多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、東京都「石神井城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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歴史作家の城めぐり――戦国の覇権を競った武将たちの夢のあと<特典付電子版> (コルク)

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コルク
伊東潤(著),西股総生(監修)

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城の成り立ち

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城のルーツは縄文時代から弥生時代前期に造られた環濠集落に求められるが、当初の仮想敵は野生動物で、その侵入を防ぐために堀をうがち、土塁を盛り、柵列をめぐらせたのが始まりだという。それが2世紀頃から外敵の侵入を防ぐものに変わっていき、その後、北九州・中国地方に朝鮮式山城や東北地方に城柵といったものが出現しては消えていくことになる。

鎌倉時代には、御家人を中心とした地方豪族(開発領主)の拠点として、方形居館が全国に広がっていく。これらは平地に築かれ、ほぼ正方形の区画で1町(109m)を一辺の長さとしていた。

その後、方形居館は単濠単郭から複濠複郭へと発展していくが、これは周囲の緊張が高まり、防御力を強化する必要性から生じたもので、形式よりも実用性を重んじることで設計自由度が高まり、われわれのよく知る城というものが出現してくる。

南北朝時代に入ると、城は居住性を重視した居館タイプよりも軍事拠点としての性格を濃くしていく。後醍醐天皇が旗揚げした笠置山や北畠顕家が東北支配の拠点とした霊山城、また楠木正成が鎌倉幕府軍を手玉に取った赤坂城と千早城などは、その典型例だろう。

戦の形態も、騎馬武者同士が互いに名乗り合って戦う野戦形式から、明確に寄手と城方に分かれて戦う城郭攻防戦へと、その中心を移していく。

南北朝時代末期、城は交通の要衝に築かれることが多くなる。これが政庁機能を持った守護大名や国人領主の館城である。また利便性と防御性の兼ね合いから、河岸段丘や台地上に造られるものも増えてくる。そうした中、典型的な国人領主の館城から戦国時代初期の城へと発展していく過程で、姿を消した城も多い。

石神井城もその一つだ。この城は、平安時代末期から室町時代中期にかけて、東京の北西部に勢力を広げていた豊島氏の居城の一つで、居館形式から徐々に拡張していった痕跡から、館としての創築は鎌倉時代末期とされている。だが現在見られる遺構は、文明9年(1477)に勃発した長尾景春の乱に呼応した豊島氏が大幅に手を入れた後のものだと考えられる。

開発領主の城

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石神井城は、武蔵野台地の東部を流れる石神井川の中流域にあたる河岸段丘上に築かれている。城のある比高7mほどの段丘は、南を流れる石神井川と北にある三宝寺池の間を分断するように東西に伸びている。つまり石神井川と三宝寺池を堀として利用できる点が、地選の理由だろう。

戦国期の城が台地の先端部に築かれ、背後を掘り切ることで極めて高い防御性を発揮したのに比べて、この城は台地が始まる基部に近い位置に築かれており、舌状台地の先端部に築くことで防御性を高めるというセオリーからは外れている。

おそらく主郭を三宝寺池に突き出た半島状の小台地に築きたいがために、こうした地取りになったと思われるが、そのため東西を掘り切らねばならなくなり、「西限の堀」と「東限の堀」と呼ばれる長大な堀切を2つも築くことになる。

城域は、南北がそれぞれ谷に落ちる斜面で限られているのに対して、東西は堀切によって画定させている。

「西限の堀」は長さ270mという長大なもので、折れは入っていなかったらしい。この堀は住宅地となった今は完全に消滅しているが、昭和28年(1953)まで一部が残っており、その調査記録がある。それによると上幅9mで底幅1mなので、堀底にわずかの平面を持つ箱薬研堀だったと思われる。その東側には土塁が築かれていたが、その基底幅は7mという巨大なものだった。

