今回は、怪僧グレゴリー・ラスプーチンを取り上げるぞ。帝政ロシア末期に上流階級の女性たちを魅了し、皇太子アレクセイの血友病を癒して皇后アレクサンドラに信頼され、政治に口出しして大スキャンダルの末暗殺されたが、本当のところはどうだったのか知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔からロマノフ家の最後について調べるのが大好きで、ネット検索で系図をたどって確認も。グレゴリー・ラスプーチンについて昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、5分でわかるようにまとめた。

1-1、本名はグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン

グレゴリー・ラスプーチンは、1869年1月21日にシベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村で農民の子として誕生。ロシア名のファーストネームの後に付くのは父称と言い、父の名をあらわしているので、ラスプーチンの場合は、父の名がエフィムということになります。ラスプーチンは、12歳頃に兄と妹が、そして母も亡くなって父と2人の暮らしになったそう。
尚、ラスプーチンという姓には三叉路と意味があり、そういう場所に住んでいたということ。

1-2、子供時代のラスプーチン

image by PIXTA / 39664639

ロシアの農村部では、「学校は人間をふしだらにして、真の信仰から遠ざける」という考え方があり、教育が重要視されていなかったので、読み書きができなくても普通のことでした。
「怪僧ラスプーチン」マッシモ・グリランディ著によれば、ラスプーチンは子供の頃から馬と話が出来るとか、直感で馬泥棒を当てるという子供で、シベリアの冷たい川でおぼれて(兄は死亡)肺炎になった後、聖母マリア(きれいな奥さん)が見えたなどと言い出すようになったとか。
また、ロシアには昔から日本で言えば托鉢僧のような、聖人(スターレツ)と呼ばれる放浪する修行僧がいました。彼らは各地を巡礼して歩き一宿一飯を乞い、代わりに説話や予言をしたり、不思議な力で病を癒すことも(もちろん中には単なる浮浪者や詐欺師も)。ラスプーチンは村にこういう修業僧が来ると話を聞きたがり、彼らに憧れていたということです。

1-3、ラスプーチンは19歳で結婚、そしてお告げを聞いて巡礼の旅に

1887年に、19歳のラスプーチンはポクロフスコ近くの修道院に参加して、そこで会った2歳年上の女性プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚。
1892年、ラスプーチンは「聖母マリアが何かを伝えようとしていた、天のお告げだ」と言い出して、ギリシャを目指す巡礼の旅に出、聖地を訪れたということ。巡礼から戻っときには別人のように容貌が変わっていて、ヒーリングや予知能力、透視といった特殊能力を身につけていたのでした。そして家に礼拝堂を作り、病人を癒したり説話をしたりすることで、多数の人が集まってきたということです。

1-4、ラスプーチンは青年期より「鞭身派」を信仰

「鞭身派」は神の許しを得続けるためには罪を自ら犯す必要があるという教義を説いている、いわゆる異端とされている宗派でした。(罪を犯す=淫楽に溺れる)ラスプーチン自身の宗教的理論というのは、「人間は誰もがキリストであり、お互いに愛し合わねばならない。神が男性、肉体的欲望その他のものをつくられた。この欲望を満たす事がどうして罪を認められようか」という、まさかの「性的欲望」を正当化した理論だったわけです。
人間、普通に生きていても小さな嘘をついたりごまかしとか、何かしら罪を犯しているので、それについて神様に許しを乞い、悔い改めて襟を正して生きるのが信仰深い人の姿なのですが、わざわざモーゼの十戒にもある罪を犯して神様の許しを得るって、どうみてもおかしい宗派ですよね。

1-5、ラスプーチンは30歳で、聖人(スターレツ)に

ラスプーチンは、1903年に再び村を離れて数か月の巡礼の旅に出かけましたが、そのときにキエフのペチェールシク大修道院へ、そしてカザンでは司教や上流階級の人々に会って注目を集めたということ。この年はペテルブルグ建都200年で記念行事があったのですが、皇帝夫妻がサーロフ修道院に巡礼に出かけたとき、「長く待ち望んでいるロシア皇帝の後継者の誕生は、1年とかからないだろう」と翌年の皇太子アレクセイの誕生を予言した聖人(スターレツ)が、ラスプーチンだったと言う説も。

