勉強の成果を高めるにはそれについて興味を持つと良い。その意味では、土方歳三(ひじかたとしぞう)について勉強するのはそれほど難しくなく、なぜなら彼は歴史上の人物の中でも大河ドラマや漫画の主人公として扱われるほど魅力的かつ人気で自然と興味を持ちやすいからです。

本来、歴史上の人物の勉強は誕生から年表を辿るのが基本ですが、土方歳三においては彼の生きた証とも言える新選組の時代を徹底的に覚えるのが良いでしょう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から土方歳三をわかりやすくまとめた。

土方歳三を学ぶなら新選組を学ぼう

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新選組とはどんな組織なのか

土方歳三を学ぶ上で欠かせないのが新選組です。新選組とは江戸時代の末期である1863年に尊攘派浪士らの鎮圧の目的で結成された浪士隊であり、言わば江戸幕府の補佐を担っていました。

誕生時は壬生浪士組と呼ばれていましたが、同年に起こった八月十八日の政変の活躍により、新選組の名を賜ったのです。ちなみに新選組を漢字で書く際、「新選組」と「新撰組」で悩む人が多いのですが、書籍によって漢字表記が異なります。

ただ最近では前者……つまり「新選組」と表記することが多くなっているようです。さて、そんな新選組ですが活動したのはわずか6年ほどしかありません。結成は1863年、解散は1869年、このわずか6年で日本中に名をとどろかせるほどになりました。

また、新選組のメンバーとして有名なのは土方歳三だけではなく、新選組二代目局長の近藤勇(こんどういさみ)一番組組長の沖田総司(おきたそうじ)らもよく知られています。

新選組が誕生するまでの歴史

元々は浪士組と呼ばれており、江戸幕府の将軍警護を目的で志願者を募ってできた組織です。ただ、浪士組結成を提案した清河八郎は反幕府の思想を掲げる尊王攘夷派の先頭に立たせて活躍させることを本当の目的としていました。

浪士組は清河八郎のこの画策に気づき、その計画を阻止しようと江戸に戻ります。しかし、近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派と芹沢鴨を中心とする水戸派は将軍の警護のため京都の壬生村に残ったままでした。

そして1863年の3月、京都守護職である会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)の許可の元に壬生浪士組が誕生したのです。壬生浪士組はその後の八月十八日の政変で大きく活躍、それを機会に新選組の名前を賜ることになりました。

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新選組の活躍 池田屋事件と禁門の変

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新選組の名前を世に知らしめた池田屋事件

江戸時代の幕末期の志士達はそれぞれが様々な思想を持っており、そのため旅館などに集って今後の日本の未来を語る……言わば密談がたびたび起こっていたのです。また、それと同時にこのような状況を弾圧するため、旅館を襲撃する事件も頻繁に起こっていました。

池田屋事件とは1864年7月8日、池田屋旅館に潜伏していた長州藩や土佐藩など尊王攘夷派の志士達を新選組が襲撃した事件です。ちなみに、新選組局長の近藤勇はこれを洛陽動乱と名付けたとされています。

当時、京都から追放された尊王攘夷派の長州藩は勢力挽回を目指して画策していました。そして、反乱のために池田屋で集会していたところを警備していた新選組が摘発、襲撃したのが池田屋事件です。

新選組がきっかけを作った禁門の変

禁門の変とは1864年、京都を追放された長州藩の兵たちが起死回生のために御所の門を固めている会津藩や薩摩藩と戦った事件です。京都御所付近での戦闘はまさに強硬策と呼べるもので、長州藩士がそこまでの行動をとったきっかけこそ新選組による池田屋事件でした。

池田屋事件では多くの長州藩士が新選組の摘発により逮捕や殺害をされ、この事件によって同志の長州藩士が憤慨して京都への出兵を決断したのです。禁門の変によって長州藩は「朝敵」(朝廷の敵)と認定され、禁門の変で敗北した長州藩は追いつめられることになりました。

禁門の変は「蛤御門の変」「元治の変」とも呼ばれており、新選組もこの戦いに参加したようですが、後手に回ったため目立った活躍はなかったようです。しかし、新選組が戦いのきっかけを作ったという意味で禁門の変も覚えておきましょう。

