
忍城を水攻めで攻略

秀吉の命で水攻めすることになった三成は早速、堤防の準備に取りかからせました。秀吉のからの書状で水攻めをするため細かな指示を三成に与えていきます。
秀吉が備中高松城で水攻めをした際は、周り四kmの高さ八mで堤防を築き上げましたが今回は総延長で二十八mと広大な堤防を築くために平民に金を与え昼夜休まず働かせていました。平民達のおかげたった五日間で堤防を築き利根川の水を引き入れ忍城に流し込んでいきます。
ところが、予想していたよりも水が入らず本丸だけ浮いた状態となりました。利根川の水があまり入らなかったものの6月中旬から降り続く雨のおかげで本丸まで水没したと思われましたが、北条方の兵によって堤防を破壊されてしまいます。
戦下手で名が知られてしまう
堤防が破壊されたことで、豊臣軍の兵は混乱に陥り死者数が約三百名で忍城一帯は泥沼化してしまいました。兵を取りまとめ、忍城を陸地から攻めようにもぬかるんでいるため忍城の守備隊と交戦した浅野長政隊と真田昌幸隊は勝利するも疲弊した兵を一旦下げています。何度か攻め入るも地形と忍城の兵よって耐え続けていました。
7月初旬に景勝が到着するも秀吉から決壊した堤防を修復して、水攻めをするように命令されています。堤防を整えようとしたところで小田原城にて氏政が降伏し忍城の城主、成田氏長が説得しに城内に入り遂に忍城が降伏したことで小田原征伐を成功させました。
このことが原因で、三成が戦下手だという話が広まってしまったようです。実際には、秀吉からの命令だったため振り回されたことが原因であったことは残された書状に書かれました。
明を支配するために兵を総動員
天下統一を為し遂げ次なる土地を支配すべく大明帝国に攻撃を仕掛けていきました。明までは船舶でしか向かうことができないため戦線部隊からすると武器や弾薬や兵糧などが無くてはならないので国内の戦であればあまり時間を要せずに運搬できるが明ではそうはいきません。
三成ら奉行衆の役目として、戦の後方支援が中心となっていて戦況に応じて補給が尽きないよう届けることです。そして、蔚山城の戦いで後の関ヶ原に直結する事件が起きました。四十日ほどで完成させた蔚山城でしたが、指揮官として加藤清正が任命されていたものの西生浦に出向いていて築城を任された毛利秀元しかいません。
奇襲を仕掛けられ仮陣営が焼き払われ浅野幸長と太田一吉らは蔚山城まで撤退し加藤清正と共に籠城を行い連日の攻防でじわじわと豊臣方が優勢となり最終的には援軍の到着があり勝利することができました。戦を終えた後に蜂須賀家長らは戦線縮小を秀吉に提案するも却下されたうえに戦闘に参加しなかった報告も三成の縁戚だった福原長堯がしています。
秀吉死後に家康が日の本の実権を握り始めていく
明出兵を行い支配する予定でしたが、秀吉の死去したことにより出兵が中止され現地で留まっている将たちの帰国命令が下ります。清正を中心とする武断派と三成中心の文治派が形成され対立が表面化していきました。
秀吉の遺言に反し家康の掟破り
秀吉死後に嫡男だった豊臣秀頼が五歳の若さで家督を相続し、秀吉遺言に従い母の淀と共に大坂城へ移り居城としました。五大老の一人だった毛利輝元らと三成ら四奉行にて意見の相違者が出た場合は、秀頼に協力して物事を解決していく誓いの書を書き留めています。
秀頼のためにと動いている中で五大老の一人でもある家康は、婚姻関係を結ぶ場合は五大老と五奉行の下で決定する秀吉の遺言があったにもかかわらず独断で福島正則らと進めようとしていました。しかし、このことに気づいたことで同じく五大老である前田利家を中心とした家康凶弾し戦まで発展すると思われましたが記請文を書き一旦は落ち着きを見せます。
利家が死去し更に家康が台頭し三成襲撃事件が起きる
何事もなく時代が進んでいくと思われた矢先に豊臣派で一番力を持っていた利家が亡くなり清正らと三成らの対立が激しくなっていきました。武断派と文治派の両方を押さえつけていた利家がいなくなり叱咤されることも無くなった清正は三成の首を取ろうと暗躍していきます。襲撃される日にちを秀頼近習の桑名治右衛門の耳に入り清興に情報を伝え三成は佐竹義宣の屋敷に逃げ込むも加藤軍が迫ってきたことを察知し伏見城の屋敷で身を潜めました。
その後、家康に仲介により三成を隠居することと蔚山城の戦いでの査定を見直すことで決着がつきます。また、北政所の仲裁を受けたことで家康も中立的立場で動こうとし三成と協力体制を築いていくことを模索した時期もあったようです。
十九万石の大名と二百五十万石の大名

三成屋敷襲撃と同年に秀頼に菊の節句を読むために大坂城へ入城。入城した後に、加賀の前田利家が家康謀反を浅野長政と土方雄久、大野治長にて計画されている情報を聞き暗殺計画に加担した将達は地位を失い蟄居させられてしまいます。
家康はこの騒動に乗じて大坂城に居座り政敵を排除し味方を増やすため加増や転封を実施していきました。そしてこの後に、天下分け目の戦いが発生していくところを見ていきましょう。
会津征伐へ
落ち着きを見せていた大名達でしたが、米沢で百二十万石を食んでいた上杉景勝が重臣の直江兼続に神指城を改修し増強を図っていました。この動向を隣国の最上義光らが家康へ報告していて反逆の意志がなければ、上洛して弁明するべきだと家康は書状に書き記しています。この書状を受け取った、景勝と兼続は家康に対し弾状の書状を送りつけました。内容は、家康に対する不服申し立てが書かれていて家康は激怒。
直江状によって会津征伐が決まり家康は、軍を率いて大坂城を出発します。同日に三成を除く三奉行が輝元に上坂申請を出した直後に、家康に対する弾丸状を各諸大名へ送られたことで家康対反家康軍が結成されました。
大坂城で挙兵の情報を察知した家康は、下野国にて評定を開き家臣らを呼び話し合いの末に二手に軍を分けて大坂に向けて進軍。会津征伐は、伊達政宗と義光らが引継ぎします。
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