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2-1、ラスプーチン、ぺテルスブルグへ

Rasputin-PD.jpg
By Karl Bulla - Transferred from en.wikipedia to Commons by User:Innotata using CommonsHelper. Originally uploaded to Wikipedia by User:Bobak., パブリック・ドメイン, Link

ラスプーチンがペテルブルグへ行ったのは1903年頃で、教会建設の資金集めだったということです。が、ふとしたきっかけから上流階級のサロンへ入り込み、人々を癒したりして次第に「神の人」という評判を高めていきました。
そして皇族で、オカルトティックなものに目がない「黒い姉妹」と言われたモンテネグロ皇女姉妹のミリッツア大公妃とアナスタシア大公妃の熱烈な支持を受けたのでした。

当時は神秘主義が流行

19世紀末期から20世紀初頭の頃は、ヨーロッパやアメリカでは心霊主義とか神秘主義、今でいうところのオカルトやスピリチュアルが大流行していました
イギリスのヴィクトリア女王が晩年に再婚したとさえ噂があるスコットランド人の馬係のジョン・ブラウンも、女王との恋愛沙汰ではなくて、霊媒師として夫君アルバート公の魂を呼び出していたという説があるほどで、「シャーロック・ホームズ」の作者アーサー・コナン・ドイルも第1次世界大戦で親族が多く亡くなったせいか、晩年は心霊主義にはまったということ。

この時代の上流社会の人々は、心霊会とか、奇跡とか、スピリチュアルなことに夢中になっていたのですね。そしてアレクサンドラ皇后も、最初は女の子ばかりが連続して生まれ、後継ぎの男児がなかなか生まれなかったために、そして次はやっと生まれた皇太子アレクセイが血友病ということで、ラスプーチンが現れる以前からこういうスピリチュアルな世界に浸り、神秘家と呼ばれる人たちに頼っていたそう。

そういうアレクサンドラ皇后のために、親戚でオカルトに熱中していたモンテネグロ皇女姉妹がフィリップ・ヴァショというスイス人の偽神秘家らを紹介し、そしてラスプーチンも紹介したのでした。皇后は、ヴァッショが、「後で私と同じようなものが来る」と言っていたこともあり、ロシア社交界の女性たちが夢中になっていたラスプーチンにすがる気持ちもあったのでしょう。

2-2、血友病を患っていた皇太子アレクセイ

Empress Alexandra with her three youngest children.jpg
By 不明 - OTMA's Camera: http://otmacamera.tumblr.com/page/17 Beinecke Library: Romanov Family Album 5, Page 87, Image No. 3 Samoderzhavnaya.ru: Romanov Family Album 5, Page 87, Image No. 3, パブリック・ドメイン, Link

ニコライ2世の皇太子アレクセイは生まれたときから血友病を発症していました。
これはアレクサンドラ皇后の祖母であるヴィクトリア女王から発した遺伝で、アレクサンドラ皇后の叔父や弟もこの病気で亡くなっていたし、ヴィクトリア女王の子や孫など一族の悩みの種だったのですが、当時はこの病気の遺伝については一族のなかでもタブーになっていたそう。もちろんロシア国民にはこの病気のことは知らされていませんでした。
血友病は、ちょっとした怪我でも内出血が止まらないため、当時はなすすべもなく重体に陥るほどで、幼いアレクセイ皇太子を気遣ってアレクサンドラ皇后は精神的に相当参っていたのでした

2-3、ラスプーチン、アレクサンドラ皇后の信頼を勝ち取る

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By Stan Shebs, CC 表示-継承 3.0, Link

アレクサンドラ皇后は、ドイツの小国の公女ですが、母がヴィクトリア女王の王女でイギリスで育てられました。姉のエラもニコライ皇帝の叔父と結婚、それにニコライ皇帝の母はイギリスの伯父エドワード7世の王妃の妹でした。かなり近い親戚のつながりのあるなかで、ニコライ2世がアレクサンドラの美しさに惚れ込んだ末の恋愛結婚だったのです。が、アレクサンドラ皇后は姑で社交的な皇太后と違い、内向的な性格でロシアの皇室の人たちや貴族たちともうまく付き合えず、宮殿の奥深くで夫や子供たちと引きこもった生活をしていたのですね。