一方、「東限の堀」の長さは150mで、堀の規模は西のものよりやや小さい。土塁については不明だが、西側のものと同等の土塁が築かれていたはずだ。

豊島氏の歴史と実像

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鎌倉幕府の御家人などに下賜される田畑の大半は未開の湿地で、それを開墾して米や野菜の取れる地にするのは、人口が少ない上に鉄製農耕具の普及が始まったばかりの当時、一大事業だった。そのため御家人たちは自ら開墾した土地に固執し、それが「一所懸命」という言葉まで生み出した。

彼らは武士団という血縁関係を軸とした集団を形成し、外敵の侵入から土地を守っていた。これらの武士団は次第に大きな武士団に吸収され、勢力を拡大していく。桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏と呼ばれる武士団は強力で、とくに秩父氏系は、『吾妻鏡』でもその名がよく見られる畠山・渋谷・河越・江戸・小山田・稲毛・葛西などから成り、関東に強力な地盤を築いていった。

そうした中に秩父平氏の流れを汲み、武蔵国豊島郡を本貫地とした武士団があった。

豊島一族である。

永承6年(1051)から康平5年(1062)に東北地方で戦われた「前九年の役」に、秩父(豊島)二郎武常が参陣することで、豊島氏は歴史の表舞台に登場する。

さらに永保3年(1083)から寛治元年(1087)にわたって戦われた「後三年の役」に、豊島常家が源頼義・義家父子の家人となって参陣することで、豊島一族は源氏との関係を深めていった。

治承4年(1180)の頼朝挙兵の折、豊島清光・清重父子はいち早く頼朝の許に参じ、以後、有力御家人の一つとなっていく。

その後、豊島氏は赤塚・志村・板橋・宮城氏などに分かれ、南北朝時代には、武蔵国西部に強固な地盤を築いていた。

鎌倉幕府滅亡時、豊島氏は新田義貞に与して鎌倉を落とし、鎌倉幕府の滅亡に貢献した。

その後、足利尊氏・直義兄弟の内訌「観応の擾乱」に尊氏方として参陣することで、再び歴史の表舞台に登場する。

南北朝時代後半に相次いで勃発した「永享の乱」「享徳の乱」「結城合戦」にも、関東管領・山内上杉方の一翼を担い、その勢力は拡大していたと思われる。

その後の関東は、古河公方陣営と上杉陣営に分かれて争われることになるが、豊島氏は山内上杉氏家宰の白井長尾氏の組下として活躍し、扇谷上杉氏家宰の太田道灌とも一緒に戦った(道灌が上州館林城を攻略した折、豊島氏も参陣した)。

かくして開発領主として出発し、その後も巧みに時代の荒波をくぐり抜けてきた豊島氏だったが、行く手には暗雲が垂れ込めていた。

長尾景春の乱と豊島氏

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文明5年(1473)、関東管領・山内上杉氏の家宰職にあった白井長尾景信が死去する。だが当主の山内上杉顕定は、家宰職を景信嫡男の景春に継がせず、景春の叔父にあたる忠景に継がせた。この措置は家宰職が世襲と思い込んでいた景春にとって、極めて心外なことだった。これにより長尾景春の乱が勃発する。

文明9年(1477)正月、景春は五十子陣を襲い、これを攻略することで、顕定と相模守護の扇谷上杉定正を東上野まで敗走させる。これにより3月、定正の家宰を務める太田道灌が江戸城より出馬してくる。

これに対して景春方の基本戦略は、「通路切り」と呼ばれる兵站破壊兼後詰妨害作戦だった。

まず、景春率いる主力勢が五十子陣を攻略する。同時に景春与党が相模国で挙兵し、南関東の上杉方与党を引き付ける。

さらに豊島泰明が練馬城で、豊島泰経は石神井城で旗揚げし、江戸城から東上野に向かおうとする道灌を食い止め、その間に、景春の別動隊が扇谷上杉氏の本拠の河越城を攻略するという広域作戦である。

