今日は長州藩について勉強していきます。吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文など、歴史上の有名な人物の中には長州藩出身の者が多く、また幕末の歴史においては長州藩自体が頻繁に登場する。

歴史を学ぶには人物や事件・戦争を覚えるのも良いが、その人物の出身や事件・戦争に関係する藩のことを知っておくのも大切です。そこで今回、長州藩について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から長州藩をわかりやすくまとめた。

長州藩の場所と領国

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長州藩は現在の山口県

長州藩の藩主・毛利家は、豊臣秀吉の時代には彼に仕えていました。五大老の一人となった毛利輝元は安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐……実に中国地方の大半約112万石を所有していましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に戦争責任を取らされます。

その結果として毛利輝元は隠居を命じられ、嫡男・毛利秀就が後を継ぐことになりますが、この時与えられた領地は前述した中の周防・長門の約30万石のみであり、領国は豊臣秀吉の時代の1/4ほどに減らされてしまいました。そして、この周防・長門の領国が長州藩です。

場所は現在の山口県に位置しており、周防が山口県東部、長門が山口県西部に該当するため、ちょうど現在の山口県全体が当時の長州藩だと考えれば良いでしょう。また、長い間藩庁が萩城に置かれていたため、長州藩ではなく萩藩と呼ばれることもありました。

長州藩の石高の変化

既に長州藩をある程度学んでいる人は、長州藩が約30万石という点に違和感があるかもしれません。これについて解説すると、毛利秀就に周防・長門の領国が与えられた時は約30万石とされていましたが、その後の正確な検地によって約54石であることが発覚したのです。

ここで問題なのが、長州藩の藩主である毛利家は関ヶ原の戦いにおいて西軍について敗北したということ、敗者に約54万石もの領国が与えられるのはあり得ません。実際、勝者の東軍に功績のある隣国の隣国の広島藩主・福島正則ですら約50万石ですからね。

そこで幕府は他の藩との兼ね合いを考えて長州藩を約37万石と公認したのです。つまり、当初約30万石とされたはずが正確な検地で約54万石だと発覚、これでは他の藩とのバランスが悪いということで約37万石という形で落ち着かせたわけですね。

長州藩 財政の回復と幕末

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財政難と解消までの道

領国が全盛期の1/4ほどになってしまった長州藩は当初財政が厳しく、そのため第7代藩主・毛利重就は、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発といった経済政策に力を入れました。それでも1831年には長州藩天保一揆が発生、追い打ちをかけるように1833年には天保の大飢饉も起こります。

藩の負債が膨らむ中、その状況を一変させたのが第13代藩主・毛利敬親でした。1836年に藩主に就任した彼は常に「うん、そうせい」と返答することから「そうせい侯」と呼ばれており、藩主として頼りなさを感じさせたものの、村田清風を登用して天保の改革を行います

村田清風の失脚後も天保の改革は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助らに引き継がれ、中でも下級武士から支持されていた周布政之助は安政の改革も行いました。この間に長州藩は藩公認で密貿易を行うなどして巨万の富を得ることになり、藩の財政は一気に裕福になったのです。

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尊王攘夷を思想とする長州藩

幕末になると世間では公武合体や尊王攘夷の思想が生まれ、長州藩はこれを拠り所として京都の政治に影響を与えるほど大きな存在へとなります。そして幕府は日米修好通商条約に対する無勅許(天皇に無許可)での調印問題などから、信頼と権威を失いつつありました。

世間で反発が多い中、幕府は1858年に井伊直弼の安政の大獄を行い、幕府に反発する尊王攘夷派を厳しく取り締まって弾圧します。尊王攘夷とは外国人を追い払う「攘夷」と天皇中心で政治を行う「尊王」をあわせた思想で、政治を行っている幕府からすれば反幕府派とも解釈できる思想でした。

この尊王攘夷の思想は長州藩と水戸藩で特に広がっており、その活動は次第に過激なものへとなっていきます。要するに過激派に等しい状態で、外国人を次々と攻撃して暴れる長州藩は尊ばれる孝明天皇から見ても危なくて厄介な存在でした。

長州藩 京都からの追放

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カウンタークーデター・八月十八日の政変

安政の大獄による弾圧を続けた幕府でしたが、これを行った張本人・井伊直弼が1860年の桜田門外の変で暗殺されると、尊王攘夷派の士気が急激に高まります。尊王攘夷派による暗殺や暴行が繰り返され、将軍・徳川家茂も攘夷の決行を迫られたのでした。

