造を見ていこう。

この城の特徴は痩せ尾根を無理に削平して曲輪にしている点にあり、居住性は極めて悪い。それゆえ山麓居館とセットと考えるのが自然だろう。

構造的な特徴としては、五筋の痩せ尾根(支尾根を入れると、もっと多くなる)を細かく掘り切り、狭小な曲輪を段状に造り、遮断に徹している点が挙げられる。つまり尾根伝いに登攀してくる寄手に対し、狭い尾根筋を逆に強みにして防御し、劣勢となれば先端部から曲輪を捨てていくという防御法が取れるのだ。戦術的には「反撃して寄手を撃退する」ないしは「特定の曲輪を死守する」という考え方ではなく、「尾根筋を上部へと後退していく」という防御方針でいたのだろう。

いわばこの城は「守り抜く」ことを目的としたものではなく、「時間を稼いで外部からの救援を待つ」という構想の下に造られたのだろう。おそらく緊張時でも、常備兵力はせいぜい100程度だったと思われるので、手足(尾根の先端部)から徐々に切り落としていき、八王子城からの後詰を待つつもりでいたはずだ。

このように、この城は尾根筋を刻んで造った典型的山城なので、縄張りについて語るところは少ない。つまり何か工夫があるとしたら、縄張りよりもパーツにある城だからだ。

かといってつまらない城かというと、そういうことはなく、城道が見渡せる櫓台、尾根道にいくつもある堀切や虎口、寄手の迂回を阻止する竪堀、寄手の進撃ルートを限定する切岸といった技巧に溢れている。

例えば本曲輪付近の見通しのよい道で、寄手に城方を右側に見せることで、弓矢や鉄砲による攻撃をしにくくさせている場所がある。

人は右利きが大半なので、矢を射るにしても鉄砲を撃つにしても、こうした道では体を開かねばならなくなる。こうなると城方にとってはターゲットが大きくなる上、寄手の動きが鈍るというメリットが生まれる。

しかも尾根の随所に、「勢隠し」のように狭い平場が設けてある。こうした平場に数名の兵を籠らせ、敵の登攀を邪魔する思惑だったのだろう。また寄手が横に動きやすい地形などは、しっかり竪堀を落とし、緩斜面には三本の連続竪堀を落としている箇所もある。緩斜面での竪堀は、連続畝状阻塞と呼んだ方がいいかもしれない。

山城であっても、こうした考え抜かれた技巧に溢れているのが浄福寺城の特徴で、そうしたことから創築者は大石氏でも、北条氏の城となってからは、築城経験の豊富な北条氏の築城家が、こまめに手を入れていた可能性が高い。

この城の登城口は現在二つある。一つは浄福寺の墓地から観音堂を経て西から本曲輪を目指すルート。もう一つは恩方第一小学校を回り込んで民家の間から登るルートだ。こちらは東端から本曲輪を目指すことになる。私は二度ほどこの城に行き、両方のコースを試したが、後者の方が全体を回りやすいと思う。双方共に傾斜が厳しく、それほど生易しい登攀ではないが、それだけでも寄手にとって厳しかったはずだ。

本曲輪は、こうした城には珍しく30m四方ほどの広さがある。中央部に土壇があるのは、かつてここに千手山の語源である千手観音が祀られていたからだという説がある。ただし本曲輪に設けるものとしては不自然な土壇なので、廃城となった後の江戸時代、地域の人々が地主神を祀るために、ここに土を盛ったと考えるのが妥当だろう。

浄福寺城は急峻な山城だが、手の込んだパーツが連続している上、その土木量も、この手の山城としては多い方だ。こうした地形的に制約の多い城でも、工夫次第で堅城足り得るのだ。それを知る意味でも、ぜひ訪れてほしい。

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歴史歴史作家の城めぐり

八王子城の搦手防衛線を担う小技の利いた山城「浄福寺城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #5 】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、東京都「浄福寺城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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浄福寺城の位置と歴史

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山城というのは地形に左右されやすく、縄張りとしての面白みに欠ける一面がある。それでも防御パーツを効果的に組み合わせることで、その防御力は格段に上がる。今回は、その典型例である浄福寺城を紹介していこう。

浄福寺城と聞いてピンと来る方は少ないだろう。また隣接する八王子城ではなく、なぜ浄福寺城を取り上げるのかという疑問をお持ちかもしれない。しかし、これまで私は様々な機会を通じて八王子城について書いてきた上、既刊の『城を攻める 城を守る』(講談社現代新書)でも取り上げた。それゆえ今回は、八王子城の搦手防衛線に焦点を当て、その重大な任務の一端を担っていた浄福寺城について書きたいと思う。

