歴史歴史作家の城めぐり

東京都内に残る土の大城郭「滝山城」-歴史作家が教える城めぐり【連載 #2】

多くの城が残る日本において、「城めぐり」は、趣味としても観光の一環としても楽しいものです。この連載では、歴史作家の伊東潤氏の著作「歴史作家の城めぐり」から、東京都「滝山城」をお伝えします。

教科書でしか見たことのなかった「城」について、新たな視点が得られるはず。座学だけでなく、興味が湧いたら実際に城に訪れてみることもおすすめします。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けします

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近世城郭と中世城郭の基本的差異

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近世城郭が中世城郭と大きく異なる点として、自然地形への依存度の低下が挙げられる。幕藩体制と大名支配が徹底されている状況下での近世城郭は、普請作事技術(とくに石垣)の発達と絶対権力による労働力の容易な動員によって、より自由度の高い縄張りが描け、豪壮華麗な建造物を築けるようになった。それは隣国との緊張が緩和され、「戦う城」から「見せる城」へ城の存在意義が変わっていくのと並行していた。

一方、中世城郭は限られた時間・労力・資金、そしてそれらを包括する権力構造によって、自然地形への依存度が変わってくる。すなわち大名や国人勢力の大小によって、城の広さ、縄張り、防御法、完成度などが違ってくるのだ。

つまり中世城郭は、大名や国人がどれだけ強固な権力構造を、その地に築けていたかのバロメーターともなる。

滝山城の場合、創築者の大石氏とその所領を乗っ取る形で引き継いだ北条氏の差は大きく(と言っても、大石氏も西武蔵五郡の領主である)、城に対する要求もおのずと違ってくる。

その違いから、城というものが必要とされた一つの側面が見えてくるだろう。

築城の起源と城主たち

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滝山城こそ山城の醍醐味を知るにはうってつけの城だ。しかも都心からのアクセスがよい上、都立滝山公園として整備がなされているので、初心者でも見学しやすい。

この城は、16世紀前半に関東管領・山内上杉氏の家臣の大石氏によって築かれたと言われる。大石氏は西武蔵五郡(多摩・入間・比企・高麗・新座)を勢力下に収める国人だった。

これだけの所領を持つ国人は山内上杉傘下でもおらず、家宰の白井長尾氏に次ぐ勢力を保持していた。

大石氏は多摩川河畔に築かれた本拠の滝山城を中心に、戸倉・高月・浄福寺といった支城群を有する戦国大名と呼んでも差し支えない勢力基盤を有していた。ただし、これらの支城は発掘調査がなされていないので、大石氏の時代に支城として機能していたかどうかは不明である。

天文15年(1546)、北条氏が河越合戦で勝利することにより、相模国守護の扇谷上杉氏は滅亡し、古河公方と山内上杉氏の勢力は衰退していく。

かくして北条氏の勢力伸長の前に膝を屈する形で、大石氏はその傘下に入り、北条氏三代当主氏康の三男・氏照を養子に迎え入れる。

同様に武蔵国北部の秩父郡や大里郡を治める藤田氏の許には、五男の氏邦を養子入りさせ、北条氏は両氏の勢力の吸収を図っていく。

ところが、多摩川上流域の青梅や奥多摩地方に根を張る三田氏は、越後国守護代の長尾景虎(上杉謙信)の支援をあてにして徹底抗戦を続けていた。これに業を煮やした氏康は、氏照に三田氏討伐を命じた。

三田氏が北条氏に反旗を翻した理由は定かでないが、森林資源をめぐっての軋轢ではないだろうか。この地域の経済活動の根幹は森林資源にあり、三田氏はこの財源を守りたかったのだ。

三田氏の領国で伐り出された木材は多摩川によって下流に運ばれ、江戸湾や相模湾に面した各地で売りさばかれていた。そこで氏照は、多摩川を下ってくる木材を滝山城の線で分捕ることで三田氏を経済封鎖し、永禄4年(1561)、三田氏を滅ぼすことに成功する。

つまり滝山城は、多摩川河畔に築かれているという利点を生かし、関城的な役割を果たしたのだ。

これにより三田氏の所領、すなわち多摩川上流部まで制した氏照は、多摩川が注ぐ江戸湾と相模湾を経由して小田原を結ぶという輸送ルートを確立し、その経済力によって強固な勢力基盤を築いていく。

また小田原にいる氏康にも、ふんだんに木材が入手できることになり、城や家臣団の屋敷はもちろん、寺社の作事にまで主導権を握ることができ、その支配力を強めていくことにつながっていった。

三田氏を滅ぼすという大功を挙げた氏照によって、滝山城は天正9年(1581)〜10年(1582)頃にかけて、大幅な改修が施された。その結果、小田原城の支城でありながら、大石氏時代の3倍から4倍の城域を持つ大要害となった。

これは、滝山城が西の強国・武田氏と国境を接していることから、多くの兵員を籠もらせることを想定していたからだと思われる。

すなわち氏照には、滝山城とその支城群を駆使し、武田氏の侵攻を食い止めるという困難な使命が託されていた。その結果、四代当主の氏政の時代には、北条氏全体で230万〜280万石のうち60万石が氏照の所領となる。

防衛方針と防御法

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滝山城は多摩川を北方眼下に望む河岸段丘上に築かれている。この河岸段丘は加住丘陵と呼ばれ、滝山城はその北半分に築かれていた。つまり「後ろ堅固」というのが、第一の特徴になる。