ラスプーチンは、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見したということですが、瀕死のアレクセイ皇太子のベッドのそばでラスプーチンが祈祷を捧げて話をしただけで、翌日にはアレクセイの発作が治まり症状が改善したということ。ラスプーチン効果がどういうものであったかと言えば、血友病は精神的に落ち着くと小康状態になること、鎮痛剤アスピリンを用いたのかもとか、催眠術を用いたなどという説がありますが、これが皇帝夫妻の絶大な信頼を得るきっかけとなったことは間違いありません。

以後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び出されて皇太子を癒し、ペテルブルグから離れてシベリアにいるときに皇太子の具合が悪くなったときなどは、電報で知らせを受けたラスプーチンの打った「見かけほど危険ではない、心配無用」という電報の文を見ただけで具合がよくなったなどということもあったそう。

2-4、ラスプーチン、ペテルブルグで寵児に

ラスプーチンは上流階級の女性たちに絶大な支持を受け、時代の寵児のようにもてはやされました。しかし貴族たちのなかには、ラスプーチンが引きこもりがちな皇帝夫妻に容易に謁見できること、またラスプーチンが皇帝夫妻の友人とふるまうことに対して嫉妬心を抱く人たちも。また皇帝夫妻に近いラスプーチンに色々便宜を図らってもらおうと、賄賂などをわたす政治家らもいて、ラスプーチンの豪華アパート(皇后やパトロンが家賃を払ってくれていた)には、金品が山のように持ち込まれていたとか。ラスプーチンも、マデーラ酒やワインを好み、美しい女性に目がないなど派手好きで、賄賂にもらった札束などを無造作に人にあげるなど執着しない態度であったということも、色々なゴシップやスキャンダルのもとになったはず。

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2-5、ラスプーチン、政治にも介入

アレクサンドラ皇后の信頼を勝ち得たラスプーチンは、皇后を通じて皇帝へのアドバイスも行うようになりました。アレクサンドラ皇后は何でも彼に話したようですが、当時の政治家で後に歴史家となったパーヴェル・ミリュコーフは、ラスプーチンが政治に影響力を持ったのは、1914年5月頃ということ。
ニコライ2世は前線の視察に行き、政務をアレクサンドラ皇后が代行するようになると、皇后はラスプーチンに手紙や電話などでもアドバイスを求め、ラスプーチンの言う通りに大臣を起用したリ罷免したのでした。
現在のロシアは、狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と言われるようになり、ラスプーチン暗殺の企てもされ、アレクサンドラ皇后はドイツのスパイ呼ばわりと、もはやカオス状態。
1914年6月29日、ポクロフスコエ村に帰郷中のラスプーチンは、自宅でキオーニャ・グセヴァという女性に短剣で腹部を刺されて重傷を負うという暗殺未遂事件も勃発。

2-6、ラスプーチンとアレクサンドラ皇后

アレクサンドラ皇后は夫以外にはほとんど相談相手がいなかったようでした。
たしかに女官たちや侍医、子供たちの家庭教師など、まわりには大勢の人に囲まれていましたが、身分制度のきっちりした世界では、雇い人に心を許せない気持ちを持っているため、心の内を話せる相手がいなかったのですね。
そういう孤立したアレクサンドラ皇后の格好の相談相手として、ラスプーチンが入り込んだのです。ラスプーチンは何といっても元は農民ですから、大変素朴な言葉づかいで(よく言えば)気取らない態度で皇帝一家に接していたよう。こういう高位の人々は、自分におもねったり利用されることが多くて、自分という人間が好きで近づいてくるのか、自分の地位のために何かメリットを目当てで親しくしたいのかと、常に警戒しているということですが、ラスプーチンの敬語とかも使わず礼儀作法もなっていない態度が、逆に新鮮に思えて警戒を解いてしまったのでしょうね。アレクサンドラ皇后のような立場の人間は推察するに、なかなか相手を信頼しないが、一度心を許せばとことん信頼するという純粋さを持っているので、騙されやすいはず。

