今回は、徳川綱吉を取り上げるぞ。3代将軍の息子で5代将軍になったが、生類憐みの令で有名な将軍なんですね。

それでは、綱吉と母の桂昌院に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。綱吉と母桂昌院にも興味津々。例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり、5分でわかるようにまとめた。

1-1、綱吉は家光の4男として誕生

綱吉は、正保3年(1646年)1月8日、江戸城で誕生。父は3代将軍家光、母はお玉の方、家光の4男で幼名は徳松。
綱吉の長兄は5歳上の4代将軍家綱で、2歳上の兄が長松(綱重)、3歳で尾張家へ嫁いだ姉の千代姫をのぞけば、成人したのは3人兄弟でありました。綱吉は末弟のため、父家光は儒学の勉学に励むように言いつけたそう。

家光は両親が実弟忠長を甘やかしたせいでえらい目にあったし、庶弟の保科正之は良く出来た人で家来筋として出しゃばらず補佐に徹したので、自分の息子たちは忠長のようになると困ると思ったのでしょう。

1-2、兄綱重の母と綱吉の母はライバル同士

兄綱重の母はお夏の方といい京都の町人の娘、綱吉の母お玉の方も京都の八百屋の娘で、ふたりとも家光の側室として犬猿の仲、ライバルだったということで、御両典と言われた2歳違いの息子の育て方なども競争意識があったはず。

1-3、綱吉、5歳のときに父将軍家光が死去

慶安4年(1651年)4月、兄の長松(のちの綱重)とともに、近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられましたが、家光が死去したので長兄の徳川家綱が11歳で4代将軍に。承応2年(1653年)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服、偏諱をもらい、長松は綱重、徳松は綱吉とそれぞれ名乗ることに。

尚、松平右馬頭綱吉と、徳川ではなく松平姓を称したのは、まだ幼いことと、長兄の家綱が後を継ぎ順調に子孫に将軍の位が伝わることを考えて、綱重と綱吉は分家扱いということだったんですね。

1-4、綱吉、舘林藩主となり、舘林宰相と呼ばれることに

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 明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋御殿が焼失、9月に神田御殿へ移り、寛文元年(1661年)8月、15歳で上野館林藩主として城持ちになり、25万石の大名に。12月には参議となったので館林宰相と通称され、館林徳川家として徳川を名乗ることになりました。尚、綱吉は館林藩主ではあっても、基本的に江戸在住。家臣の8割も神田の御殿詰めとなっていて、綱吉が館林に立ち寄ったのは、寛文3年、兄の将軍家綱に従って日光東照宮に詣でたときのみ。

1-5、綱吉、長兄家綱の養嗣子となり5代将軍に

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延宝8年(1680年)5月、綱吉34歳のとき、家綱には跡継ぎがなく兄の綱重もすでに亡くなっていたことから、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去。綱吉は内大臣および右近衛大将となり、将軍宣下を受けました。

\次のページで「2-1、綱吉、将軍として権勢をふるう」を解説!/

家綱の跡継ぎに宮将軍擁立説
「徳川実記」によれば、家綱の危篤に際して、徳川宗家の直系が絶えることについて幕府内で論議があったということ。
ときの大老酒井忠清は、鎌倉幕府が将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例にならって、家綱の祖父である秀忠の兄結城秀康の血を引く(実際には血縁関係はない)有栖川宮幸仁親王を将軍に迎える案を出したが、掘田正俊の反対にあって実現しなかった宮将軍擁立説があったそう。

しかし近年、酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説も。

2-1、綱吉、将軍として権勢をふるう

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By 土佐光起 - "歴代徳川将軍の肖像", パブリック・ドメイン, Link

綱吉の治世の前半は基本的に善政を行ったということで、天和の治と言われています。8代将軍吉宗は天和の治をおこなった綱吉に対して敬愛の念を抱いていて享保の改革の中にもその影響がみられるほどだということ。

また、元禄文化として、松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴といった文化人が登場したことで、平和な好景気の時代として、優れた経済政策だったという評価もされています。そして、善政を行った前期と、評判の悪い後期の評価を分けて考えるべき、という説も。