すなわち関東を中央で南北に分断し、上杉方の兵力移動を妨害し、東上野に逃亡している顕定らと江戸城の道灌との連絡を断ち、道灌が豊島氏らに牽制されている間に、景春自ら顕定と定正を討ち取るという目論見だった。つまりこの作戦の成否は、豊島一族に懸かっていた。だが相手は道灌である。

3月下旬、相模国に侵攻した道灌は、瞬く間に相模国の景春与党を一掃すると、4月中旬、豊島泰明の籠もる練馬城に迫った。

この機を捉えて泰明の兄・泰経は石神井城を出撃し、道灌を挟撃しようとした。しかし道灌は練馬城周辺を焼き払って反転し、まず泰経に当たることにした。だが練馬城を出撃してきた泰明が、道灌の後備に襲い掛かった。豊島兄弟の見事な連携作戦である。

しかしこの危機にも道灌は動じず、泰明を江古田原と沼袋で撃破すると、返す刀で石神井城に押し寄せ、4月末頃、これを攻略した。

この合戦で泰明は討ち死にし、泰経は逃亡した。これにより景春の河越城攻略作戦も水泡に帰す。

5月、道灌は用土原と針谷原の野戦で景春率いる主力勢を破り、その勢いで景春の籠もる鉢形城を囲むものの、7月、古河公方の足利成氏が景春支援に乗り出してきたため、翌文明10年(1478)正月、和睦を結んで兵を引く。

ところが、逃亡していた豊島泰経が武州平塚城で蜂起したため、道灌はこれを鎮圧し、さらに泰経が小机城に逃げ込むと、これを攻略して泰経を討ち取った。これにより豊島一族は滅亡する。その後、反旗を翻した景春も本拠の鉢形城を攻略され、長尾景春の乱は終息する。

石神井城の攻防戦が、いかなるものだったのかは記録にない。だが豊島一族がその勢力のすべてを傾け、道灌と戦ったことだけは確かだ。

ここまで慎重に血脈を伝えてきた豊島一族が、なぜ大義のない景春方に与したのかは謎だ(泰経が景春の妹を室としていたが)。しかし、その全力を傾けた戦い方からすると、豊島一族は自らの勢力を過信していた節がある。

かくして戦国時代が黎明を迎える前に、豊島一族は滅亡した。これも典型的な開発領主の宿命だったのかもしれない。

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歴史歴史作家の城めぐり

太田道灌に攻略された開発領主の城「石神井城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #3】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、東京都「石神井城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

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城の成り立ち

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城のルーツは縄文時代から弥生時代前期に造られた環濠集落に求められるが、当初の仮想敵は野生動物で、その侵入を防ぐために堀をうがち、土塁を盛り、柵列をめぐらせたのが始まりだという。それが2世紀頃から外敵の侵入を防ぐものに変わっていき、その後、北九州・中国地方に朝鮮式山城や東北地方に城柵といったものが出現しては消えていくことになる。

鎌倉時代には、御家人を中心とした地方豪族(開発領主)の拠点として、方形居館が全国に広がっていく。これらは平地に築かれ、ほぼ正方形の区画で1町(109m)を一辺の長さとしていた。

その後、方形居館は単濠単郭から複濠複郭へと発展していくが、これは周囲の緊張が高まり、防御力を強化する必要性から生じたもので、形式よりも実用性を重んじることで設計自由度が高まり、われわれのよく知る城というものが出現してくる。

南北朝時代に入ると、城は居住性を重視した居館タイプよりも軍事拠点としての性格を濃くしていく。後醍醐天皇が旗揚げした笠置山や北畠顕家が東北支配の拠点とした霊山城、また楠木正成が鎌倉幕府軍を手玉に取った赤坂城と千早城などは、その典型例だろう。

戦の形態も、騎馬武者同士が互いに名乗り合って戦う野戦形式から、明確に寄手と城方に分かれて戦う城郭攻防戦へと、その中心を移していく。

南北朝時代末期、城は交通の要衝に築かれることが多くなる。これが政庁機能を持った守護大名や国人領主の館城である。また利便性と防御性の兼ね合いから、河岸段丘や台地上に造られるものも増えてくる。そうした中、典型的な国人領主の館城から戦国時代初期の城へと発展していく過程で、姿を消した城も多い。