新選組の活躍 ぜんざい屋事件と三条制札事件

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大坂城乗っ取りの計画を阻止したぜんざい屋事件

ぜんざい屋事件とは1865年、大坂城の乗っ取りを計画した土佐勤王党の残党を新選組が襲撃した事件です。大坂には故郷の藩を脱藩した土佐浪士達が隠れ住んでいましたが、大坂南瓦町にぜんざい屋を営む本多内蔵助らは大坂城乗っ取りの計画を立てていました。

新選組の大坂屯所隊長を務める谷万太郎はこれに関係する不審情報を入手すると、谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎の四人でぜんざい屋を襲撃したのです。ただし、実際には襲撃するも当時ぜんざい屋には土佐勤王党の姿は外出によってほとんどありませんでした。

それでも、このぜんざい屋事件によって大坂城乗っ取り計画を立てていた一人である大利鼎吉(おおりていきち)を殺害しますが、襲撃を知った他の残党達は逃亡しました。

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江戸幕府衰退を象徴する三条制札事件

三条制札事件とは1866年、八人の土佐藩士が制札(法令を記した板面を掲示したもの)を引き抜こうとした際、治安維持を行っていた新選組がこれを襲撃した事件です。制札は三条大橋西詰北に掲げられたいたものであるため、三条制札事件と呼ばれています。

事件の背景には江戸幕府の衰退が関係しており、当時権威の失墜した幕府の立てた制札が引き抜かれる事件が頻発して起こるようになりました。特に事件の場所の制札は三度も引き抜かれており、そのため新選組が警備を命じられていたのです。

事件後、浅野薫が新選組を追放されることになりますが、これは三条制札事件による浅野薫の振る舞いが臆病であったためとされています。また、一方で参戦した隊士達には会津藩より恩賞が与えられることになりました。

新選組の最期 戊辰戦争

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戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いは1868年、戊辰戦争の初戦となった戦いです。つまり、この鳥羽・伏見の戦いが皮切りとなり、日本全国の規模となった戊辰戦争に広がることになっていきます。新政府軍と旧幕府軍の戦いである鳥羽・伏見の戦いにおいて新選組は旧幕府軍に属していました。

土方歳三が率いる新選組は斬り込み攻撃を仕掛けますが、対する新政府軍である薩摩兵は海外の技術や武器を取り入れての銃撃で応戦します。刀と銃……この不利な状況にもかかわらず新選組は突撃を繰り返していきました。

新政府軍の5000名に対して旧幕府軍は15000名の兵力でしたが、指揮官の逃亡などによって新政府軍の攻撃に持ちこたえられず撤退、この戦いによって新選組も隊士の1/3が戦死しています。

土方歳三の最期となった箱館戦争

箱館戦争は五稜郭の戦いとも呼ばれており、戊辰戦争の最後となる戦いです。そして、土方歳三はこの箱館戦争で死亡することになります。土方歳三は1868年、旧幕府軍の榎本武揚らと蝦夷地・箱館にやってきました。

新政府軍の甲鉄艦奪取のために宮古湾海戦などにも参加するものの、作戦は失敗してここでの多くの死傷者を出します。ただ、それでも土方歳三は生き残っていました。翌1869年の5月11日、土方歳三はわずかな兵を率いて仲間の救出のために出陣します。

新政府軍に応戦する土方歳三でしたが、新政府軍の銃撃によって戦死……35年の人生をここ箱館で終えることになったのです。また、この時既に新選組の近藤勇や沖田総司は死亡しており、土方歳三の死は同時に新選組の終焉ともなりました。

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江戸時代の終焉と明治時代の幕開け

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旧幕府軍の反発を招いた大政奉還

1866年、15代将軍の徳川慶喜はわずか一年足らずの期間で政権を朝廷に返上しました。これが大政奉還です。大政奉還で政権を返上した徳川慶喜でしたが、本心では朝廷の政治に参加することで発言の権限を強くできるのではという企みがありました。

ただ、実際には新政権は若い明治天皇をトップにすることになり、これを王政復古の大号令と言います。さらに新政権によって幕府と朝廷は廃止、代わりとして総裁、参与、議定の三職を設置、さらに薩摩藩や長州藩などの有力な代表を付ける決まりにしました。

新政権によって追いつめられる形となった幕府側はこれに反発、大政奉還は新政府軍に対して旧幕府軍が戦おうとするきっかけになったのです。年表だけで追ってしまうと、1866年に大政奉還したはずが1868年に新政府軍と旧幕府軍が戦うのは一見矛盾して見えるでしょう。

