
2-1、ラスプーチン、ぺテルスブルグへ
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ラスプーチンがペテルブルグへ行ったのは1903年頃で、教会建設の資金集めだったということです。が、ふとしたきっかけから上流階級のサロンへ入り込み、人々を癒したりして次第に「神の人」という評判を高めていきました。
そして皇族で、オカルトティックなものに目がない「黒い姉妹」と言われたモンテネグロ皇女姉妹のミリッツア大公妃とアナスタシア大公妃の熱烈な支持を受けたのでした。
当時は神秘主義が流行
19世紀末期から20世紀初頭の頃は、ヨーロッパやアメリカでは心霊主義とか神秘主義、今でいうところのオカルトやスピリチュアルが大流行していました。
イギリスのヴィクトリア女王が晩年に再婚したとさえ噂があるスコットランド人の馬係のジョン・ブラウンも、女王との恋愛沙汰ではなくて、霊媒師として夫君アルバート公の魂を呼び出していたという説があるほどで、「シャーロック・ホームズ」の作者アーサー・コナン・ドイルも第1次世界大戦で親族が多く亡くなったせいか、晩年は心霊主義にはまったということ。
この時代の上流社会の人々は、心霊会とか、奇跡とか、スピリチュアルなことに夢中になっていたのですね。そしてアレクサンドラ皇后も、最初は女の子ばかりが連続して生まれ、後継ぎの男児がなかなか生まれなかったために、そして次はやっと生まれた皇太子アレクセイが血友病ということで、ラスプーチンが現れる以前からこういうスピリチュアルな世界に浸り、神秘家と呼ばれる人たちに頼っていたそう。
そういうアレクサンドラ皇后のために、親戚でオカルトに熱中していたモンテネグロ皇女姉妹がフィリップ・ヴァショというスイス人の偽神秘家らを紹介し、そしてラスプーチンも紹介したのでした。皇后は、ヴァッショが、「後で私と同じようなものが来る」と言っていたこともあり、ロシア社交界の女性たちが夢中になっていたラスプーチンにすがる気持ちもあったのでしょう。
2-2、血友病を患っていた皇太子アレクセイ
By 不明 – OTMA’s Camera: http://otmacamera.tumblr.com/page/17 Beinecke Library: Romanov Family Album 5, Page 87, Image No. 3 Samoderzhavnaya.ru: Romanov Family Album 5, Page 87, Image No. 3, パブリック・ドメイン, Link
ニコライ2世の皇太子アレクセイは生まれたときから血友病を発症していました。
これはアレクサンドラ皇后の祖母であるヴィクトリア女王から発した遺伝で、アレクサンドラ皇后の叔父や弟もこの病気で亡くなっていたし、ヴィクトリア女王の子や孫など一族の悩みの種だったのですが、当時はこの病気の遺伝については一族のなかでもタブーになっていたそう。もちろんロシア国民にはこの病気のことは知らされていませんでした。
血友病は、ちょっとした怪我でも内出血が止まらないため、当時はなすすべもなく重体に陥るほどで、幼いアレクセイ皇太子を気遣ってアレクサンドラ皇后は精神的に相当参っていたのでした。
2-3、ラスプーチン、アレクサンドラ皇后の信頼を勝ち取る
By Stan Shebs, CC 表示-継承 3.0, Link
アレクサンドラ皇后は、ドイツの小国の公女ですが、母がヴィクトリア女王の王女でイギリスで育てられました。姉のエラもニコライ皇帝の叔父と結婚、それにニコライ皇帝の母はイギリスの伯父エドワード7世の王妃の妹でした。かなり近い親戚のつながりのあるなかで、ニコライ2世がアレクサンドラの美しさに惚れ込んだ末の恋愛結婚だったのです。が、アレクサンドラ皇后は姑で社交的な皇太后と違い、内向的な性格でロシアの皇室の人たちや貴族たちともうまく付き合えず、宮殿の奥深くで夫や子供たちと引きこもった生活をしていたのですね。
ラスプーチンは、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見したということですが、瀕死のアレクセイ皇太子のベッドのそばでラスプーチンが祈祷を捧げて話をしただけで、翌日にはアレクセイの発作が治まり症状が改善したということ。ラスプーチン効果がどういうものであったかと言えば、血友病は精神的に落ち着くと小康状態になること、鎮痛剤アスピリンを用いたのかもとか、催眠術を用いたなどという説がありますが、これが皇帝夫妻の絶大な信頼を得るきっかけとなったことは間違いありません。
以後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び出されて皇太子を癒し、ペテルブルグから離れてシベリアにいるときに皇太子の具合が悪くなったときなどは、電報で知らせを受けたラスプーチンの打った「見かけほど危険ではない、心配無用」という電報の文を見ただけで具合がよくなったなどということもあったそう。
2-4、ラスプーチン、ペテルブルグで寵児に
ラスプーチンは上流階級の女性たちに絶大な支持を受け、時代の寵児のようにもてはやされました。しかし貴族たちのなかには、ラスプーチンが引きこもりがちな皇帝夫妻に容易に謁見できること、またラスプーチンが皇帝夫妻の友人とふるまうことに対して嫉妬心を抱く人たちも。また皇帝夫妻に近いラスプーチンに色々便宜を図らってもらおうと、賄賂などをわたす政治家らもいて、ラスプーチンの豪華アパート(皇后やパトロンが家賃を払ってくれていた)には、金品が山のように持ち込まれていたとか。ラスプーチンも、マデーラ酒やワインを好み、美しい女性に目がないなど派手好きで、賄賂にもらった札束などを無造作に人にあげるなど執着しない態度であったということも、色々なゴシップやスキャンダルのもとになったはず。
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