一人がみんなのためにみんなが一人のためにの意味する大一大万大吉を掲げて当時最大勢力を誇った徳川家康に挑んだ石田三成。

秀吉から才能を見抜かれ、戦支度では三成に右に出るものがいないとまでいわれた三成を今回は、歴史ライターwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

義を信じ義に生きた三成に憧れ、自分一人のためではなくみんなのために懸命に嘘をつかず働く。そんな律儀だった三成を天下分けの関ヶ原まで紹介する。

秀吉の優秀な官僚が誕生する

秀吉のために多方面で政務に没頭するも、何かと嫌われ役を買って出たことが多かった三成。それでも、三成無くして豊臣家が拡大するにはもっと時間が掛かっていたことでしょう。まずは、三成の誕生から見ていきます。

近江国で誕生

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石田正継の次男として近江国で誕生しました。近江国坂田郡石田村を支配していた土豪だったものの京極氏の配下として働いていたようです。その後、姉川・一乗谷で織田方が勝利し朝倉・浅井家を滅ぼしました。織田方が勝利した少し後に秀吉に雇われ石田家は秀吉の下で働いていくことになります。

この時に、鷹狩りに来ていた秀吉が寺で休息した際に寺小姓に茶を頼んだところ最初はぬるくした茶を渡しもう一杯頼まれたので少し熱めの茶を出し更に一杯を要求され最後に熱い茶を出しました。これは、ぬるい茶で渇いた喉を潤し最後に熱い茶を出し味合わせようとする寺小姓に感服して配下にさせた逸話があります。

秀吉の側近として働いていく

織田家拡大のため、中国地方の覇者だった毛利家を攻めるので秀吉と共に従軍します。戦でこれといった活躍はありませんでしたが、三成の凄さは戦ではなく支度の方でした。軍を率いて敵国に侵攻する際は、要所となる場所に陣を構えます。その際、兵達の役割は与えられていたものの動きに無駄があり中々陣構えができないことはよくあったようです。

事務的な仕事で三成は、力を振るい全体の監督役として兵達に支持を与えていきました。この動きは、兵を引き揚げる時も同様で鈍重に動いていては敵に攻められることもあれば味方の救援するのに陣を引き払うことは多々あったようでした。

織田の時代から羽柴の時代に

中国攻めしている最中に織田信長が明智光秀の謀反に合い横死します。信長が亡き後、信長配下の中で秀吉が抜きに出てきました。柴田勝家や徳川家康と戦へと発展していきます。

織田氏後継を選定

逆臣の光秀を討ち取り、いち早く信長家臣団の中で武功を挙げた秀吉が臣中で力を持っていました。信長三男の信孝か信忠の子山法師を推すことで勝家派と秀吉派に分かれていきます。結果として、重臣だった丹羽長秀と池田恒興が山法師を推薦したため勝家は意見を曲げざるおえませんでした。この後に、両者の関係性が悪くなっていき勝家は近江国に向けて挙兵します。

その前に、各地を調略していた秀吉は上杉氏や前田利家らを味方に引き入れていました。1583年2月に挙兵した勝家は近江国の木之本に陣を構えるも直ぐに攻めることはせず砦などを作り膠着化していて秀吉も守りに徹しています。

賤ヶ岳の戦いの開戦

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長期化すると思われましたが、滝川一益が信孝と共に勝家側として挙兵します。これにより秀吉は三方から囲まれる形になるも黒田孝高に賤ケ岳を任せて一益の牽制のため大垣城に帰城。前線部隊の大岩山砦の中川清秀が討死にし岩崎山を守っていた高山右近も柴田軍の攻撃に耐えられず、田上山まで退陣しました。

柴田軍の佐久間盛政は、勝家から一度引き返すよう指示されるもそのまま前線に待機。これを見かねた勝家も前線に兵を率いて進軍してきます。進軍情報を察知した秀吉は50km以上離れているのに兵を率いてたった五時間という速さで賤ケ岳に到着しました。これを美濃大返しといいます。

美濃大返しでは、三成が一役買っていたようで豊臣記には大垣から賤ケ岳までの移動ルートを予め計画していて各所に補給と馬の手配をしていたと書かれていて異例の速さで田上山まで到着しました。あまりにも速く秀吉が着参したので盛政は大慌てで勝家の陣営まで下ります。

