
伏見城を攻略
輝元が挙兵したことで三成も奉行衆と共に西国軍の一員として協力していきます。ところが、上杉討伐として家康に従軍していた諸将らも西国へ戻る旨の連絡をしたのは三成と大谷吉継が転進の指示。東国の諸所らを家康から離反させるために大坂城内の大名屋敷にいた妻を人質としましたが、思ったほどの効果が出ないうえに更なる反感を買ってしまうことになる三成でした。
まず、伏見城を攻めるべく宇喜多秀家と小早川秀秋の軍勢で攻撃を仕掛けていくも籠城している千八百の兵を崩すことができなく苦戦を強いられてしまう西国軍。圧倒的軍勢にもかかわらず半月かけて落城させ未だどちらにも属していない大名を仲間に引き入れるべく説得をしていきます。
東国の福島正則や黒田長政らが思いのほか早く兵を戻してしてきました。
兵の士気を挙げるために奇襲を仕掛ける
家康は1600年9月1日に江戸から出発し大垣城へ向かって侵攻していきます。ところが、大垣城前の赤坂本陣では白旗が増えていき家康が着陣したのではと思われ兵が動揺してしまいました。この状況のままでは戦にならないと感じた清興と蒲生郷舎らは、三成に杭瀬川奇襲作戦を立案し了承を得ます。
是が非でも勝利しなければならなかったため伏兵を機能させつつ少数部隊で見事勝利を収め西国の士気を上昇させました。この戦の情報を聞いた家康は激怒し本田忠勝と井伊直政は兵を引き揚げさせます。
天下分け目の大戦
奇襲も成功し勝どきを挙げた西国は、このまま関ヶ原で勝利していきたいところでしたが無理やり西国に属した大名が多かったため全く纏まりがありません。そうしている間に1600年9月14日に関ヶ原で三成率いる西軍と家康率いる東軍が正面からぶつかっていきます。三成は関ヶ原が一望できる笹尾山に陣を構えていて、小西行長と秀家隊は中央で戦い吉継は小早川隊の裏切りに備えて松尾山付近に陣を構えました。
兵力では優勢でありながら戦に参戦せずに傍観している島津隊や毛利隊。それを補うようにして小西隊と宇喜多隊が奮戦し前線を押し出していきました。状況が優勢になったところで傍観している島津隊と毛利隊に出陣するよう催促するも島津は話を聞かず、毛利軍は弁当を食べているので出陣できないといい全く加担しようとしません。
こちらの記事もおすすめ

これは分かりやすい!「関ヶ原の戦い」の流れを物語感覚で元塾講師が5分でわかりやすく解説
戦状況が一変してしまう
前線で奮戦していた小西隊と宇喜多隊そして清興隊は、次第に兵が疲弊していき隊列が崩れていくと同時に秀秋が東軍に寝返り周辺に着陣していた脇坂安治や朽木元網らは大谷隊へ攻め入ります。多くの将が東軍に寝返ったことで戦況が一変。大谷隊は、長らく奮戦していたものの兵力差があり吉継は自刃し小西隊と宇喜多隊も壊滅してしまいます。秀秋の動きで西軍は敗北となり三成も清興が殿を務め討死し敗走。
残された島津隊は、東軍の中央突破するため捨て身の覚悟で敵兵の中を突き進んでいきました。鬼気迫る島津隊に恐れをなし逃げ出す者もいましたが、多勢に無勢で徐々に兵が少なくなっていき最後は島津貴久が殿を務め討死し九州まで戻ることができました。
再起を誓い続ける三成
戦に敗れた三成は春日村まで逃げたましたが、伊吹山山中で秀吉に仕えていた時代の旧知の仲であった田中吉政に捕まり京都に護送されました。また関ヶ原で、破られ石田一族のいる佐和山城も東軍に攻められ落城し石田正澄らは討死します。関ヶ原の主要人物だった三成は大津城で晒し者にされ、安国寺恵瓊と小西行長と共に六条河原へ移動し首を刎ねられてしました。
死後の首は、大徳寺に葬られて埋葬され享年四十一歳の年齢で亡くなります。三成ら奉行衆がいなくなったうえに輝元と景勝の領地を少なくされ武断派も家康の下についていきました。これにより豊臣家の力が衰退していき家康が、日の本の実権を握り1615年に大坂の役で豊臣方を根絶やしにされてしまいます。
三成は首を刎ねられる最後まで再起を図ろうとしていたことが書き留められていました。
奉行を全うし豊臣政権を後押しした将
秀吉が台頭してきたころに奉行職が確立され、戦での活躍により石高を増加させたり転封したときにはおおいに役立ちました。またこの時代では国ごとに米の測りが違い大名によって石高もばらばらで統一されていなく見直しを図ったことで測り方が統一されます。五奉行のおかげで明を攻めた際も、移動ルートから兵糧の運び入れなど重要な役割を果たすとともに監視役や取次役・交渉役など武断派ではできなくことをやってのけてきたのも三成らがいてこそ素早く行動が出来たのでしょう。
秀吉の言葉をそのまま、伝える役を担っていたため諸大名に嫌われてしまうことも多々あったようです。また、性格にも一癖も二癖もあったようで何か起きた場合には逐一秀吉に報告したり伝える言葉にも棘があったりしていたことで嫌われ者が定着してしました。
しかし、三成を慕っていた清興・吉継や奉行衆は三成の豊臣家に対する熱い思いに動かされていったのだと思います。