室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉に才を見出された「石田三成」を戦国通サラリーマンが5分で解説

先駆者として武功を挙げる

秀吉が戻ったことで羽柴軍の指揮が上がり柴田勢に攻撃を仕掛けていきます。攻撃を仕掛ける前に柴田軍の動向を探るため三成や大谷吉継ら十四名ほどで情報を探り知り得た情報で城柵を作り勝家を牽制し戦を優位に進めることができました。

そして旧友だった利家が戦わずして戦線を離脱すると、柴田軍の指揮が下がり更に秀吉子飼いの将だった加藤清正や福島正則らが盛政の部隊は壊滅します。佐久間隊が壊滅したことで、勝家本陣まで羽柴軍が押し寄せ北ノ庄城まで退却するも奇しくも利家が先鋒となり自刃を決断しました。

勝家に勝利した秀吉は、織田家遺臣団を臣従させ各地の大名に対して服従する旨の書状を出しています。

各地の検地奉行

天下に近しい秀吉の傍らで、戦略と戦術は主に黒田孝高で兵の移動ルートや兵糧などの運び入れを主に行動した三成。秀吉は優秀な将がいたおかげで優位的な立場で戦をすることができていました。一方で、戦をしていない期間に下地を整えるために三成らに検地を任せていきます。

秀吉と対立していく織田家

賤ケ岳に勝利した秀吉方は、織田家の当主が山法師となり信雄らが後見人になります。安土城で後見役を務めていましたが秀吉によって安土城から追放され腹を立てた信雄は家康と同盟を交わし隣国大名達を巻き込み対立していきました。

初戦の羽黒の戦いでは、池田恒興と森長可らは家康方の密偵によって着陣情報が洩れ奇襲攻撃を仕掛けられ池田・森部隊は敗走してしまいます。その後、家康は小牧山城を占拠し守りを固めている間に秀吉は大阪から出陣し楽田城に本陣を構えました。

小牧長久手で秀吉と家康は雌雄を決すべく交戦した結果、戦いは和睦で解決したものの主力の将だった恒興と長可らは討死し秀吉方で二千五百人と大きな損害に対して家康方は五百五十人と大敗。この時の三成の動きははっきりと分かっておりませんが、長期化していたので兵糧などの後方支援に従事したと思われます。

官職を授かり奉行職に励んでいく

形式上で秀吉に服従することになった家康。この頃に三成は近江国の蒲生郡を検地していました。検地とは平安時代には国家の所有物として管理されていましたが、時代の変化に伴って不明確となっていき領土が立ち代わりしていく戦国時代ではほぼ管理が出来ておらず生産高がはっきりとしていません。

検地改革を行っていったのは信長で、農業生産高に応じた課税をしていた記録が残っています。政権を引き継いだ形の秀吉も同様にいき三成のような頭が切れる大名達を任命していました。その中でも三成の能力は知れ渡っていてようです。

三成が尽力した結果で、正式な農地区分が計測され中間接取していた武将達がいなくなり耕作者が決められた税を納めていくことになりました。

有力大名が秀吉へ臣従する

家康と和睦して以降、秀吉の力が世に示され朝廷から関白までも授かり天下統一も目前となります。この頃に、上杉景勝も秀吉に臣従するため上洛することになり三成は取次役として景勝らの宿泊場所や秀吉との謁見日時を決めるなどをしていました。また、景勝だけでなく上洛してくる大名達も同様に取次役として奔走しています。

秀吉が、関白となり三成も従五位下治部少輔を授かり四万石を秀吉から与えられました。翌年の1586年に島清興を配下に加えていますが、二万石という自身の半分の石高を与えるという破格条件で清興に伝えるとあまりの破格条件に驚いたことと三成の熱意に負け配下になったとされています。

堺と博多奉行

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蒲生郡の検地も終了し次なる奉行先として堺を命じられました。堺は大阪湾に隣接する国で商業が盛んであり戦火が及ばない町で武器の調達は堺が中心だったとされています。中立的な立ち位置として存在していた堺でしたが、十人の会合衆呼ばれていた人達で支配されていて金銭の貸し借りなども商売として行っていました。

また、四国や九州への移動ルートしても機能していて後に臣従する長宗我部元親などへ攻撃を仕掛ける際の要所となっています。この堺を完全に従属させて堺を兵の中継場所として整備していました。

元親が秀吉に臣従し、更に西の九州では大友宗麟と島津義久が対立。大友氏が秀吉に援軍を求めた形で九州征伐を決定し三成が整えた堺から水軍を活用し兵糧・兵・武器などを素早く運搬できたため一年足らずで義久を屈服させることができました。

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世の流れは、秀吉に向いてきてはいたが最大の敵であった家康が前に立ちふさがっていたようだ。秀吉らが戦をしている間に各地の奉行を行い石高を確認したことで正確な石高の把握をすることができたこととは、徴収において役だったことだろうな。

配下に加えた将として清興は有名だが、豪傑として名をはせた渡辺勘兵衛も五百石で召し抱えていたようで秀吉の誘いすら断った男たちを味方にしていったようだ。

遂に天下統一を成し遂げることができた

西国も平定し、残す敵はの伊達氏と相模の北条氏のみとなりました。北条攻めに関しては、総指揮を秀吉から任され城を落とそうする三成。そして、北条家を滅亡したあとに朝鮮出兵が行われていきました。

相模の北條氏

九州の島津氏まで秀吉に臣従し、天下統一まで手が届きそうなところまできていました。秀吉は、臣従するように北条家当主の氏政に書状を出して促すも一向に動く素振りを見せず真田領の名胡桃城を奪取するなど秀吉に対して徹底抗戦の構えをとっています。氏政も知らぬ存ぜぬといっていると秀吉が激怒し北条討伐を決定。小田原城を攻める直前に伊達政宗は秀吉の臣従するため謁見しています。

北条討伐に参陣するまえに美濃国を検地完了させ小田原城の支城となっている忍城を秀吉から任せられる三成でした。忍城は戦上手とされていた上杉謙信も北条氏康も攻め落とせなかった堅城。少々、三成には荷が重い戦でしたが参戦した将は歴戦の強者達で強硬突破でも攻め落とすこともできました。

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