
2-5、ラスプーチン、政治にも介入
アレクサンドラ皇后の信頼を勝ち得たラスプーチンは、皇后を通じて皇帝へのアドバイスも行うようになりました。アレクサンドラ皇后は何でも彼に話したようですが、当時の政治家で後に歴史家となったパーヴェル・ミリュコーフは、ラスプーチンが政治に影響力を持ったのは、1914年5月頃ということ。
ニコライ2世は前線の視察に行き、政務をアレクサンドラ皇后が代行するようになると、皇后はラスプーチンに手紙や電話などでもアドバイスを求め、ラスプーチンの言う通りに大臣を起用したリ罷免したのでした。
「現在のロシアは、狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と言われるようになり、ラスプーチン暗殺の企てもされ、アレクサンドラ皇后はドイツのスパイ呼ばわりと、もはやカオス状態。
1914年6月29日、ポクロフスコエ村に帰郷中のラスプーチンは、自宅でキオーニャ・グセヴァという女性に短剣で腹部を刺されて重傷を負うという暗殺未遂事件も勃発。
2-6、ラスプーチンとアレクサンドラ皇后
アレクサンドラ皇后は夫以外にはほとんど相談相手がいなかったようでした。
たしかに女官たちや侍医、子供たちの家庭教師など、まわりには大勢の人に囲まれていましたが、身分制度のきっちりした世界では、雇い人に心を許せない気持ちを持っているため、心の内を話せる相手がいなかったのですね。
そういう孤立したアレクサンドラ皇后の格好の相談相手として、ラスプーチンが入り込んだのです。ラスプーチンは何といっても元は農民ですから、大変素朴な言葉づかいで(よく言えば)気取らない態度で皇帝一家に接していたよう。こういう高位の人々は、自分におもねったり利用されることが多くて、自分という人間が好きで近づいてくるのか、自分の地位のために何かメリットを目当てで親しくしたいのかと、常に警戒しているということですが、ラスプーチンの敬語とかも使わず礼儀作法もなっていない態度が、逆に新鮮に思えて警戒を解いてしまったのでしょうね。アレクサンドラ皇后のような立場の人間は推察するに、なかなか相手を信頼しないが、一度心を許せばとことん信頼するという純粋さを持っているので、騙されやすいはず。
祈禱僧という肩書を持ち、ヒーリング能力を持つラスプーチンは、信心深いアレクサンドラ皇后の心をつかんだのでしょう。
2-7、反ラスプーチン派のラスプーチン評
暗殺に加わったドミートリ―大公の姉でニコライ2世の従妹、しかもアレクサンドラ皇后の姉エラ大公妃に育てられて皇帝一家とも親しかったマーリア大公女の回想によれば、反ラスプーチン派からは、「子供の病気で神経をすり減らして廃人同様だった皇后につけ込んで、ずる賢くも自分がいなければ皇太子は生きながら得ないと連発して皇后の心をがんじがらめにして、皇后に対する影響力で自分の力をより誇示しようとした」「物事を見極める力がない分際で、自分の力を賭けようとしていた」とみられていました。
マーリア大公女はまた、「1916年にはロシア国民は非難と不満に蝕まれるあまり、ラスプーチンにすべての責任を転嫁しようとしていた」とも言い、「ラスプーチンの直接的間接的影響で陥れられたロシアの窮地のすべてが、ロシア農民の上流階級への復讐のように思われてならない」とも。
3、ラスプーチン、暗殺される
By unknown, the picture was taken highly about hundred years ago – http://s1.stc.all.kpcdn.net/f/4/image/78/58/745878.jpg, CC0, Link
1916年12月17日、ラスプーチンはフェリックス・ユスポフ公爵(ニコライ2世の姪の夫)らによって暗殺されました。しかし、主犯がロシア有数の大貴族や皇族(皇帝の従弟)のドミトリー大公らだったので、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかったということ。またソビエト連邦成立後に、捜査資料の大半が散逸したためにラスプーチン暗殺の詳細はいまだに不明な点が多く解明されていません。
ユスポフ公爵はモイカ宮殿の新築祝いのパーティーと称して、ラスプーチンが会いたがっていた美人と評判の妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかして招待。
ユスポフは、ラスプーチンに青酸カリ入りの毒菓子、マデーラ酒などを与えるも、まったく死なず。ついにピストルで心臓を撃ったがだめ、さらに頭部を撃たれて暴行を加え、これで死亡したと思い、橋の上から簀巻きにして落とし、凍っていたネマ川に捨てた、そして発見されて解剖後にわかった死因は溺死だった、という話は有名なのですが、実際には、ラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで毒物は検出されなかったということです。青酸カリは保存状態が悪いと無毒になるということもあり、ラスプーチンが殺されても殺されても死ななかったという話も誇張されたもののよう。
ラスプーチンの死を知らされたアレクサンドラ皇后は嘆き悲しみ、娘たちと共に葬礼を営みツァールスコアセロー宮殿の秘密の場所に埋葬。ユスポフらは英雄視されたが、アレクサンドラ皇后の怒りはおさまらず、ユスポフは領地で監禁、ドミトリ―大公はペルシャ戦線に監視付きで送られ、結果的に革命を生き延びて亡命出来たのは皮肉。
ユスポフ公爵はロシア有数の大富豪でしたが、素行があまり良い人物ではなくて、革命後も亡命して生き延びて自らの手柄を吹聴していたということです。
4、ラスプーチンの予言
真偽不明ではありますが、ラスプーチンはヒーリング能力だけでなく、予言もしているのですね。
1916年にはすでに「私は来年(1917年)1月1日迄に今世を終えるだろう。そして私を暗殺するのがロマノフ王朝の手の者であれば、一族で2年以上生きる者はいないだろう」
というのが有名ですが、もうひとつ
「バッテンブルグ家の出身者がイギリス国王に即位すれば、それが最後のイギリス国王になるだろう」
というのもあります。
これは今では偽アナスタシアと決定されてしまったアンナ・アンダーソンが、ラスプーチンから聞いたということ。
アレクサンドラ皇后はバッテンブルグ家(現在はマウントバッテンと改名)をよく思っていなかったということで、それを聞いたラスプーチンが予言したのですが、まだマウントバッテン家の出身であるフィリップ殿下とエリザベス女王との結婚前のことです。
ジェイムズ・ブレア・ラヴェル(著), 広瀬順弘(訳)「アナスタシア 消えた皇女」参照
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