\次のページで「先駆者として武功を挙げる」を解説!/

先駆者として武功を挙げる

秀吉が戻ったことで羽柴軍の指揮が上がり柴田勢に攻撃を仕掛けていきます。攻撃を仕掛ける前に柴田軍の動向を探るため三成や大谷吉継ら十四名ほどで情報を探り知り得た情報で城柵を作り勝家を牽制し戦を優位に進めることができました。

そして旧友だった利家が戦わずして戦線を離脱すると、柴田軍の指揮が下がり更に秀吉子飼いの将だった加藤清正や福島正則らが盛政の部隊は壊滅します。佐久間隊が壊滅したことで、勝家本陣まで羽柴軍が押し寄せ北ノ庄城まで退却するも奇しくも利家が先鋒となり自刃を決断しました。

勝家に勝利した秀吉は、織田家遺臣団を臣従させ各地の大名に対して服従する旨の書状を出しています。

各地の検地奉行

天下に近しい秀吉の傍らで、戦略と戦術は主に黒田孝高で兵の移動ルートや兵糧などの運び入れを主に行動した三成。秀吉は優秀な将がいたおかげで優位的な立場で戦をすることができていました。一方で、戦をしていない期間に下地を整えるために三成らに検地を任せていきます。

秀吉と対立していく織田家

賤ケ岳に勝利した秀吉方は、織田家の当主が山法師となり信雄らが後見人になります。安土城で後見役を務めていましたが秀吉によって安土城から追放され腹を立てた信雄は家康と同盟を交わし隣国大名達を巻き込み対立していきました。

初戦の羽黒の戦いでは、池田恒興と森長可らは家康方の密偵によって着陣情報が洩れ奇襲攻撃を仕掛けられ池田・森部隊は敗走してしまいます。その後、家康は小牧山城を占拠し守りを固めている間に秀吉は大阪から出陣し楽田城に本陣を構えました。

小牧長久手で秀吉と家康は雌雄を決すべく交戦した結果、戦いは和睦で解決したものの主力の将だった恒興と長可らは討死し秀吉方で二千五百人と大きな損害に対して家康方は五百五十人と大敗。この時の三成の動きははっきりと分かっておりませんが、長期化していたので兵糧などの後方支援に従事したと思われます。

官職を授かり奉行職に励んでいく

形式上で秀吉に服従することになった家康。この頃に三成は近江国の蒲生郡を検地していました。検地とは平安時代には国家の所有物として管理されていましたが、時代の変化に伴って不明確となっていき領土が立ち代わりしていく戦国時代ではほぼ管理が出来ておらず生産高がはっきりとしていません。

検地改革を行っていったのは信長で、農業生産高に応じた課税をしていた記録が残っています。政権を引き継いだ形の秀吉も同様にいき三成のような頭が切れる大名達を任命していました。その中でも三成の能力は知れ渡っていてようです。

三成が尽力した結果で、正式な農地区分が計測され中間接取していた武将達がいなくなり耕作者が決められた税を納めていくことになりました。

有力大名が秀吉へ臣従する

家康と和睦して以降、秀吉の力が世に示され朝廷から関白までも授かり天下統一も目前となります。この頃に、上杉景勝も秀吉に臣従するため上洛することになり三成は取次役として景勝らの宿泊場所や秀吉との謁見日時を決めるなどをしていました。また、景勝だけでなく上洛してくる大名達も同様に取次役として奔走しています。

秀吉が、関白となり三成も従五位下治部少輔を授かり四万石を秀吉から与えられました。翌年の1586年に島清興を配下に加えていますが、二万石という自身の半分の石高を与えるという破格条件で清興に伝えるとあまりの破格条件に驚いたことと三成の熱意に負け配下になったとされています。

堺と博多奉行

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蒲生郡の検地も終了し次なる奉行先として堺を命じられました。堺は大阪湾に隣接する国で商業が盛んであり戦火が及ばない町で武器の調達は堺が中心だったとされています。中立的な立ち位置として存在していた堺でしたが、十人の会合衆呼ばれていた人達で支配されていて金銭の貸し借りなども商売として行っていました。

また、四国や九州への移動ルートしても機能していて後に臣従する長宗我部元親などへ攻撃を仕掛ける際の要所となっています。この堺を完全に従属させて堺を兵の中継場所として整備していました。