しかし決行当日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃するものの、他の藩はそれに乗る動きを一切見せようとしません。一方の外国は長州藩に対して報復しますが、それでもなお近隣の藩は動こうとせず、攘夷決行を約束した将軍・徳川家茂も京都を離れてしまいます

孤立状態になった長州藩はクーデターを企てて天皇自ら攘夷を行うよう画策しますが、このクーデター計画に対して孝明天皇や薩摩藩がクーデターで返し、これが1863年の八月十八日の政変です。結果、長州藩を中心とした尊王攘夷派は京都を追い出されてしまいました

池田屋事件による進発論の決行

八月十八日の政変によって京都を追い出された長州藩は、活動の拠点を失ってしまいました。再び政治の主導権を握ることを狙う長州藩でしたが、そのための手段は藩内で意見が真っ二つに分かれます。一つは「現状を打開するために京都に乗り込むべき」という進発論、もう一つは「今は軽率に動くべきではない」という慎重論です。

ここで多くの支持を得たのは慎重論でした。なぜなら、兵を挙げて京都に赴けば今度は京都を追い出されるどころか朝敵(天皇の敵)とみなされる可能性を怖れたからです。そんな時、池田屋事件が発生して京都に潜伏中の長州藩の尊王攘夷派が新撰組に殺害されます。

これに怒った長州藩は、慎重論から一変して進発論を支持するようになりました。そして、「八月十八日の政変において藩主に罪がないこと」、「八月十八日の政変において追放された尊王攘夷派の公家を復帰させること」などを訴えるため挙兵して京都に向かったのです。

長州藩 失墜と復活

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朝敵とみなされた禁門の変

京都に赴いた長州藩は朝廷に意見を訴えますが、まるで相手にされず退去命令を下されてしまいます。それでも引かない長州藩に対して会津藩が衝突、1864年の京都御所にて起こったこの事件を禁門と変と呼び、御所の西にあった蛤御門(はまぐりごもん)の近くで事件が起こったことから蛤御門の変とも呼びました。

禁門の変では長州藩が優勢でしたが、会津藩と同盟を結んでいた薩摩藩が加勢すると形成逆転、長州藩は戦いに敗れた上に朝敵とみなされてしまいます。朝敵とみなされた長州藩は武器も購入できず、その上外国から攘夷の報復を受けていて軍事力が急激に低下しました。

これをチャンスとしたのが幕府であり、朝敵となった長州藩を堂々と攻撃できることから、1864年に長州征討を行います。この時長州藩はとても戦える状態ではなかったため、戦闘は行わず幕府の要求に従って何とか藩の滅亡の危機を回避しました。

坂本竜馬の活躍と薩長同盟の締結

朝敵とみなされ、幕府にも攻撃され、外国にも報復され……もはや壊滅寸前の長州藩でしたが、ここで坂本竜馬が長州藩と薩摩藩の同盟を促します。とは言え、長州藩にとって薩摩藩は禁門の変で敗北した相手ですから、間違っても頭を下げることなどできません。

何しろ長州藩は薩摩藩を恨んでいることから、裏に「薩賊会奸」と書いたわらじを踏みしめながら歩いたほどなのです。そこで坂本竜馬は亀山社中という日本では初となる貿易会社を設立、それをきっかけにして薩摩藩と長州藩の関係を修復しようと努めます。

亀山社中を通じて長州藩の米を薩摩藩に売り、薩摩藩の武器を長州藩に売ったのです。火山がある土地柄から薩摩藩は米の不作が多く、朝敵であるため長州藩は武器を購入できず、そのため亀山社中が両藩を救うことになりました。また同時に両藩の関係の修復を見事実現、1866年に薩長同盟が締結されたのです。

長州藩 倒幕と藩の終わり

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\次のページで「尊王攘夷から倒幕へ」を解説!/

尊王攘夷から倒幕へ

幕末に生まれた公武合体と尊王攘夷の思想、当初薩摩藩は朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を推していました、このためその実現のための参与会議も開催されましたが、将軍・徳川慶喜との衝突が絶えず、結局わずか数ヶ月という短期間で参与会議は崩壊してしまいます

そこで薩摩藩は公武合体を諦め、政治の世界から幕府を追放するため倒幕を考えるようになりました。一方の長州藩は天皇中心の政治を行う尊王攘夷を推していましたが、攘夷の報復を受けたことで外国の軍事力の高さを知り、そのため攘夷は不可能だと悟ります。

とは言え、外国に対抗するには幕府は頼りなく、そこで長州藩も倒幕を考えるようになるのでした。坂本竜馬は薩摩藩と長州藩が手を組めば倒幕が叶うと思っており、薩長同盟の締結によってその基盤……つまり、倒幕実現に向けた第一歩が達成されたのです。