石神井城もその一つだ。この城は、平安時代末期から室町時代中期にかけて、東京の北西部に勢力を広げていた豊島氏の居城の一つで、居館形式から徐々に拡張していった痕跡から、館としての創築は鎌倉時代末期とされている。だが現在見られる遺構は、文明9年(1477)に勃発した長尾景春の乱に呼応した豊島氏が大幅に手を入れた後のものだと考えられる。

開発領主の城

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石神井城は、武蔵野台地の東部を流れる石神井川の中流域にあたる河岸段丘上に築かれている。城のある比高7mほどの段丘は、南を流れる石神井川と北にある三宝寺池の間を分断するように東西に伸びている。つまり石神井川と三宝寺池を堀として利用できる点が、地選の理由だろう。

戦国期の城が台地の先端部に築かれ、背後を掘り切ることで極めて高い防御性を発揮したのに比べて、この城は台地が始まる基部に近い位置に築かれており、舌状台地の先端部に築くことで防御性を高めるというセオリーからは外れている。

おそらく主郭を三宝寺池に突き出た半島状の小台地に築きたいがために、こうした地取りになったと思われるが、そのため東西を掘り切らねばならなくなり、「西限の堀」と「東限の堀」と呼ばれる長大な堀切を2つも築くことになる。

城域は、南北がそれぞれ谷に落ちる斜面で限られているのに対して、東西は堀切によって画定させている。

「西限の堀」は長さ270mという長大なもので、折れは入っていなかったらしい。この堀は住宅地となった今は完全に消滅しているが、昭和28年(1953)まで一部が残っており、その調査記録がある。それによると上幅9mで底幅1mなので、堀底にわずかの平面を持つ箱薬研堀だったと思われる。その東側には土塁が築かれていたが、その基底幅は7mという巨大なものだった。

一方、「東限の堀」の長さは150mで、堀の規模は西のものよりやや小さい。土塁については不明だが、西側のものと同等の土塁が築かれていたはずだ。

豊島氏の歴史と実像

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鎌倉幕府の御家人などに下賜される田畑の大半は未開の湿地で、それを開墾して米や野菜の取れる地にするのは、人口が少ない上に鉄製農耕具の普及が始まったばかりの当時、一大事業だった。そのため御家人たちは自ら開墾した土地に固執し、それが「一所懸命」という言葉まで生み出した。

彼らは武士団という血縁関係を軸とした集団を形成し、外敵の侵入から土地を守っていた。これらの武士団は次第に大きな武士団に吸収され、勢力を拡大していく。桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏と呼ばれる武士団は強力で、とくに秩父氏系は、『吾妻鏡』でもその名がよく見られる畠山・渋谷・河越・江戸・小山田・稲毛・葛西などから成り、関東に強力な地盤を築いていった。

そうした中に秩父平氏の流れを汲み、武蔵国豊島郡を本貫地とした武士団があった。

豊島一族である。

永承6年(1051)から康平5年(1062)に東北地方で戦われた「前九年の役」に、秩父(豊島)二郎武常が参陣することで、豊島氏は歴史の表舞台に登場する。

さらに永保3年(1083)から寛治元年(1087)にわたって戦われた「後三年の役」に、豊島常家が源頼義・義家父子の家人となって参陣することで、豊島一族は源氏との関係を深めていった。