その縄張りは、本丸の三方を取り囲むように中の丸、二の丸、千畳敷、小宮曲輪が配され、それらの外側を横堀が囲んでいる構造になる。すなわち横堀で外郭ラインを設定し、まず寄手をそこで防ぎ、外郭ラインを破られても考え抜かれた縄張りによって粘り抜き、外部からの支援を待つという防御プランである。

最高所の本丸は標高で170mあるものの、比高は丘城の域を出ず、一見しただけでは要害堅固には見えない。とくに多摩川に面した北東部分を除くと、さほど高低差はなく、無理押しすれば攻め落とせそうな気もする。

ところが横堀で造られた外郭ラインは突破できても、二の丸から先に進むのは容易なことではない。

二の丸は本丸と中の丸の前衛を成し、なおかつ東・西・南に延びていく尾根の結節点になっている。つまり二の丸を攻略できるか否かが、この城を落とせるかどうかの鍵になる。

まず氏照は二の丸の前方に大馬出を設け、大手道を登ってくる敵が二の丸へ接近するのを阻み、さらに大馬出が制圧されても、二の丸の三方に造られた桝形虎口で防ぐという防御法を編み出した。二の丸の3つの虎口は、馬出と内桝形を組み合わせ、道を屈曲させて敵の侵入速度を弱めるという念の入りようである。

もしも兵力差のある敵に攻められた場合、最初から二の丸の外側にある曲輪の防御をあきらめ、二の丸の線で防ぐことまで氏照は想定していたかもしれない。というのも籠城戦というのは時間との戦いであり、外部の味方が駆け付けてくるまで耐え抜けば、自力で敵を撃退できずとも、城を守るという目標が達成できるからだ。

つまり縄張りとは、どこで時間を稼ぐかを考えることであり、そのためには重要性の低い曲輪を放棄しても、兵力を温存しておいた方が賢明なのだ。

敵が二の丸に迫った時の攻防シミュレーションについては、中田正光氏著『よみがえる滝山城』(揺籃社)に詳しいので、関心のある方は、ぜひそちらを読んでほしい。

この城の特徴と見どころ

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すでに記したように、馬出や桝形虎口によって二の丸で敵を撃退するという防御法が徹底されているところに、この城の特徴の一つがある。だがそのほかにも、この城には大技と小技を融合したパーツがいろいろある。

大技としては、幅20〜25m、高さ10〜15mの大きな堀が代表的遺構だが、堀の屈曲によって横矢を掛けたり、障子堀で堀の中の動きを制約したり(小宮曲輪の外側の堀には障子がある)、敵の攻撃経路を想定し、城方からの死角をなくすといった小技も満載なのだ。

それでは城に攻め入ってみよう。

大手口は南正面の古甲州道(滝山街道)に面している。ここから緩やかな坂を上り始めると、左手に小宮曲輪、右手に三の丸に挟まれた大手道に出る。ここを攻め上れば相当の損害をこうむることになる。そのため小宮曲輪の南西面の堀と並行に走る道を進んでいくことになる。このルートでも本丸に達することはできるが、この道も堀を隔てた対岸から狙い撃ちされるので、とても進めない。

そのため大手道を通り、大馬出から二の丸を攻撃という経路に進まざるを得なくなる。だが前述のように、それは寄手にとって大きな損害を覚悟せねばならない。

城の外郭部にも目を向けてみよう。

東西800mにわたる遺構が明確に残るエリア以外にも、実は外郭として使われていた曲輪がある。例えば北東部の山の神曲輪と呼ばれている一帯には、土塁囲みの堡塁を胸壁で連結させたような構造がある。こうした構造は山中城の岱崎曲輪や韮山城の主郭背後にも見られるもので、天正10年代の北条氏の築城法の一つと考えられる。

これまで近隣に住む人々の避難場所だったと言われてきた外郭だが、こうして丹念に調べて比較研究することで、新たな知見が得られることがある。

実戦で効果を発揮した二の丸集中防御法

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永禄12年(1569)、前年に甲相駿三国同盟が破綻し、武田氏と手切れとなった北条氏は、信玄の侵攻を受けることになる。その時、攻撃目標の一つとなったのが滝山城だった。

この時の攻防の詳細は軍記物でしか伝えられていないが、城方は二の丸まで攻め込まれたものの、構想通りに寄手の撃退に成功している。

だがこの時、武田氏傘下の小山田氏によって小仏道が開発され、滝山城を経ずして小田原まで侵攻できることになったため、滝山城の存在意義が低下していく。また二の丸集中防御法では兵員の損耗が激しいためか(鉄砲が普及し始めたこともある)、氏照は本拠を標高430mの八王子城に移すことにした。

天正18年(1590)の小田原合戦では、氏照は本拠の八王子城を家臣に任せて小田原城に籠もった。そのためか八王子城は無残な落城を遂げ、小田原城も降伏開城する。氏照は前当主の氏政や2人の家老と共に自害し、北条氏は滅亡する。

小田原合戦の時、滝山城がどのような役割を果たしたのか、史料は語らない。おそらく捨て城とされて、一帯の兵という兵は八王子城に籠もらされたのだろう。

いかに素晴らしい縄張りを持つ大要害であっても、新道の開通や鉄砲の普及といった外的要因によって急速に存在意義を失うことがある。城の占地や縄張りの巧妙さが永続することの難しさを、滝山城は教えてくれている。

この記事は「歴史作家の城めぐり」から内容を抜粋してお届けしました

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