
尊王攘夷を思想とする長州藩
幕末になると世間では公武合体や尊王攘夷の思想が生まれ、長州藩はこれを拠り所として京都の政治に影響を与えるほど大きな存在へとなります。そして幕府は日米修好通商条約に対する無勅許(天皇に無許可)での調印問題などから、信頼と権威を失いつつありました。
世間で反発が多い中、幕府は1858年に井伊直弼の安政の大獄を行い、幕府に反発する尊王攘夷派を厳しく取り締まって弾圧します。尊王攘夷とは外国人を追い払う「攘夷」と天皇中心で政治を行う「尊王」をあわせた思想で、政治を行っている幕府からすれば反幕府派とも解釈できる思想でした。
この尊王攘夷の思想は長州藩と水戸藩で特に広がっており、その活動は次第に過激なものへとなっていきます。要するに過激派に等しい状態で、外国人を次々と攻撃して暴れる長州藩は尊ばれる孝明天皇から見ても危なくて厄介な存在でした。
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カウンタークーデター・八月十八日の政変
安政の大獄による弾圧を続けた幕府でしたが、これを行った張本人・井伊直弼が1860年の桜田門外の変で暗殺されると、尊王攘夷派の士気が急激に高まります。尊王攘夷派による暗殺や暴行が繰り返され、将軍・徳川家茂も攘夷の決行を迫られたのでした。
しかし決行当日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃するものの、他の藩はそれに乗る動きを一切見せようとしません。一方の外国は長州藩に対して報復しますが、それでもなお近隣の藩は動こうとせず、攘夷決行を約束した将軍・徳川家茂も京都を離れてしまいます。
孤立状態になった長州藩はクーデターを企てて天皇自ら攘夷を行うよう画策しますが、このクーデター計画に対して孝明天皇や薩摩藩がクーデターで返し、これが1863年の八月十八日の政変です。結果、長州藩を中心とした尊王攘夷派は京都を追い出されてしまいました。
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池田屋事件による進発論の決行
八月十八日の政変によって京都を追い出された長州藩は、活動の拠点を失ってしまいました。再び政治の主導権を握ることを狙う長州藩でしたが、そのための手段は藩内で意見が真っ二つに分かれます。一つは「現状を打開するために京都に乗り込むべき」という進発論、もう一つは「今は軽率に動くべきではない」という慎重論です。
ここで多くの支持を得たのは慎重論でした。なぜなら、兵を挙げて京都に赴けば今度は京都を追い出されるどころか朝敵(天皇の敵)とみなされる可能性を怖れたからです。そんな時、池田屋事件が発生して京都に潜伏中の長州藩の尊王攘夷派が新撰組に殺害されます。
これに怒った長州藩は、慎重論から一変して進発論を支持するようになりました。そして、「八月十八日の政変において藩主に罪がないこと」、「八月十八日の政変において追放された尊王攘夷派の公家を復帰させること」などを訴えるため挙兵して京都に向かったのです。
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朝敵とみなされた禁門の変
京都に赴いた長州藩は朝廷に意見を訴えますが、まるで相手にされず退去命令を下されてしまいます。それでも引かない長州藩に対して会津藩が衝突、1864年の京都御所にて起こったこの事件を禁門と変と呼び、御所の西にあった蛤御門(はまぐりごもん)の近くで事件が起こったことから蛤御門の変とも呼びました。
禁門の変では長州藩が優勢でしたが、会津藩と同盟を結んでいた薩摩藩が加勢すると形成逆転、長州藩は戦いに敗れた上に朝敵とみなされてしまいます。朝敵とみなされた長州藩は武器も購入できず、その上外国から攘夷の報復を受けていて軍事力が急激に低下しました。
これをチャンスとしたのが幕府であり、朝敵となった長州藩を堂々と攻撃できることから、1864年に長州征討を行います。この時長州藩はとても戦える状態ではなかったため、戦闘は行わず幕府の要求に従って何とか藩の滅亡の危機を回避しました。
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坂本竜馬の活躍と薩長同盟の締結
朝敵とみなされ、幕府にも攻撃され、外国にも報復され……もはや壊滅寸前の長州藩でしたが、ここで坂本竜馬が長州藩と薩摩藩の同盟を促します。とは言え、長州藩にとって薩摩藩は禁門の変で敗北した相手ですから、間違っても頭を下げることなどできません。
何しろ長州藩は薩摩藩を恨んでいることから、裏に「薩賊会奸」と書いたわらじを踏みしめながら歩いたほどなのです。そこで坂本竜馬は亀山社中という日本では初となる貿易会社を設立、それをきっかけにして薩摩藩と長州藩の関係を修復しようと努めます。
亀山社中を通じて長州藩の米を薩摩藩に売り、薩摩藩の武器を長州藩に売ったのです。火山がある土地柄から薩摩藩は米の不作が多く、朝敵であるため長州藩は武器を購入できず、そのため亀山社中が両藩を救うことになりました。また同時に両藩の関係の修復を見事実現、1866年に薩長同盟が締結されたのです。
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