浄福寺城は、東京都八王子市の西部にあたる下恩方町にある標高356・4m、比高160mの千手山の尾根沿いに築かれた山城である。その南には、八王子城という北条氏創築の大城郭があるため目立たない存在になっているが、八王子城ができるまでは、甲斐国から関東平野に出るための重要ルートだった北浅川沿いの古案下道(陣馬街道)を扼する重要な城だった。

その名の由来は北麓に新義真言宗の浄福寺があるためで、当時の文書には由井城の名で登場する。確かに由井城の名は、北条氏の永禄年間(1558~1570)の古文書に頻繁に出てくるが、由井城と浄福寺城が同一かどうかについては、結論を急がない方がよいかもしれない。

ちなみに浄福寺城は、別名、新城、松竹城、案下城、千手山城とも呼ばれている。新城は新たに築かれた城だからで(何に対して新たかは分からない)、松竹はその字名から、案下は城の南を通る古案下道から、千手山は浄福寺の山号から取られている。

築城は大永5年(1525)頃で、『新編武蔵風土記稿』という史料に、「大石源左衛門尉入道道俊と云う者当地に居城を構えし」とあるので、創築者は大石道俊入道(定久か)と考えていいだろう。

大石氏は、14世紀末期に武蔵守護職にして関東管領の山内上杉能憲の守護代として歴史の表舞台に登場する。この時の当主の憲重は武蔵・下総両国の守護代を務めるなどして、その権勢は、同じく上野国の守護代を務めていた白井長尾氏と並び立つものだった。

一代挟んでその跡を継いだ憲儀は永享の乱から享徳の乱にかけて活躍したものの討ち死にし、その後継の源左衛門尉(房重か)も古河公方勢力との一連の戦いで討ち死にを遂げた。その源左衛門尉から二代後の当主が、浄福寺城を造ったという定久こと道俊になる。

その後、大石氏は西武蔵に強固な地盤を築いていくが、大永年間(1521~1528)に入ると、小田原北条氏が関東管領の山内上杉氏や相模守護の扇谷両上杉氏の領国への攻勢を強めてきた。

両上杉氏の衰退と小田原北条氏の興隆が天文15年(1546)の河越合戦によって明らかになると、当主の定仲は北条氏に接近していく。結局、岩付城の太田全鑑、勝沼城の三田綱秀(後に裏切って討伐される)、天神山城の藤田康邦といった武蔵国の有力国衆と共に、大石氏も北条傘下に加わることになった。

だが杣保郡だけを領有する三田氏などとは違い、多摩、入間、比企、高麗、新座の五郡を領し、主城の滝山を中心に、戸倉、高月、浄福寺といった支城群を構える西武蔵最大勢力の大石氏は、傘下入りするだけでは済まされなかった。

北条氏三代当主の氏康は、三男(実質次男)の藤菊丸を大石定仲に養子入りさせ、その勢力を漸進的に吸収しようとした。この藤菊丸が後の氏照である。

氏康は大石氏との無用の軋轢を避け、まず西武蔵に古来より根を張る国人の由井氏に藤菊丸を養子入りさせ、その姓を名乗らせた。さらに氏康は、藤菊丸を大石氏の本拠である滝山城に入れず、由井氏館にとどめて大石氏との合議制による領国経営策を推し進めようとした。大石氏の家臣には由井氏の血縁者も多かったとされ、大石姓よりも西武蔵で名の通っている由井姓の方が、勢力の浸透を図るのに好都合だった。

この由井氏館が、浄福寺城ないしは千手山の山麓居館だったという説が有力になりつつある。

その後、氏康は氏照を大石定仲に養子入りさせ、その娘か妹と縁組させた上、永禄元年(1558)頃になって、ようやく氏照を滝山城に入れた。河越合戦から実に10年以上の歳月を経てのことだった。在地国人に対する北条氏の慎重な融和策の一端がうかがえる。氏照は三田氏討伐戦、第二次国府台合戦、第一次・第二次関宿合戦などで指揮官の一人として活躍し、西武蔵の差配と下野・下総方面侵攻の責任者、すなわち北条氏の東部方面軍司令官の座に上っていく。

最終的には四代当主の氏政の片腕として辣腕を振るい、豊臣氏と軋轢が生じた折も、常に強硬論を唱えて決戦を主張したため、小田原合戦が終わった後、氏政と共に切腹している。

いずれにせよ小田原合戦前後の記録に、浄福寺城は一切出てこない。氏照が主力勢を率いて小田原城に入っていたこともあり、残る兵力では八王子城を守るのに精いっぱいだったからで、おそらく捨て城とされていたと思われる。