元親が秀吉に臣従し、更に西の九州では大友宗麟と島津義久が対立。大友氏が秀吉に援軍を求めた形で九州征伐を決定し三成が整えた堺から水軍を活用し兵糧・兵・武器などを素早く運搬できたため一年足らずで義久を屈服させることができました。

遂に天下統一を成し遂げることができた

西国も平定し、残す敵はの伊達氏と相模の北条氏のみとなりました。北条攻めに関しては、総指揮を秀吉から任され城を落とそうする三成。そして、北条家を滅亡したあとに朝鮮出兵が行われていきました。

相模の北條氏

九州の島津氏まで秀吉に臣従し、天下統一まで手が届きそうなところまできていました。秀吉は、臣従するように北条家当主の氏政に書状を出して促すも一向に動く素振りを見せず真田領の名胡桃城を奪取するなど秀吉に対して徹底抗戦の構えをとっています。氏政も知らぬ存ぜぬといっていると秀吉が激怒し北条討伐を決定。小田原城を攻める直前に伊達政宗は秀吉の臣従するため謁見しています。

北条討伐に参陣するまえに美濃国を検地完了させ小田原城の支城となっている忍城を秀吉から任せられる三成でした。忍城は戦上手とされていた上杉謙信も北条氏康も攻め落とせなかった堅城。少々、三成には荷が重い戦でしたが参戦した将は歴戦の強者達で強硬突破でも攻め落とすこともできました。

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忍城を水攻めで攻略

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秀吉の命で水攻めすることになった三成は早速、堤防の準備に取りかからせました。秀吉のからの書状で水攻めをするため細かな指示を三成に与えていきます。

秀吉が備中高松城で水攻めをした際は、周り四kmの高さ八mで堤防を築き上げましたが今回は総延長で二十八mと広大な堤防を築くために平民に金を与え昼夜休まず働かせていました。平民達のおかげたった五日間で堤防を築き利根川の水を引き入れ忍城に流し込んでいきます。

ところが、予想していたよりも水が入らず本丸だけ浮いた状態となりました。利根川の水があまり入らなかったものの6月中旬から降り続く雨のおかげで本丸まで水没したと思われましたが、北条方の兵によって堤防を破壊されてしまいます。

戦下手で名が知られてしまう

堤防が破壊されたことで、豊臣軍の兵は混乱に陥り死者数が約三百名で忍城一帯は泥沼化してしまいました。兵を取りまとめ、忍城を陸地から攻めようにもぬかるんでいるため忍城の守備隊と交戦した浅野長政隊と真田昌幸隊は勝利するも疲弊した兵を一旦下げています。何度か攻め入るも地形と忍城の兵よって耐え続けていました。

7月初旬に景勝が到着するも秀吉から決壊した堤防を修復して、水攻めをするように命令されています。堤防を整えようとしたところで小田原城にて氏政が降伏し忍城の城主、成田氏長が説得しに城内に入り遂に忍城が降伏したことで小田原征伐を成功させました。

このことが原因で、三成が戦下手だという話が広まってしまったようです。実際には、秀吉からの命令だったため振り回されたことが原因であったことは残された書状に書かれました。

明を支配するために兵を総動員

天下統一を為し遂げ次なる土地を支配すべく大明帝国に攻撃を仕掛けていきました。明までは船舶でしか向かうことができないため戦線部隊からすると武器や弾薬や兵糧などが無くてはならないので国内の戦であればあまり時間を要せずに運搬できるが明ではそうはいきません。

三成ら奉行衆の役目として、戦の後方支援が中心となっていて戦況に応じて補給が尽きないよう届けることです。そして、蔚山城の戦いで後の関ヶ原に直結する事件が起きました。四十日ほどで完成させた蔚山城でしたが、指揮官として加藤清正が任命されていたものの西生浦に出向いていて築城を任された毛利秀元しかいません。

奇襲を仕掛けられ仮陣営が焼き払われ浅野幸長と太田一吉らは蔚山城まで撤退し加藤清正と共に籠城を行い連日の攻防でじわじわと豊臣方が優勢となり最終的には援軍の到着があり勝利することができました。戦を終えた後に蜂須賀家長らは戦線縮小を秀吉に提案するも却下されたうえに戦闘に参加しなかった報告も三成の縁戚だった福原長堯がしています。

