
教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。
この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)
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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)
江戸城の新しい発見

平成29年(2017)2月、城郭史を塗り替えるほどの画期的な発見が、島根県松江市から伝えられた。松江歴史館に所蔵されていた「極秘諸国城図」74枚の中に、「江戸始図」と呼ばれる徳川家康時代の江戸城の絵図が見つかったのだ。これは慶長12年(1607)頃の江戸城を描いたものとされている。
江戸城は二代秀忠と三代家光が改修を重ねており、これまでは、家光時代の江戸城の姿が「江戸図屏風」によって分かる程度だった。しかし「極秘諸国城図」には、初期江戸城の姿が比較的正確に記されていた。
「極秘諸国城図」は松江藩士の誰かが藩主の軍学の勉強用にそろえたとされ、戦国時代末期から江戸時代初期の城造りがいかなるものだったかを歴代藩主に学ばせるべく、代々引き継がれてきた。
家康の江戸城を推定する手掛かりとしては、「慶長江戸絵図」という慶長13年(1606)頃の江戸城を描いた絵図がある。だがこれは概念図でしかなく、細部について歪みが生じており、推測を交えずに本来の姿を描き出すのは困難だった。しかし「江戸始図」の発見により、江戸城の中心部、天守、門、石垣などを正確に読み取れるようになった。
それでは、家康の江戸城の特徴はどこにあるのだろう。
家康が江戸城を築いた時代は、いまだ大坂で豊臣秀頼が健在だった。つまり軍事的緊張が続いていた時代で、それが「江戸始図」の発見によって、家康が籠城戦を念頭に置いた最強の城を造ろうとしていたことが分かったのだ。
最も分かりやすい発見は、大天守に複数の小天守を多門櫓で接続した連立式天守という点だ。しかも大天守の高さは、姫路城が47mなのに対し、江戸城はなんと68mもあったというから驚きだ。小天守もそれに比例して大きかったに違いない。
続いて、本丸大手が連続外桝形になっていたこともはっきりした。
桝形とは城門と城門の間に狭い空間を設け、そこに敵を誘い込んで土塁や石塁上から敵を狙い撃つ仕掛けのことだが、この時代、四角いものはすべて枡と呼ばれたことから、この空間は桝形と呼ばれるようになった。
今回、本丸の南側に外桝形が5つも連続していたことが分かった。熊本城も5つの連続した桝形があるが、それが中核部のスペースを著しく狭くしていた。そこから学んだのか、江戸城の場合、本丸のスペースを侵食しないように、桝形を外周部に築いていくという工夫がなされている。
3つめは、本丸の搦手にあたる北側に、丸馬出を3つも重ねていた点だ。馬出は東国の有力大名の武田氏や北条氏が好んだ攻防兼備の防御施設だが、丸馬出というところに、武田氏の旧臣を多く召し抱えていた徳川氏の特徴が表れている。
太田道灌の江戸城

東西5・5㎞、南北4㎞、周囲14㎞(2位の小田原城は9㎞)という途方もない広さを誇る徳川期江戸城は、名実共に日本一広い平城であり、その建築物の多さや豪奢な点でも他の追随を許さないものがあった。今回の発見では、それに加えて強靭さでも堂々たる1位であることが証明された。
それでは江戸城の歴史を振り返ってみよう。
長禄元年(1457)、太田道灌によって築城されたのが江戸城の始まりとされるが、それ以前の12世紀初頭、この地を鎌倉幕府から拝領した秩父重継の館があったとも言われる。
その後、江戸の地は秩父氏の名跡を継承した江戸氏の本貫地となり、江戸氏が没落した後、扇谷上杉氏の所領となっていた。享徳の乱の折、古河公方勢力の攻勢を押しとどめるべく、河越・岩付両城と共に取り立てられたのが江戸城である。築城は太田道灌と言われてきたが、扇谷家の宿老たちと共に築いたというのが最新の定説となっている。
当時の江戸は日比谷入江が大きく入り込んでおり、その東側に半島状の前島と呼ばれる砂州が広がり、入江の最奥部に平川の河口があった。
江戸城は、隅田川、荒川、入間川が江戸湾に注ぐ河口付近の高台にあり、さらに城の東を流れる利根川と太日川という2大河川の出入口を管制する役割を果たしていた。つまり日比谷入江を通って江戸湊まで運ばれてきた荷は、いずれかの河川を使って関東内陸部へと運ばれていった。
海路だけでなく陸路でも、江戸は浅草や松戸を経て水戸まで抜ける鎌倉街道下道、中野を経て岩付、古河、宇都宮に向かう同中道、府中を経て甲斐まで抜ける古甲州道の合流点に位置していた。つまり江戸城を押さえることは、江戸湾だけでなく関東の大半を押さえることにつながっていた。
道灌の江戸城は平川の造り出す30mの河岸段丘上に築かれ、子城、中城、外城の3つの曲輪から成っていた。
城の高さは30mあって、周囲を覆う垣(板塀のようなもの)は数十里に及び、その外側には満々と水をたたえた堀があった。門は25もあり、それぞれに跳ね橋が架かっていたという記録がある。
道灌の江戸城の正確な位置だが、現在の北の丸から本丸に続く台地上にあったと考えるのが妥当だろう。
また同等の大きさの3つの曲輪から成っていたことも、万治3年(1660)に書かれた『石川正西聞見集』の記述にある「家康公入城以前の江戸城は本丸のほかに二つの曲輪があり、これを一つにまとめて(家康の江戸城の)本丸にした」という記述と一致する。
子城には、道灌が「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高根(高嶺)を 軒端にぞみる」という歌を詠んだ静勝軒という居館があり、その東に泊船亭、西には含雪斎という楼閣建築群があったとされる。
ちなみに静勝軒という名は、「尉繚子」の「兵は静を以ってすれば勝ち」という一節から取られている。
これらの楼閣建築物の背後には高櫓があったとされるので、それが天守のようなシンボルの役割を果たしていたのだろう。
城下町には大小の蔵が立ち並び、城門の前には常設の市が立ち、床店(常設店舗)も姿を見せ始めていた。ここが平河宿と考えられる。江戸湊には多くの商船が集まり、交易も盛んに行われていたという記録もある。
こうしてわずかに残された道灌の江戸城の様子を再現してみると、これまでのイメージとは異なる繁栄に沸く中世城郭都市が浮かび上がってくる。
しかしその後、北条氏の時代になると、軍事拠点としての江戸城の記述は多くなるものの、その姿を記したものは少なくなる。
小田原合戦で秀吉が関東を制した時の記録によると、石垣はなく、すべて芝土手(土塁)で、城内の建物もすべて板葺きで破損がひどく、土間ばかりの田舎屋だったという(「落穂集」)。
しかし北条氏末期の実質的江戸城主は氏政であることから、重要拠点の一つとして重視され、奥羽と関東を結ぶハブとして栄えたという事実もあることから、そこまでひどくはなかったと思われる(一説に「落穂集」が描いているのは民に乱取りされた後の様子だという)。
家康の江戸城

