
秀吉から才能を見抜かれ、戦支度では三成に右に出るものがいないとまでいわれた三成を今回は、歴史ライターwhat_0831と一緒に紹介していきます。
- 秀吉の優秀な官僚が誕生する
- 近江国で誕生
- 秀吉の側近として働いていく
- 織田の時代から羽柴の時代に
- 織田氏後継を選定
- 賤ヶ岳の戦いの開戦
- 先駆者として武功を挙げる
- 各地の検地奉行
- 秀吉と対立していく織田家
- 官職を授かり奉行職に励んでいく
- 有力大名が秀吉へ臣従する
- 堺と博多奉行
- 遂に天下統一を成し遂げることができた
- 相模の北條氏
- 忍城を水攻めで攻略
- 戦下手で名が知られてしまう
- 明を支配するために兵を総動員
- 秀吉死後に家康が日の本の実権を握り始めていく
- 秀吉の遺言に反し家康の掟破り
- 利家が死去し更に家康が台頭し三成襲撃事件が起きる
- 十九万石の大名と二百五十万石の大名
- 会津征伐へ
- 伏見城を攻略
- 兵の士気を挙げるために奇襲を仕掛ける
- 天下分け目の大戦
- 戦状況が一変してしまう
- 再起を誓い続ける三成
- 奉行を全うし豊臣政権を後押しした将
この記事の目次

ライター/what
義を信じ義に生きた三成に憧れ、自分一人のためではなくみんなのために懸命に嘘をつかず働く。そんな律儀だった三成を天下分けの関ヶ原まで紹介する。
秀吉の優秀な官僚が誕生する
秀吉のために多方面で政務に没頭するも、何かと嫌われ役を買って出たことが多かった三成。それでも、三成無くして豊臣家が拡大するにはもっと時間が掛かっていたことでしょう。まずは、三成の誕生から見ていきます。
近江国で誕生

石田正継の次男として近江国で誕生しました。近江国坂田郡石田村を支配していた土豪だったものの京極氏の配下として働いていたようです。その後、姉川・一乗谷で織田方が勝利し朝倉・浅井家を滅ぼしました。織田方が勝利した少し後に秀吉に雇われ石田家は秀吉の下で働いていくことになります。
この時に、鷹狩りに来ていた秀吉が寺で休息した際に寺小姓に茶を頼んだところ最初はぬるくした茶を渡しもう一杯頼まれたので少し熱めの茶を出し更に一杯を要求され最後に熱い茶を出しました。これは、ぬるい茶で渇いた喉を潤し最後に熱い茶を出し味合わせようとする寺小姓に感服して配下にさせた逸話があります。
秀吉の側近として働いていく
織田家拡大のため、中国地方の覇者だった毛利家を攻めるので秀吉と共に従軍します。戦でこれといった活躍はありませんでしたが、三成の凄さは戦ではなく支度の方でした。軍を率いて敵国に侵攻する際は、要所となる場所に陣を構えます。その際、兵達の役割は与えられていたものの動きに無駄があり中々陣構えができないことはよくあったようです。
事務的な仕事で三成は、力を振るい全体の監督役として兵達に支持を与えていきました。この動きは、兵を引き揚げる時も同様で鈍重に動いていては敵に攻められることもあれば味方の救援するのに陣を引き払うことは多々あったようでした。
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織田の時代から羽柴の時代に
中国攻めしている最中に織田信長が明智光秀の謀反に合い横死します。信長が亡き後、信長配下の中で秀吉が抜きに出てきました。柴田勝家や徳川家康と戦へと発展していきます。
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織田氏後継を選定
逆臣の光秀を討ち取り、いち早く信長家臣団の中で武功を挙げた秀吉が臣中で力を持っていました。信長三男の信孝か信忠の子山法師を推すことで勝家派と秀吉派に分かれていきます。結果として、重臣だった丹羽長秀と池田恒興が山法師を推薦したため勝家は意見を曲げざるおえませんでした。この後に、両者の関係性が悪くなっていき勝家は近江国に向けて挙兵します。
その前に、各地を調略していた秀吉は上杉氏や前田利家らを味方に引き入れていました。1583年2月に挙兵した勝家は近江国の木之本に陣を構えるも直ぐに攻めることはせず砦などを作り膠着化していて秀吉も守りに徹しています。
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賤ヶ岳の戦いの開戦

長期化すると思われましたが、滝川一益が信孝と共に勝家側として挙兵します。これにより秀吉は三方から囲まれる形になるも黒田孝高に賤ケ岳を任せて一益の牽制のため大垣城に帰城。前線部隊の大岩山砦の中川清秀が討死にし岩崎山を守っていた高山右近も柴田軍の攻撃に耐えられず、田上山まで退陣しました。
柴田軍の佐久間盛政は、勝家から一度引き返すよう指示されるもそのまま前線に待機。これを見かねた勝家も前線に兵を率いて進軍してきます。進軍情報を察知した秀吉は50km以上離れているのに兵を率いてたった五時間という速さで賤ケ岳に到着しました。これを美濃大返しといいます。
美濃大返しでは、三成が一役買っていたようで豊臣記には大垣から賤ケ岳までの移動ルートを予め計画していて各所に補給と馬の手配をしていたと書かれていて異例の速さで田上山まで到着しました。あまりにも速く秀吉が着参したので盛政は大慌てで勝家の陣営まで下ります。
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