
尊王攘夷から倒幕へ
幕末に生まれた公武合体と尊王攘夷の思想、当初薩摩藩は朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を推していました、このためその実現のための参与会議も開催されましたが、将軍・徳川慶喜との衝突が絶えず、結局わずか数ヶ月という短期間で参与会議は崩壊してしまいます。
そこで薩摩藩は公武合体を諦め、政治の世界から幕府を追放するため倒幕を考えるようになりました。一方の長州藩は天皇中心の政治を行う尊王攘夷を推していましたが、攘夷の報復を受けたことで外国の軍事力の高さを知り、そのため攘夷は不可能だと悟ります。
とは言え、外国に対抗するには幕府は頼りなく、そこで長州藩も倒幕を考えるようになるのでした。坂本竜馬は薩摩藩と長州藩が手を組めば倒幕が叶うと思っており、薩長同盟の締結によってその基盤……つまり、倒幕実現に向けた第一歩が達成されたのです。
廃藩置県による藩の廃止
薩長同盟を締結した頃、既に幕府は権威だけでなく武力も低下しており、二回目の長州征討では逆に長州藩に撃退されました。これで幕府の権威と武力の低下がハッキリと知れ渡ってしまい、世間では倒幕ムードが加速していくことになります。
そんな雰囲気を悟ってか、将軍・徳川慶喜は1867年に大政奉還を行って政権を天皇へと返上、自ら幕府の歴史に幕を下ろすことにしたのです。そして王政復古(武家政治を廃止して君主政体に戻す政治転換)が行われると、長州藩は薩摩藩とともに明治政府の中核になりました。
その後の戊辰戦争でも長州藩の藩士は上野戦争などで活躍、幕末の戦いの勝者となったのです。しかし、明治時代が始まると明治政府の廃藩置県によって藩は廃止され、長州藩という名の歴史は「藩が廃止された」という理由であっけなく終わることになりました。
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長州藩を学ぶなら先に尊王攘夷を学ぼう
長州藩を学ぶ上で欠かせないキーワードは尊王攘夷でしょう。幕末において長州藩は滅亡の危機にさらされますが、それは長州藩が尊王攘夷派だったことが大きな理由になっています。
つまり、尊王攘夷を理解せずに長州藩を理解することはできず、学ぶ順序としてはまず尊王攘夷の思想をしっかりと学び、それから長州藩を学ぶとより理解しやすくなるでしょう。