綱吉の主だった功績、出来事などをまとめてみました。

2-2、綱吉、将軍就任を妨げた大老らに復讐

綱吉は、将軍就任後すぐに大老酒井忠清を廃して、綱吉の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老に。その後、忠清は病死したのですが、綱吉は自分ではなく宮将軍を推した酒井忠清家を恨んでいて改易を望んだらしいのですね。綱吉は、大目付に忠清の遺体を墓から掘り起こせと命じるなど、病死かどうかを異常なまでに詮議させたということ。結局、忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易に。
また、綱吉は堀田正俊を片腕にして、処分が確定していた親藩である越後高田藩結城松平家のお家騒動を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなど、積極的な政治に乗り出しました。
高田藩のお家騒動再裁定も宮将軍絡みの恨みで、忠清が擁立しようとしていた有栖川宮の祖である高松宮好仁親王の妃が高田藩主松平光長の実の妹だということが、綱吉の疑念を深めて、光長が忠清の皇族将軍擁立を支持したことも恨みに思っていたそうで、綱吉は機会をとらえて復讐したということに。

しかしこれらの綱吉の積極的な姿勢は、「左様せい様」と言われて、有能な補佐役の保科正之や老中松平信綱らに任せっきりだった家綱のおかげで、下がりつつあった将軍権威の向上につながったという見方がされています。また、綱吉が幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置、有能な小身旗本の登用につとめたせいで、荻原重秀も登用されることに。そして外様大名からも一部幕閣への登用をするなど人事改革になったのですね。

2-3、綱吉、文治政治を推進し、湯島聖堂を建立

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綱吉は、家光の時代まで残っていた戦国の殺伐とした気風を排除し、徳を重んずる文治政治を推進。
前述のように、父家光は、長兄の家綱に臣下の礼をとらせるため、綱吉に儒学を学ばせて長幼の序を重んじて弟としての分をわきまえるよう教育せよと遺言したのですが、綱吉はその通り学問に励んだので、学者の林信篤を招いては経書の討論を行ったり、四書や易経を幕臣に講義するほどの学問好きな将軍に。
そして学問の中心地として湯島聖堂を建立。

また儒学の影響で、歴代将軍の中で最も尊皇心が厚かったと言われるほどで、皇室の御料を1万石から3万石に増額し、公家たちの所領についてもほぼ倍増、また大和国や河内国一帯の天皇御陵を調査の上、計66陵を巨額な資金をかけて修復したそう。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、後の新井白石、荻生徂徠、山鹿素行、室鳩巣らの学者が輩出するもとになり、この時代は儒学が隆盛に

2-4、綱吉、側用人を重用するように

綱吉は、貞享元年(1684年)に堀田正俊が若年寄の稲葉正休に刺殺(綱吉の陰謀説もあり)された後、大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用するようになりました。彼らは、綱吉の舘林藩主時代から仕えていたのですが、側用人とは、親政を行う綱吉と老中との間の連絡係として新設された役職で、次第に権力を持つようになりました。

2-5、綱吉、母桂昌院とその実家を厚遇

また綱吉は儒学の「孝」に影響されて、母の桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜ることに。そして桂昌院の実家養家の兄や弟の本庄家、牧野家を大名に取り立てたのですね。桂昌院はお玉といい、元は京都の八百屋の娘で、美貌だった母の再婚先が公家侍ということで、家光の側室お万の方の女中募集に応じて江戸へ下ったという経歴があります。八百屋の娘お玉が将軍の母になり、兄弟は大名に出世ということで、「玉の輿」の語源という説もあり。 ちなみに妻や娘のおかげで大名に出世したのを「蛍大名」といいます。
綱吉は4歳で父家光を亡くし、母お玉が必死で育てたので、儒教の影響と、尊皇心が篤いのも京都出身の母の影響が大きいかもしれないですね。

2-6、松の廊下事件

元禄14年3月14日 (旧暦) (1701年4月21日)あの赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介に切りかった松の廊下の殺傷事件は、じつは綱吉母桂昌院に従一位を賜る儀式のときだったため、浅野内匠頭にせっかくの儀式を台無しにされて激怒した綱吉が異例の即日切腹に処したという話。
一年後に赤穂浪士が吉良邸へ討ち入り、吉良上野介を討ち取る事件に発展、「忠臣蔵」として有名に。

\次のページで「2-7、綱吉、後継ぎに恵まれず、生類憐みの令を発令」を解説!/

2-7、綱吉、後継ぎに恵まれず、生類憐みの令を発令

有名な生類憐みの令は、母桂昌院の寵愛していた僧隆光の言を採用したという説(時期的に合わない説も)ですが、綱吉に後継ぎが出来ないので、戌年の綱吉が特に犬を大事にすれば子供が授かるという期待と心配が嵩じた悪法とされています。

