

家茂と和宮に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。幕末、明治維新にも興味津々なあんじぇりかが、今回は若くして重責を担った将軍家茂について、例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。
1-1、徳川家茂(いえもち)は将軍家斉の孫で、紀州藩主の甥として誕生
弘化3年(1846年)閏5月24日に、父徳川斉順(なりゆき)の次男として、江戸の紀州藩邸(現東京都港区)で誕生。母は美佐、操子、または美喜、於美喜の方、法名を実成院(じつじょういん)といい、生家は紀州藩の高家で、石高1000石の桜井松平家血統の久松松平家。
父斉順は、家茂が生まれる16日前に46歳で亡くなったが、11代将軍家斉の七男です。清水徳川家3代当主、後に11代紀州藩主になった人で、水戸藩の8代目藩主で斉昭の兄斉脩の正室峯姫の実の兄でもあります(家斉の子は夭折もあわせて53人)。
なので家茂は12代家慶の甥、13代家定の従弟、11代将軍家斉の孫という、非常に将軍に近い血筋。
1-2、家茂、4歳で紀州藩主に
文政12年(1830年)に死産の兄や夭折した姉がいますが、一人っ子。幼名は菊千代。
嘉永2年(1849年)には、家茂父の死後、12代藩主となっていた叔父の斉彊(なりかつ)が29歳で死去したため、その養子として4歳で紀州藩主に。
嘉永4年(1851年)に5歳で元服し、12代将軍家慶の偏諱をもらって、慶福(よしとみ)と名乗りました。
1-3、紀州藩では藩主側近派と隠居の治宝派の争いが
幼少なので、当初は隠居した元藩主の治宝(はるとみ)が補佐したが、数年後死去したので、12代将軍家慶の側室を妹に持つ付家老で藩政改革反対派で幕府の影響力を持った水野忠央らが実権を握って、治宝派の伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする和歌山派の藩政改革派を弾圧。隠居後も実権を握っていた治宝とその側近と、藩主側近派による政争が行われていたのですね。
尚、家茂は紀州藩主だった期間は9年2か月、この間、一度も紀州に行かずに江戸に居たまま将軍になったそう。
2-1、家茂、14代将軍に

13代将軍家定は脳性麻痺を患っていたようで、後継ぎも望めず将軍に就任したその日から後継者を誰にするかが問題になるような長期政権の望めない将軍でした。
すでにペリー来航後の激動の時代に入っていたので、しっかりしたリーダーシップのある将軍が求められていたのですね。
そこで4賢侯と言われる松平春嶽ら大名たちは、その当時の徳川一族では聡明の呼び声高かった一橋慶喜擁立派として、14代将軍に慶喜をと主張するも、大老の井伊直弼は、水戸家出身で現在の将軍とはかなり血筋が遠い慶喜(家茂より7歳年長)よりも、家定の従弟に当たる家茂がふさわしいという南紀派として、激しく対立していました。
これはもちろん二人の能力が問題ではなくて、後ろにうるさい斉昭らがついていて成人している慶喜よりも、まだ子供の家茂が将軍になった方が自分が自由に采配を振れるという井伊直弼の目論見であるということはいうまでもありません。
ということで、井伊直弼が強引に家茂を14代将軍に擁立、安政5年(1858年)12月、家茂はたった13歳で将軍に、慶福改め家茂と改名。
家茂が幼少のために、将軍後見職が設けられ、文久2年(1862年)までは田安慶頼(亀之助後の16代家達の父)が、その後は慶喜がこの職に就いていました。
そして将軍宣下の儀式の際は、それまでは新将軍が上座で、天皇勅使が下座だったのが尊王の世情を反映して逆になったというのも歴史的なことだったよう。
尚、安政6年(1859年)には、前年に大老井伊直弼が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことが発端になり、批判した松平春嶽、徳川斉昭ら大名たちを隠居蟄居に追い込み、吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜など多数の尊王攘夷の志士や関係者を処刑した安政の大獄、安政7年(1861年)3月、桜田門外の変で家茂を擁立した大老井伊直弼の暗殺と、事件が続々と起こっていました。
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2-2、子供時代の家茂のエピソード