その理由は大政奉還によって旧幕府側が追いつめられてしまい、新政府側に反発しようとしたからです。こうして一年にも及ぶ新政府軍と旧幕府軍の戊辰戦争につながっていきます。

旧幕府軍と新政府軍が戦う戊辰戦争

戊辰戦争とは、1868年から1869年にかけて行われた旧幕府軍と新政府軍の戦いです。戊辰戦争と表現すればその一言の説明になりますが、戦争の中ではいくつかの大きな戦いが日本の各地で繰り広げられていました。

初戦となったのは鳥羽・伏見の戦いで、上記で説明したとおり言わば戊辰戦争のきっかけとなった戦いです。この他に二度の攻城戦が行われた世直し鎮圧を目的とした宇都宮城の戦いもあります。

また、新政府軍のアームストロング砲による攻撃で旧幕府軍の彰義隊をわずか一日で壊滅させた上野戦争、それ以外に東北戦争などもあるのです。ちなみに、東北戦争はそのきっかけとしてわずかながら新選組の行動が関わっているものの、これらの戦いに土方歳三は関係していません。

ただ、土方歳三の戦死した箱館戦争は戊辰戦争の最後となる戦いであり、そのため土方歳三を学ぶには戊辰戦争の流れや当時の世の中の動きをある程度把握しておくべきでしょう。

土方歳三イコール新選組、新選組イコール土方歳三

土方歳三と言えば新選組、新選組と言えば土方歳三です。少年時代はバラガキと呼ばれた土方歳三が新選組では鬼の副長と怖れられ、わずか6年ほどで新選組として日本の歴史に残る数々の戦いや事件に関係してきました。

このため、土方歳三を学ぶのであれば彼の生い立ちを辿るよりも新選組としての戦い、そしてその時の世の中の動きに注目するのが良いですね。

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幕末日本史歴史江戸時代

江戸幕府の幕末の主役「土方歳三」を元塾講師がわかりやすく解説!戦に生きた「土方歳三」と新選組が3分で簡単

勉強の成果を高めるにはそれについて興味を持つと良い。その意味では、土方歳三(ひじかたとしぞう)について勉強するのはそれほど難しくなく、なぜなら彼は歴史上の人物の中でも大河ドラマや漫画の主人公として扱われるほど魅力的かつ人気で自然と興味を持ちやすいからです。

本来、歴史上の人物の勉強は誕生から年表を辿るのが基本ですが、土方歳三においては彼の生きた証とも言える新選組の時代を徹底的に覚えるのが良いでしょう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から土方歳三をわかりやすくまとめた。

土方歳三を学ぶなら新選組を学ぼう

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新選組とはどんな組織なのか

土方歳三を学ぶ上で欠かせないのが新選組です。新選組とは江戸時代の末期である1863年に尊攘派浪士らの鎮圧の目的で結成された浪士隊であり、言わば江戸幕府の補佐を担っていました。

誕生時は壬生浪士組と呼ばれていましたが、同年に起こった八月十八日の政変の活躍により、新選組の名を賜ったのです。ちなみに新選組を漢字で書く際、「新選組」と「新撰組」で悩む人が多いのですが、書籍によって漢字表記が異なります。

ただ最近では前者……つまり「新選組」と表記することが多くなっているようです。さて、そんな新選組ですが活動したのはわずか6年ほどしかありません。結成は1863年、解散は1869年、このわずか6年で日本中に名をとどろかせるほどになりました。

また、新選組のメンバーとして有名なのは土方歳三だけではなく、新選組二代目局長の近藤勇(こんどういさみ)一番組組長の沖田総司(おきたそうじ)らもよく知られています。

新選組が誕生するまでの歴史

元々は浪士組と呼ばれており、江戸幕府の将軍警護を目的で志願者を募ってできた組織です。ただ、浪士組結成を提案した清河八郎は反幕府の思想を掲げる尊王攘夷派の先頭に立たせて活躍させることを本当の目的としていました。

浪士組は清河八郎のこの画策に気づき、その計画を阻止しようと江戸に戻ります。しかし、近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派と芹沢鴨を中心とする水戸派は将軍の警護のため京都の壬生村に残ったままでした。

そして1863年の3月、京都守護職である会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)の許可の元に壬生浪士組が誕生したのです。壬生浪士組はその後の八月十八日の政変で大きく活躍、それを機会に新選組の名前を賜ることになりました。

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