生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)とは
この法律は、生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の通称です。動物だけでなく、嬰児や傷病人保護も目的としていて、1本の成文法ではなく、いくつもあって生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体なのですね。保護する対象は捨て子や病人、動物である犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などにまで及んだのですが、庶民の生活に多大な影響を与え、「天下の悪法」と評価されていたので綱吉の評価を下げる原因のひとつとさえいわれるように。
尚、綱吉が死後も続けるようにと遺言したのにもかかわらず、家宣が将軍になると生類憐れみの令はすぐに廃止に。

2-8、綱吉、桂昌院に乞われて多くの寺院建立や再建に尽くす

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綱吉母桂昌院は、八百屋(西陣の織屋の娘の説もあり)の娘から将軍生母になった強運の持ち主ですが、本人は神仏のご加護によるものと固く信じていて、せっせと神社仏閣の建立や修築に邁進しました。京都時代に縁のあった乙訓の 勝持寺、金蔵寺、乙訓寺など 応仁の乱で焼き払われて以来、再建出来ていなかった大寺院の復興事業や寺院建立を行い、大切な仏教遺産を残すことに貢献。これについては、当時の財政を圧迫させた贅沢三昧の浪費のように言われていたのですが、見方を変えれば平和な時代になったということだし、仏教への信仰心を高め、また多大な建築事業のおかげで庶民がうるおい、文化を建て直すきっかけになったということで再評価されることに。

2-9、綱吉、貨幣改鋳に失敗

勘定吟味役(後の勘定奉行)の荻原重秀の献策で貨幣の改鋳を実施しましたが、本来の改鋳時期をやや逸していたとか、元禄金と元禄銀の品位低下によるアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵などもあって、かえって経済を混乱させたということ。

2-10、綱吉、鶴の字や紋を禁止

綱吉は娘の鶴姫を溺愛するあまりに、貞享5年2月1日(1688年3月2日)に「鶴字法度」を出しました。庶民が鶴の字や鶴の紋を使用することを禁じたわけですね。これを受けて、井原西鶴は雅号を改めて「井原西鵬」(さいほう)と名乗ったり、京菓子の老舗「鶴屋」は屋号を替えて徳川家ゆかりの駿河国から取った「駿河屋」に。また丸に舞鶴を定紋にしていた歌舞伎の中村座は角切銀杏に改めるなど、庶民は迷惑をこうむっていました。
尚、「七五三」は綱吉の長男の徳松の健康を願ったのが始まりという説もあります。

2-11、綱吉はかなりの能マニア

家康以来、代々の将軍は能の愛好者でしたが、綱吉はその中でも「能狂」と言われるほど。綱吉の能狂の特徴は、能楽研究者によれば、自ら能を舞うだけでなく、人に見せることを好む、側近や諸大名にも能を舞うことを強制、能役者の追放や登用、また流派を超えての移籍を繰り返したとか、能役者を武士に取り立てたり、稀曲、珍曲を見ることを好んだので、廃れていた曲を多く復活させたなどというものでした。

\次のページで「3、綱吉の後継ぎは結局は甥の綱豊に」を解説!/

3、綱吉の後継ぎは結局は甥の綱豊に

綱吉は舘林藩主時代に嫡男の徳松が生まれましたが、わずか5歳で死去。なので将軍後継問題を抱えていました。綱吉の娘鶴姫は、紀州徳川家の綱教と結婚していたので娘婿の綱教が候補に上がったけれど、水戸の光圀が反対し、鶴姫も宝永元年(1704年)に27歳で亡くなり、綱紀も翌年死亡。結局は宝永元年(1704年)に綱吉の亡くなった兄綱重の長男で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決定
綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹で、享年64歳で死去。

4-1、綱吉の謎

綱吉には死因など数々の謎があります。

4-2、綱吉は正室に殺害された説

綱吉の死因は麻疹ということになっていますが、心を病んでいたという正室の信子による「宇治の間」での殺害、無理心中説があります。信子は綱吉の死後1か月も経たずに亡くなっていますが、寛永寺の信子の墓所は土饅頭で戦中まで黒い網がかけられていて、明治時代の慶喜の孫娘証言によれば、「あれは殿様をお殺しになった悪い女性のお墓」だと聞いたということです。

正室信子は公家の鷹司家の出身なのですが、綱吉母桂昌院とは不仲だったということ。綱吉との間に子供はなく、徳松の母で側室のお伝の方とのライバル意識がすごくて、信子は妹の霊元天皇中宮の新上西門院鷹司房子に頼んで、上臈や典侍などを呼び寄せて京都派として対抗していたという大奥バトルがありました。