治承4年(1180)の頼朝挙兵の折、豊島清光・清重父子はいち早く頼朝の許に参じ、以後、有力御家人の一つとなっていく。

その後、豊島氏は赤塚・志村・板橋・宮城氏などに分かれ、南北朝時代には、武蔵国西部に強固な地盤を築いていた。

鎌倉幕府滅亡時、豊島氏は新田義貞に与して鎌倉を落とし、鎌倉幕府の滅亡に貢献した。

その後、足利尊氏・直義兄弟の内訌「観応の擾乱」に尊氏方として参陣することで、再び歴史の表舞台に登場する。

南北朝時代後半に相次いで勃発した「永享の乱」「享徳の乱」「結城合戦」にも、関東管領・山内上杉方の一翼を担い、その勢力は拡大していたと思われる。

その後の関東は、古河公方陣営と上杉陣営に分かれて争われることになるが、豊島氏は山内上杉氏家宰の白井長尾氏の組下として活躍し、扇谷上杉氏家宰の太田道灌とも一緒に戦った(道灌が上州館林城を攻略した折、豊島氏も参陣した)。

かくして開発領主として出発し、その後も巧みに時代の荒波をくぐり抜けてきた豊島氏だったが、行く手には暗雲が垂れ込めていた。

長尾景春の乱と豊島氏

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文明5年(1473)、関東管領・山内上杉氏の家宰職にあった白井長尾景信が死去する。だが当主の山内上杉顕定は、家宰職を景信嫡男の景春に継がせず、景春の叔父にあたる忠景に継がせた。この措置は家宰職が世襲と思い込んでいた景春にとって、極めて心外なことだった。これにより長尾景春の乱が勃発する。

文明9年(1477)正月、景春は五十子陣を襲い、これを攻略することで、顕定と相模守護の扇谷上杉定正を東上野まで敗走させる。これにより3月、定正の家宰を務める太田道灌が江戸城より出馬してくる。

これに対して景春方の基本戦略は、「通路切り」と呼ばれる兵站破壊兼後詰妨害作戦だった。

まず、景春率いる主力勢が五十子陣を攻略する。同時に景春与党が相模国で挙兵し、南関東の上杉方与党を引き付ける。

さらに豊島泰明が練馬城で、豊島泰経は石神井城で旗揚げし、江戸城から東上野に向かおうとする道灌を食い止め、その間に、景春の別動隊が扇谷上杉氏の本拠の河越城を攻略するという広域作戦である。

すなわち関東を中央で南北に分断し、上杉方の兵力移動を妨害し、東上野に逃亡している顕定らと江戸城の道灌との連絡を断ち、道灌が豊島氏らに牽制されている間に、景春自ら顕定と定正を討ち取るという目論見だった。つまりこの作戦の成否は、豊島一族に懸かっていた。だが相手は道灌である。

3月下旬、相模国に侵攻した道灌は、瞬く間に相模国の景春与党を一掃すると、4月中旬、豊島泰明の籠もる練馬城に迫った。

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しかしこの危機にも道灌は動じず、泰明を江古田原と沼袋で撃破すると、返す刀で石神井城に押し寄せ、4月末頃、これを攻略した。

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5月、道灌は用土原と針谷原の野戦で景春率いる主力勢を破り、その勢いで景春の籠もる鉢形城を囲むものの、7月、古河公方の足利成氏が景春支援に乗り出してきたため、翌文明10年(1478)正月、和睦を結んで兵を引く。

ところが、逃亡していた豊島泰経が武州平塚城で蜂起したため、道灌はこれを鎮圧し、さらに泰経が小机城に逃げ込むと、これを攻略して泰経を討ち取った。これにより豊島一族は滅亡する。その後、反旗を翻した景春も本拠の鉢形城を攻略され、長尾景春の乱は終息する。

石神井城の攻防戦が、いかなるものだったのかは記録にない。だが豊島一族がその勢力のすべてを傾け、道灌と戦ったことだけは確かだ。

ここまで慎重に血脈を伝えてきた豊島一族が、なぜ大義のない景春方に与したのかは謎だ(泰経が景春の妹を室としていたが)。しかし、その全力を傾けた戦い方からすると、豊島一族は自らの勢力を過信していた節がある。

かくして戦国時代が黎明を迎える前に、豊島一族は滅亡した。これも典型的な開発領主の宿命だったのかもしれない。

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