秀吉死後に家康が日の本の実権を握り始めていく

明出兵を行い支配する予定でしたが、秀吉の死去したことにより出兵が中止され現地で留まっている将たちの帰国命令が下ります。清正を中心とする武断派と三成中心の文治派が形成され対立が表面化していきました。

秀吉の遺言に反し家康の掟破り

秀吉死後に嫡男だった豊臣秀頼が五歳の若さで家督を相続し、秀吉遺言に従い母の淀と共に大坂城へ移り居城としました。五大老の一人だった毛利輝元らと三成ら四奉行にて意見の相違者が出た場合は、秀頼に協力して物事を解決していく誓いの書を書き留めています。

秀頼のためにと動いている中で五大老の一人でもある家康は、婚姻関係を結ぶ場合は五大老と五奉行の下で決定する秀吉の遺言があったにもかかわらず独断で福島正則らと進めようとしていました。しかし、このことに気づいたことで同じく五大老である前田利家を中心とした家康凶弾し戦まで発展すると思われましたが記請文を書き一旦は落ち着きを見せます。

利家が死去し更に家康が台頭し三成襲撃事件が起きる

何事もなく時代が進んでいくと思われた矢先に豊臣派で一番力を持っていた利家が亡くなり清正らと三成らの対立が激しくなっていきました。武断派と文治派の両方を押さえつけていた利家がいなくなり叱咤されることも無くなった清正は三成の首を取ろうと暗躍していきます。襲撃される日にちを秀頼近習の桑名治右衛門の耳に入り清興に情報を伝え三成は佐竹義宣の屋敷に逃げ込むも加藤軍が迫ってきたことを察知し伏見城の屋敷で身を潜めました。

その後、家康に仲介により三成を隠居することと蔚山城の戦いでの査定を見直すことで決着がつきます。また、北政所の仲裁を受けたことで家康も中立的立場で動こうとし三成と協力体制を築いていくことを模索した時期もあったようです。

十九万石の大名と二百五十万石の大名

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三成屋敷襲撃と同年に秀頼に菊の節句を読むために大坂城へ入城。入城した後に、加賀の前田利家が家康謀反を浅野長政と土方雄久、大野治長にて計画されている情報を聞き暗殺計画に加担した将達は地位を失い蟄居させられてしまいます。

家康はこの騒動に乗じて大坂城に居座り政敵を排除し味方を増やすため加増や転封を実施していきました。そしてこの後に、天下分け目の戦いが発生していくところを見ていきましょう。

会津征伐へ

落ち着きを見せていた大名達でしたが、米沢で百二十万石を食んでいた上杉景勝が重臣の直江兼続に神指城を改修し増強を図っていました。この動向を隣国の最上義光らが家康へ報告していて反逆の意志がなければ、上洛して弁明するべきだと家康は書状に書き記しています。この書状を受け取った、景勝と兼続は家康に対し弾状の書状を送りつけました。内容は、家康に対する不服申し立てが書かれていて家康は激怒。

直江状によって会津征伐が決まり家康は、軍を率いて大坂城を出発します。同日に三成を除く三奉行が輝元に上坂申請を出した直後に、家康に対する弾丸状を各諸大名へ送られたことで家康対反家康軍が結成されました。

大坂城で挙兵の情報を察知した家康は、下野国にて評定を開き家臣らを呼び話し合いの末に二手に軍を分けて大坂に向けて進軍。会津征伐は、伊達政宗と義光らが引継ぎします。

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伏見城を攻略

輝元が挙兵したことで三成も奉行衆と共に西国軍の一員として協力していきます。ところが、上杉討伐として家康に従軍していた諸将らも西国へ戻る旨の連絡をしたのは三成と大谷吉継が転進の指示。東国の諸所らを家康から離反させるために大坂城内の大名屋敷にいた妻を人質としましたが、思ったほどの効果が出ないうえに更なる反感を買ってしまうことになる三成でした。

まず、伏見城を攻めるべく宇喜多秀家と小早川秀秋の軍勢で攻撃を仕掛けていくも籠城している千八百の兵を崩すことができなく苦戦を強いられてしまう西国軍。圧倒的軍勢にもかかわらず半月かけて落城させ未だどちらにも属していない大名を仲間に引き入れるべく説得をしていきます。