廃藩置県による藩の廃止

薩長同盟を締結した頃、既に幕府は権威だけでなく武力も低下しており、二回目の長州征討では逆に長州藩に撃退されました。これで幕府の権威と武力の低下がハッキリと知れ渡ってしまい、世間では倒幕ムードが加速していくことになります。

そんな雰囲気を悟ってか、将軍・徳川慶喜は1867年に大政奉還を行って政権を天皇へと返上、自ら幕府の歴史に幕を下ろすことにしたのです。そして王政復古(武家政治を廃止して君主政体に戻す政治転換)が行われると、長州藩は薩摩藩とともに明治政府の中核になりました。

その後の戊辰戦争でも長州藩の藩士は上野戦争などで活躍、幕末の戦いの勝者となったのです。しかし、明治時代が始まると明治政府の廃藩置県によって藩は廃止され、長州藩という名の歴史は「藩が廃止された」という理由であっけなく終わることになりました。

長州藩を学ぶなら先に尊王攘夷を学ぼう

長州藩を学ぶ上で欠かせないキーワードは尊王攘夷でしょう。幕末において長州藩は滅亡の危機にさらされますが、それは長州藩が尊王攘夷派だったことが大きな理由になっています。

つまり、尊王攘夷を理解せずに長州藩を理解することはできず、学ぶ順序としてはまず尊王攘夷の思想をしっかりと学び、それから長州藩を学ぶとより理解しやすくなるでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

一度は朝敵にもなった「長州藩」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は長州藩について勉強していきます。吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文など、歴史上の有名な人物の中には長州藩出身の者が多く、また幕末の歴史においては長州藩自体が頻繁に登場する。

歴史を学ぶには人物や事件・戦争を覚えるのも良いが、その人物の出身や事件・戦争に関係する藩のことを知っておくのも大切です。そこで今回、長州藩について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から長州藩をわかりやすくまとめた。

長州藩の場所と領国

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長州藩は現在の山口県

長州藩の藩主・毛利家は、豊臣秀吉の時代には彼に仕えていました。五大老の一人となった毛利輝元は安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐……実に中国地方の大半約112万石を所有していましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に戦争責任を取らされます。

その結果として毛利輝元は隠居を命じられ、嫡男・毛利秀就が後を継ぐことになりますが、この時与えられた領地は前述した中の周防・長門の約30万石のみであり、領国は豊臣秀吉の時代の1/4ほどに減らされてしまいました。そして、この周防・長門の領国が長州藩です。

場所は現在の山口県に位置しており、周防が山口県東部、長門が山口県西部に該当するため、ちょうど現在の山口県全体が当時の長州藩だと考えれば良いでしょう。また、長い間藩庁が萩城に置かれていたため、長州藩ではなく萩藩と呼ばれることもありました。

長州藩の石高の変化

既に長州藩をある程度学んでいる人は、長州藩が約30万石という点に違和感があるかもしれません。これについて解説すると、毛利秀就に周防・長門の領国が与えられた時は約30万石とされていましたが、その後の正確な検地によって約54石であることが発覚したのです。

ここで問題なのが、長州藩の藩主である毛利家は関ヶ原の戦いにおいて西軍について敗北したということ、敗者に約54万石もの領国が与えられるのはあり得ません。実際、勝者の東軍に功績のある隣国の隣国の広島藩主・福島正則ですら約50万石ですからね。

そこで幕府は他の藩との兼ね合いを考えて長州藩を約37万石と公認したのです。つまり、当初約30万石とされたはずが正確な検地で約54万石だと発覚、これでは他の藩とのバランスが悪いということで約37万石という形で落ち着かせたわけですね。

長州藩 財政の回復と幕末

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財政難と解消までの道

領国が全盛期の1/4ほどになってしまった長州藩は当初財政が厳しく、そのため第7代藩主・毛利重就は、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発といった経済政策に力を入れました。それでも1831年には長州藩天保一揆が発生、追い打ちをかけるように1833年には天保の大飢饉も起こります。

藩の負債が膨らむ中、その状況を一変させたのが第13代藩主・毛利敬親でした。1836年に藩主に就任した彼は常に「うん、そうせい」と返答することから「そうせい侯」と呼ばれており、藩主として頼りなさを感じさせたものの、村田清風を登用して天保の改革を行います

村田清風の失脚後も天保の改革は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助らに引き継がれ、中でも下級武士から支持されていた周布政之助は安政の改革も行いました。この間に長州藩は藩公認で密貿易を行うなどして巨万の富を得ることになり、藩の財政は一気に裕福になったのです。

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