祈禱僧という肩書を持ち、ヒーリング能力を持つラスプーチンは、信心深いアレクサンドラ皇后の心をつかんだのでしょう

2-7、反ラスプーチン派のラスプーチン評

暗殺に加わったドミートリ―大公の姉でニコライ2世の従妹、しかもアレクサンドラ皇后の姉エラ大公妃に育てられて皇帝一家とも親しかったマーリア大公女の回想によれば、反ラスプーチン派からは、「子供の病気で神経をすり減らして廃人同様だった皇后につけ込んで、ずる賢くも自分がいなければ皇太子は生きながら得ないと連発して皇后の心をがんじがらめにして、皇后に対する影響力で自分の力をより誇示しようとした」「物事を見極める力がない分際で、自分の力を賭けようとしていた」とみられていました。
マーリア大公女はまた、「1916年にはロシア国民は非難と不満に蝕まれるあまり、ラスプーチンにすべての責任を転嫁しようとしていた」とも言い、「ラスプーチンの直接的間接的影響で陥れられたロシアの窮地のすべてが、ロシア農民の上流階級への復讐のように思われてならない」とも。

3、ラスプーチン、暗殺される

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By unknown, the picture was taken highly about hundred years ago - http://s1.stc.all.kpcdn.net/f/4/image/78/58/745878.jpg, CC0, Link

1916年12月17日、ラスプーチンはフェリックス・ユスポフ公爵(ニコライ2世の姪の夫)らによって暗殺されました。しかし、主犯がロシア有数の大貴族や皇族(皇帝の従弟)のドミトリー大公らだったので、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかったということ。またソビエト連邦成立後に、捜査資料の大半が散逸したためにラスプーチン暗殺の詳細はいまだに不明な点が多く解明されていません

ユスポフ公爵はモイカ宮殿の新築祝いのパーティーと称して、ラスプーチンが会いたがっていた美人と評判の妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかして招待。
ユスポフは、ラスプーチンに青酸カリ入りの毒菓子、マデーラ酒などを与えるも、まったく死なず。ついにピストルで心臓を撃ったがだめ、さらに頭部を撃たれて暴行を加え、これで死亡したと思い、橋の上から簀巻きにして落とし、凍っていたネマ川に捨てた、そして発見されて解剖後にわかった死因は溺死だった、という話は有名なのですが、実際には、ラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで毒物は検出されなかったということです。青酸カリは保存状態が悪いと無毒になるということもあり、ラスプーチンが殺されても殺されても死ななかったという話も誇張されたもののよう。

ラスプーチンの死を知らされたアレクサンドラ皇后は嘆き悲しみ、娘たちと共に葬礼を営みツァールスコアセロー宮殿の秘密の場所に埋葬。ユスポフらは英雄視されたが、アレクサンドラ皇后の怒りはおさまらず、ユスポフは領地で監禁、ドミトリ―大公はペルシャ戦線に監視付きで送られ、結果的に革命を生き延びて亡命出来たのは皮肉。

ユスポフ公爵はロシア有数の大富豪でしたが、素行があまり良い人物ではなくて、革命後も亡命して生き延びて自らの手柄を吹聴していたということです。

4、ラスプーチンの予言

真偽不明ではありますが、ラスプーチンはヒーリング能力だけでなく、予言もしているのですね。

1916年にはすでに「私は来年(1917年)1月1日迄に今世を終えるだろう。そして私を暗殺するのがロマノフ王朝の手の者であれば、一族で2年以上生きる者はいないだろう」
というのが有名ですが、もうひとつ

「バッテンブルグ家の出身者がイギリス国王に即位すれば、それが最後のイギリス国王になるだろう」
というのもあります。
これは今では偽アナスタシアと決定されてしまったアンナ・アンダーソンが、ラスプーチンから聞いたということ。

アレクサンドラ皇后はバッテンブルグ家(現在はマウントバッテンと改名)をよく思っていなかったということで、それを聞いたラスプーチンが予言したのですが、まだマウントバッテン家の出身であるフィリップ殿下とエリザベス女王との結婚前のことです。
ジェイムズ・ブレア・ラヴェル(著), 広瀬順弘(訳)「アナスタシア 消えた皇女」参照

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「神の人」と言われほんとうに人々を癒したのか、暗殺の真相まで謎の残る怪僧

ラスプーチンは、本当にヒーリング能力があったのか、たまたま神秘主義ブームに乗っかって上流階級でもてはやされ、権力の中枢の皇帝夫妻の弱点である病気の皇太子を手のうちにして、権力をほしいままに操って得意になっていたのか、いまだに謎のままです。こういう人物が混とんとしたロシア革命前夜にあらわれたというのもまた不思議なことではないでしょうか。