また、綱吉の死後、大奥の宇治の間が開かずの間にされているのですが、火事で焼失した後も宇治の間はまた再建されているのも不思議。

そして綱吉は、死の直前に正月の餅を食べていたことで、麻疹と併発していた急性気管支炎の発作で餅を詰まらせて窒息死したという説もあり、薬を飲むことなく亡くなったと当時の記録にあるのは確かなようです

4-3、綱吉の身長の謎

大樹寺には、歴代将軍の位牌が収められていますが、その位牌の大きさが将軍の身長にあわせて作られたという俗説があるそう。綱吉の位牌は、わずか124cmであるので、「綱吉は低身長症(軟骨無形成症)だった」という説が。しかし当時の目撃談や人物評には、そういう記述は存在しないということ。

徳川将軍や一族のうち、増上寺に葬られた方々は改葬のときに調査されていますが、綱吉は寛永寺に葬られているのですね。

治世の前期と後期で評価が真っ二つの綱吉

徳川綱吉は、戦国時代がもはや遠い昔となった平和な時代で経済的にも落ち着いた頃に登場しました。元禄文化といわれる、まさに江戸の文化が花開き、現代までつながる俳諧、歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、学問も盛んになった時代の学問や能好きの将軍でした。が、後半の生類憐みの令、富士山の爆発などの飢饉、そして側用人を重用、生母への孝行しすぎと実家を取り立て過ぎ、忠臣蔵では浅野内匠頭を即日切腹させたり、水戸黄門のドラマなどでは悪役として登場するイメージが強くて、綱吉は悪い印象を持たれがちということ。しかし最近になって再評価を受けているということは、ものごとには表と裏があり、見方を変えれば色々な面があるという典型のようではないでしょうか。

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日本史歴史江戸時代

犬公方「徳川綱吉」、最近再評価もされつつある徳川5代将軍を歴女がわかりやすく解説

今回は、徳川綱吉を取り上げるぞ。3代将軍の息子で5代将軍になったが、生類憐みの令で有名な将軍なんですね。

それでは、綱吉と母の桂昌院に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。綱吉と母桂昌院にも興味津々。例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり、5分でわかるようにまとめた。

1-1、綱吉は家光の4男として誕生

綱吉は、正保3年(1646年)1月8日、江戸城で誕生。父は3代将軍家光、母はお玉の方、家光の4男で幼名は徳松。
綱吉の長兄は5歳上の4代将軍家綱で、2歳上の兄が長松(綱重)、3歳で尾張家へ嫁いだ姉の千代姫をのぞけば、成人したのは3人兄弟でありました。綱吉は末弟のため、父家光は儒学の勉学に励むように言いつけたそう。

家光は両親が実弟忠長を甘やかしたせいでえらい目にあったし、庶弟の保科正之は良く出来た人で家来筋として出しゃばらず補佐に徹したので、自分の息子たちは忠長のようになると困ると思ったのでしょう。

1-2、兄綱重の母と綱吉の母はライバル同士

兄綱重の母はお夏の方といい京都の町人の娘、綱吉の母お玉の方も京都の八百屋の娘で、ふたりとも家光の側室として犬猿の仲、ライバルだったということで、御両典と言われた2歳違いの息子の育て方なども競争意識があったはず。

1-3、綱吉、5歳のときに父将軍家光が死去

慶安4年(1651年)4月、兄の長松(のちの綱重)とともに、近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられましたが、家光が死去したので長兄の徳川家綱が11歳で4代将軍に。承応2年(1653年)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服、偏諱をもらい、長松は綱重、徳松は綱吉とそれぞれ名乗ることに。

尚、松平右馬頭綱吉と、徳川ではなく松平姓を称したのは、まだ幼いことと、長兄の家綱が後を継ぎ順調に子孫に将軍の位が伝わることを考えて、綱重と綱吉は分家扱いということだったんですね。

1-4、綱吉、舘林藩主となり、舘林宰相と呼ばれることに

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 明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋御殿が焼失、9月に神田御殿へ移り、寛文元年(1661年)8月、15歳で上野館林藩主として城持ちになり、25万石の大名に。12月には参議となったので館林宰相と通称され、館林徳川家として徳川を名乗ることになりました。尚、綱吉は館林藩主ではあっても、基本的に江戸在住。家臣の8割も神田の御殿詰めとなっていて、綱吉が館林に立ち寄ったのは、寛文3年、兄の将軍家綱に従って日光東照宮に詣でたときのみ。

1-5、綱吉、長兄家綱の養嗣子となり5代将軍に

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延宝8年(1680年)5月、綱吉34歳のとき、家綱には跡継ぎがなく兄の綱重もすでに亡くなっていたことから、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去。綱吉は内大臣および右近衛大将となり、将軍宣下を受けました。

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