徳川家康の関東入封後、浄福寺城は廃城となり、長い眠りに就くことになる。

その役割と構造

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浄福寺城の南を流れる北浅川は、千手山の南西端の尾根先端部に当たって流路を南に変え、八王子城外郭部の竪堀の終端部に再び当たることで、今度は北西に流路を変えていく。つまり千手山の南西端の尾根と八王子城の外郭部の竪堀は、北浅川を介して一直線になっている。

これが、西から和田峠(案下峠)を越えてやってくる仮想敵の武田氏(後には徳川氏)に対する防衛線になっていたという説がある。つまり八王子城搦手と浄福寺城は、一体化とまではいかないまでも、古案下道を南北から連携して防衛、ないしは遮断することを目的としていたと分かってくる。

ちなみに古案下道は、甲斐国から小仏峠を越えて関東に入る小仏道が開発されるまでの甲斐国と関東を結ぶ主要道であり、永禄12年(1569)の武田信玄の関東侵攻直前、北条家中でやり取りされている書状などから、極めて重視されていたと分かる。

また一説に、浄福寺城はこの侵攻の直前に築かれたという説もあるが、その構造から検討すると、この城が街道封鎖だけを目的としたものではないと分かる。つまり、この城単体でも立て籠れる城であり、国人の詰城と考えるべきだろう。

では、城の構造を見ていこう。

この城の特徴は痩せ尾根を無理に削平して曲輪にしている点にあり、居住性は極めて悪い。それゆえ山麓居館とセットと考えるのが自然だろう。

構造的な特徴としては、五筋の痩せ尾根(支尾根を入れると、もっと多くなる)を細かく掘り切り、狭小な曲輪を段状に造り、遮断に徹している点が挙げられる。つまり尾根伝いに登攀してくる寄手に対し、狭い尾根筋を逆に強みにして防御し、劣勢となれば先端部から曲輪を捨てていくという防御法が取れるのだ。戦術的には「反撃して寄手を撃退する」ないしは「特定の曲輪を死守する」という考え方ではなく、「尾根筋を上部へと後退していく」という防御方針でいたのだろう。

いわばこの城は「守り抜く」ことを目的としたものではなく、「時間を稼いで外部からの救援を待つ」という構想の下に造られたのだろう。おそらく緊張時でも、常備兵力はせいぜい100程度だったと思われるので、手足(尾根の先端部)から徐々に切り落としていき、八王子城からの後詰を待つつもりでいたはずだ。

このように、この城は尾根筋を刻んで造った典型的山城なので、縄張りについて語るところは少ない。つまり何か工夫があるとしたら、縄張りよりもパーツにある城だからだ。

かといってつまらない城かというと、そういうことはなく、城道が見渡せる櫓台、尾根道にいくつもある堀切や虎口、寄手の迂回を阻止する竪堀、寄手の進撃ルートを限定する切岸といった技巧に溢れている。

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人は右利きが大半なので、矢を射るにしても鉄砲を撃つにしても、こうした道では体を開かねばならなくなる。こうなると城方にとってはターゲットが大きくなる上、寄手の動きが鈍るというメリットが生まれる。

しかも尾根の随所に、「勢隠し」のように狭い平場が設けてある。こうした平場に数名の兵を籠らせ、敵の登攀を邪魔する思惑だったのだろう。また寄手が横に動きやすい地形などは、しっかり竪堀を落とし、緩斜面には三本の連続竪堀を落としている箇所もある。緩斜面での竪堀は、連続畝状阻塞と呼んだ方がいいかもしれない。

山城であっても、こうした考え抜かれた技巧に溢れているのが浄福寺城の特徴で、そうしたことから創築者は大石氏でも、北条氏の城となってからは、築城経験の豊富な北条氏の築城家が、こまめに手を入れていた可能性が高い。

この城の登城口は現在二つある。一つは浄福寺の墓地から観音堂を経て西から本曲輪を目指すルート。もう一つは恩方第一小学校を回り込んで民家の間から登るルートだ。こちらは東端から本曲輪を目指すことになる。私は二度ほどこの城に行き、両方のコースを試したが、後者の方が全体を回りやすいと思う。双方共に傾斜が厳しく、それほど生易しい登攀ではないが、それだけでも寄手にとって厳しかったはずだ。

本曲輪は、こうした城には珍しく30m四方ほどの広さがある。中央部に土壇があるのは、かつてここに千手山の語源である千手観音が祀られていたからだという説がある。ただし本曲輪に設けるものとしては不自然な土壇なので、廃城となった後の江戸時代、地域の人々が地主神を祀るために、ここに土を盛ったと考えるのが妥当だろう。

浄福寺城は急峻な山城だが、手の込んだパーツが連続している上、その土木量も、この手の山城としては多い方だ。こうした地形的に制約の多い城でも、工夫次第で堅城足り得るのだ。それを知る意味でも、ぜひ訪れてほしい。

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