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ヨーロッパの歴史ロシアロマノフ朝世界史歴史

怪僧「グレゴリー・ラスプーチン」帝政ロシア末期に混乱を招いた男を歴女がわかりやすく解説

今回は、怪僧グレゴリー・ラスプーチンを取り上げるぞ。帝政ロシア末期に上流階級の女性たちを魅了し、皇太子アレクセイの血友病を癒して皇后アレクサンドラに信頼され、政治に口出しして大スキャンダルの末暗殺されたが、本当のところはどうだったのか知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔からロマノフ家の最後について調べるのが大好きで、ネット検索で系図をたどって確認も。グレゴリー・ラスプーチンについて昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、5分でわかるようにまとめた。

1-1、本名はグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン

グレゴリー・ラスプーチンは、1869年1月21日にシベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村で農民の子として誕生。ロシア名のファーストネームの後に付くのは父称と言い、父の名をあらわしているので、ラスプーチンの場合は、父の名がエフィムということになります。ラスプーチンは、12歳頃に兄と妹が、そして母も亡くなって父と2人の暮らしになったそう。
尚、ラスプーチンという姓には三叉路と意味があり、そういう場所に住んでいたということ。

1-2、子供時代のラスプーチン

image by PIXTA / 39664639

ロシアの農村部では、「学校は人間をふしだらにして、真の信仰から遠ざける」という考え方があり、教育が重要視されていなかったので、読み書きができなくても普通のことでした。
「怪僧ラスプーチン」マッシモ・グリランディ著によれば、ラスプーチンは子供の頃から馬と話が出来るとか、直感で馬泥棒を当てるという子供で、シベリアの冷たい川でおぼれて(兄は死亡)肺炎になった後、聖母マリア(きれいな奥さん)が見えたなどと言い出すようになったとか。
また、ロシアには昔から日本で言えば托鉢僧のような、聖人(スターレツ)と呼ばれる放浪する修行僧がいました。彼らは各地を巡礼して歩き一宿一飯を乞い、代わりに説話や予言をしたり、不思議な力で病を癒すことも(もちろん中には単なる浮浪者や詐欺師も)。ラスプーチンは村にこういう修業僧が来ると話を聞きたがり、彼らに憧れていたということです。

1-3、ラスプーチンは19歳で結婚、そしてお告げを聞いて巡礼の旅に

1887年に、19歳のラスプーチンはポクロフスコ近くの修道院に参加して、そこで会った2歳年上の女性プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚。
1892年、ラスプーチンは「聖母マリアが何かを伝えようとしていた、天のお告げだ」と言い出して、ギリシャを目指す巡礼の旅に出、聖地を訪れたということ。巡礼から戻っときには別人のように容貌が変わっていて、ヒーリングや予知能力、透視といった特殊能力を身につけていたのでした。そして家に礼拝堂を作り、病人を癒したり説話をしたりすることで、多数の人が集まってきたということです。

1-4、ラスプーチンは青年期より「鞭身派」を信仰

「鞭身派」は神の許しを得続けるためには罪を自ら犯す必要があるという教義を説いている、いわゆる異端とされている宗派でした。(罪を犯す=淫楽に溺れる)ラスプーチン自身の宗教的理論というのは、「人間は誰もがキリストであり、お互いに愛し合わねばならない。神が男性、肉体的欲望その他のものをつくられた。この欲望を満たす事がどうして罪を認められようか」という、まさかの「性的欲望」を正当化した理論だったわけです。
人間、普通に生きていても小さな嘘をついたりごまかしとか、何かしら罪を犯しているので、それについて神様に許しを乞い、悔い改めて襟を正して生きるのが信仰深い人の姿なのですが、わざわざモーゼの十戒にもある罪を犯して神様の許しを得るって、どうみてもおかしい宗派ですよね。

1-5、ラスプーチンは30歳で、聖人(スターレツ)に

ラスプーチンは、1903年に再び村を離れて数か月の巡礼の旅に出かけましたが、そのときにキエフのペチェールシク大修道院へ、そしてカザンでは司教や上流階級の人々に会って注目を集めたということ。この年はペテルブルグ建都200年で記念行事があったのですが、皇帝夫妻がサーロフ修道院に巡礼に出かけたとき、「長く待ち望んでいるロシア皇帝の後継者の誕生は、1年とかからないだろう」と翌年の皇太子アレクセイの誕生を予言した聖人(スターレツ)が、ラスプーチンだったと言う説も。

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