東国の福島正則や黒田長政らが思いのほか早く兵を戻してしてきました。

兵の士気を挙げるために奇襲を仕掛ける

家康は1600年9月1日に江戸から出発し大垣城へ向かって侵攻していきます。ところが、大垣城前の赤坂本陣では白旗が増えていき家康が着陣したのではと思われ兵が動揺してしまいました。この状況のままでは戦にならないと感じた清興と蒲生郷舎らは、三成に杭瀬川奇襲作戦を立案し了承を得ます。

是が非でも勝利しなければならなかったため伏兵を機能させつつ少数部隊で見事勝利を収め西国の士気を上昇させました。この戦の情報を聞いた家康は激怒し本田忠勝と井伊直政は兵を引き揚げさせます。

天下分け目の大戦

奇襲も成功し勝どきを挙げた西国は、このまま関ヶ原で勝利していきたいところでしたが無理やり西国に属した大名が多かったため全く纏まりがありません。そうしている間に1600年9月14日に関ヶ原で三成率いる西軍と家康率いる東軍が正面からぶつかっていきます。三成は関ヶ原が一望できる笹尾山に陣を構えていて、小西行長と秀家隊は中央で戦い吉継は小早川隊の裏切りに備えて松尾山付近に陣を構えました。

兵力では優勢でありながら戦に参戦せずに傍観している島津隊や毛利隊。それを補うようにして小西隊と宇喜多隊が奮戦し前線を押し出していきました。状況が優勢になったところで傍観している島津隊と毛利隊に出陣するよう催促するも島津は話を聞かず、毛利軍は弁当を食べているので出陣できないといい全く加担しようとしません。

戦状況が一変してしまう

前線で奮戦していた小西隊と宇喜多隊そして清興隊は、次第に兵が疲弊していき隊列が崩れていくと同時に秀秋が東軍に寝返り周辺に着陣していた脇坂安治や朽木元網らは大谷隊へ攻め入ります。多くの将が東軍に寝返ったことで戦況が一変。大谷隊は、長らく奮戦していたものの兵力差があり吉継は自刃し小西隊と宇喜多隊も壊滅してしまいます。秀秋の動きで西軍は敗北となり三成も清興が殿を務め討死し敗走。

残された島津隊は、東軍の中央突破するため捨て身の覚悟で敵兵の中を突き進んでいきました。鬼気迫る島津隊に恐れをなし逃げ出す者もいましたが、多勢に無勢で徐々に兵が少なくなっていき最後は島津貴久が殿を務め討死し九州まで戻ることができました。

再起を誓い続ける三成

戦に敗れた三成は春日村まで逃げたましたが、伊吹山山中で秀吉に仕えていた時代の旧知の仲であった田中吉政に捕まり京都に護送されました。また関ヶ原で、破られ石田一族のいる佐和山城も東軍に攻められ落城し石田正澄らは討死します。関ヶ原の主要人物だった三成は大津城で晒し者にされ、安国寺恵瓊と小西行長と共に六条河原へ移動し首を刎ねられてしました。

死後の首は、大徳寺に葬られて埋葬され享年四十一歳の年齢で亡くなります。三成ら奉行衆がいなくなったうえに輝元と景勝の領地を少なくされ武断派も家康の下についていきました。これにより豊臣家の力が衰退していき家康が、日の本の実権を握り1615年に大坂の役で豊臣方を根絶やしにされてしまいます。

三成は首を刎ねられる最後まで再起を図ろうとしていたことが書き留められていました。

奉行を全うし豊臣政権を後押しした将

秀吉が台頭してきたころに奉行職が確立され、戦での活躍により石高を増加させたり転封したときにはおおいに役立ちました。またこの時代では国ごとに米の測りが違い大名によって石高もばらばらで統一されていなく見直しを図ったことで測り方が統一されます。五奉行のおかげで明を攻めた際も、移動ルートから兵糧の運び入れなど重要な役割を果たすとともに監視役や取次役・交渉役など武断派ではできなくことをやってのけてきたのも三成らがいてこそ素早く行動が出来たのでしょう。

秀吉の言葉をそのまま、伝える役を担っていたため諸大名に嫌われてしまうことも多々あったようです。また、性格にも一癖も二癖もあったようで何か起きた場合には逐一秀吉に報告したり伝える言葉にも棘があったりしていたことで嫌われ者が定着してしました。

しかし、三成を慕っていた清興・吉継や奉行衆は三成の豊臣家に対する熱い思いに動かされていったのだと思います。

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室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉に才を見出された「石田三成」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