書の達人として知られていた幕臣の戸川安清は70歳を過ぎた老人でしたが、家茂に書を教えていました。ある日、お習字を教えていた最中に、突然、家茂が安清の頭の上から水をかけたうえに、手を打って笑って、「あとは明日にしよう」と部屋を出て行ったことがあったそう。同席の側近たちが、家茂らしくないいたずらをすると嘆いていたのですが、先生の安清が泣いていたのですね。側近が泣いている理由を訪ねたところ、実は安清先生は、お年寄りのためについ失禁してしまい、それが明るみになれば将軍の前で粗相をしたことでの厳罰は免れないと、家茂はわざと水をかけて先生の粗相を隠して、「明日にしよう」と言ったのは、粗相を不問に処して明日も出仕するようにという意味だということ。先生が泣いたのは家茂の気配りに感激してのことだと答えたという話(安清の親戚の戸川残花著「幕末小史」にある話)。
柔術の稽古を見学していたときに間違って足を踏まれたそう。ご当人が平謝りの中で、家茂は「痛くないので大丈夫(ここは苦しゅうないと言ってほしい)」と言いつつ、涙顔だったということ。
家茂は、幼少期の頃から生き物を可愛がる優しい性格だったようで、池の魚を眺めたり小鳥に餌をやったりするのが趣味でしたが、将軍になった以上はそういう遊びはしてはいけないと思ったのか、全部やめてしまったということです。
13歳ながらも、将軍の地位がどんなものかをわかっているお覚悟があったということで、賢い子だったんでしょうね。

お習字の先生に対しても子供なりに気を使っているのはさすがだが、水をかけるところが可愛いな。しかし将軍になっても鯉や金魚や小鳥くらい飼ってもいいじゃないか、それより甘いものをやめた方が健康に良かったかも。
3-1、家茂、和宮と結婚
文久2年(1862年)に孝明天皇の妹で和宮親子内親王と結婚。
これは尊王攘夷運動が激しくなるなか、江戸幕府と朝廷との公武合体を目指すための政略結婚で、かなり強引に進められたよう。和宮は6歳のときから有栖川宮熾仁親王と婚約していたことなどで、婚約破棄をして江戸へ下向するのをかなり嫌がっていたということですが、熾仁親王との婚約を破棄し、降嫁が決定。
しかし、家茂と和宮は同い年の同じ月の生まれ、しかも家茂も和宮も生まれる前に父が亡くなった遺腹の子という共通点もあり、家茂も、自分たちふたりが仲良くすれば公武合体政策もうまくいくという気持ちで和宮と接したせいか、2人の関係はたいへん良好で仲睦まじかったという話。
家茂は和宮以外の女性を傍に置こうとせず、側室は1人もいなかったということで、家茂は和宮と雑談を交わしたり、かんざしや金魚などを贈ったとか、和宮も家茂が好きな茶菓子を差し入れたりと、愛し合う若いカップルの話が、和宮の側近の日記に残っているというのは、微笑ましいですね。
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3-2、家茂、将軍として上洛

文久3年(1863年)、家茂は、老中水野忠精、板倉勝静や若年寄の田沼意尊ら軍勢3千人を率いて、将軍としては3代家光以来229年ぶりの上洛。そして3月7日に参内して孝明天皇に攘夷を約束、一橋慶喜らと共に、孝明天皇の賀茂神社行幸に加わって攘夷祈願を。その後、天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定を病と称して欠席したので、尊皇派諸士は家茂に反発、将軍殺害予告の落首が掲げられたりと洛中は騒然となったということ。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許さなかったのですが、滞在3か月で大坂より海路、蒸気船で帰途に。また、慶応元年(1865年)、兵庫開港を決定したことで、老中阿部正外らが朝廷に処罰されたとき、家茂は将軍職の辞意を朝廷に上申、孝明天皇は大いに驚いて辞意を取り下げさせて、その後は幕府人事への干渉をしないと約束。
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