天正18年(1590)、家康は三河・遠江・駿河・信濃・甲斐5カ国を豊臣政権に返上し、関東へと移封される。北条氏の遺領にそのまま入る形だ。
秀吉の思惑は別にしても、これにより在地性が強かった三河武士団が根無し草にされ、家臣団を再編成できたことは、家康にとってプラスに働いた。
元々、徳川家臣団は独立性が強い上に既得権益を主張することが多かったが、それもなくなり、家康と徳川家に対して忠節を尽くすようになる。
同年8月1日、家康は江戸入りを果たす。本拠を江戸にしたのは秀吉からの勧めがあったからとされるが、もちろん家康本人も「江戸には小田原や鎌倉にない舟入(日比谷入江のこと)があるので、これから繁栄する」(「石川正西聞見集」)と言ったとされ、すぐに前向きになったと思われる。
関東入部から江戸幕府が開府される慶長8年(1603)までの14年間は、家康が豊臣大名として江戸城に入っていた期間だが、この頃の城の記録はあまりない。240万石の大大名とはいえ、豊臣大名の一人という立場から、北条氏時代の江戸城を大きく改変できなかったのだろう。
それでもこの時期に本丸と二の丸を一つにし、平川の流路を複雑に分岐させて外堀の役割を担わせ、また小河川を堰き止めて、千鳥ヶ淵や牛ヶ淵を造ったと言われる。
慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任する。これにより江戸幕府が創設され、天下普請として江戸城の大改修が始まる。
この普請作事は、最強の軍事力を保持しつつ「徳川公儀の確立」という政治性の極めて高い城を造るという2つの大方針の下に進められた。
天下普請は日比谷入江の埋め立てから始まり、そこに武家地や町人地を造っていった。
作事はとくに大がかりとなり、諸大名が将軍に拝謁する巨大御殿、統治の象徴としての五層の高層天守、屈曲を繰り返す高石垣といった、当時の最高技術を駆使した城造りが始まった。
かくして近世城郭としての江戸城ができ上がった時、徳川政権が安泰になると同時に、戦国時代に終止符が打たれたのだ。
家康の死後、江戸城は軍事的堅固さを弱めつつ、使い勝手のよさを目指した改修が加えられていく。三代家光の時代まで大小の改修は続き、遂に江戸城は完成する。
天守は慶長12年(1607)、元和9年(1623)、寛永15年(1638)の3度上げられたが、それぞれ火災で焼失し、それ以後は二度と上げられなかった。
しかも四代家綱以降は、飢饉や大火災による財政難により、大きな改修を施せなかった。明暦の大火によって、徳川三代が貯め込んできた金銀が溶けてしまったからだ。
最終的に江戸城は、内郭は本丸・二の丸・三の丸・西の丸(上下二段)・北の丸・吹上の7つの曲輪から成り、外郭も造られたが、四代将軍家綱の代になった万治3年(1660)に天下普請は終了した。今日見られる江戸城は、その時代からほとんど変わっていないはずだ。
かくして明治維新を迎え、江戸城の主は徳川家から天皇家へと代わっていくが、江戸城が日本どころか世界最強の城郭であることは未来永劫、変わらないだろう。
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