一人がみんなのためにみんなが一人のためにの意味する大一大万大吉を掲げて当時最大勢力を誇った徳川家康に挑んだ石田三成。

秀吉から才能を見抜かれ、戦支度では三成に右に出るものがいないとまでいわれた三成を今回は、歴史ライターwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

義を信じ義に生きた三成に憧れ、自分一人のためではなくみんなのために懸命に嘘をつかず働く。そんな律儀だった三成を天下分けの関ヶ原まで紹介する。

秀吉の優秀な官僚が誕生する

秀吉のために多方面で政務に没頭するも、何かと嫌われ役を買って出たことが多かった三成。それでも、三成無くして豊臣家が拡大するにはもっと時間が掛かっていたことでしょう。まずは、三成の誕生から見ていきます。

近江国で誕生

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石田正継の次男として近江国で誕生しました。近江国坂田郡石田村を支配していた土豪だったものの京極氏の配下として働いていたようです。その後、姉川・一乗谷で織田方が勝利し朝倉・浅井家を滅ぼしました。織田方が勝利した少し後に秀吉に雇われ石田家は秀吉の下で働いていくことになります。

この時に、鷹狩りに来ていた秀吉が寺で休息した際に寺小姓に茶を頼んだところ最初はぬるくした茶を渡しもう一杯頼まれたので少し熱めの茶を出し更に一杯を要求され最後に熱い茶を出しました。これは、ぬるい茶で渇いた喉を潤し最後に熱い茶を出し味合わせようとする寺小姓に感服して配下にさせた逸話があります。

秀吉の側近として働いていく

織田家拡大のため、中国地方の覇者だった毛利家を攻めるので秀吉と共に従軍します。戦でこれといった活躍はありませんでしたが、三成の凄さは戦ではなく支度の方でした。軍を率いて敵国に侵攻する際は、要所となる場所に陣を構えます。その際、兵達の役割は与えられていたものの動きに無駄があり中々陣構えができないことはよくあったようです。

事務的な仕事で三成は、力を振るい全体の監督役として兵達に支持を与えていきました。この動きは、兵を引き揚げる時も同様で鈍重に動いていては敵に攻められることもあれば味方の救援するのに陣を引き払うことは多々あったようでした。

織田の時代から羽柴の時代に

中国攻めしている最中に織田信長が明智光秀の謀反に合い横死します。信長が亡き後、信長配下の中で秀吉が抜きに出てきました。柴田勝家や徳川家康と戦へと発展していきます。

織田氏後継を選定

逆臣の光秀を討ち取り、いち早く信長家臣団の中で武功を挙げた秀吉が臣中で力を持っていました。信長三男の信孝か信忠の子山法師を推すことで勝家派と秀吉派に分かれていきます。結果として、重臣だった丹羽長秀と池田恒興が山法師を推薦したため勝家は意見を曲げざるおえませんでした。この後に、両者の関係性が悪くなっていき勝家は近江国に向けて挙兵します。

その前に、各地を調略していた秀吉は上杉氏や前田利家らを味方に引き入れていました。1583年2月に挙兵した勝家は近江国の木之本に陣を構えるも直ぐに攻めることはせず砦などを作り膠着化していて秀吉も守りに徹しています。

賤ヶ岳の戦いの開戦

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長期化すると思われましたが、滝川一益が信孝と共に勝家側として挙兵します。これにより秀吉は三方から囲まれる形になるも黒田孝高に賤ケ岳を任せて一益の牽制のため大垣城に帰城。前線部隊の大岩山砦の中川清秀が討死にし岩崎山を守っていた高山右近も柴田軍の攻撃に耐えられず、田上山まで退陣しました。

柴田軍の佐久間盛政は、勝家から一度引き返すよう指示されるもそのまま前線に待機。これを見かねた勝家も前線に兵を率いて進軍してきます。進軍情報を察知した秀吉は50km以上離れているのに兵を率いてたった五時間という速さで賤ケ岳に到着しました。これを美濃大返しといいます。

美濃大返しでは、三成が一役買っていたようで豊臣記には大垣から賤ケ岳までの移動ルートを予め計画していて各所に補給と馬の手配をしていたと書かれていて異例の速さで田上山まで到着しました。あまりにも速く秀吉が着参したので盛政は大慌てで勝家の陣営まで下ります。

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