今日は大塩平八郎について勉強していきます。大塩平八郎と言えば「大塩平八郎の乱」が有名ですが、歴史を学んでいると1837年にそれは突如起こり、以後彼の名を聞くことはない。

しかしこれでは印象に残らず、実際大塩平八郎については「大塩平八郎の乱」しか知らない人も多いのではないでしょうか。そこで今回、大塩平八郎をもっと知るため日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎をわかりやすくまとめた。

大塩平八郎 与力時代

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町奉行の補佐・大坂町奉行組与力を務める

まず、大塩平八郎とはどんな人物なのかを覚えていきましょう。1793年に生まれた大塩平八郎は「乱」を起こした点で武闘派のイメージがありますが、決して好戦的な人物ではありません。大坂町奉行組与力だった大塩平八郎、大坂町奉行とは江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の一つであり、与力は江戸幕府の代表的な役職です。

ここで注意すべきなのは与力の地位・意味で、これは時代によって全く異なります。大塩平八郎は江戸時代の人間ですが、この時代の与力は、町奉行の補佐を務めており、江戸市中の行政・司法・警察の任務にあたる重要かつ実力のある役職とされていました。

ただ鎌倉時代の場合、与力は単に「加勢する人」としての意味合いしかなく、そのため鎌倉時代の与力は大塩平八郎の与力とは別物なので注意してください。ちなみに、大塩家は代々大坂東町奉行組与力を務めていて、大塩平八郎はその8代目にあたります。

強い正義感で次々と不正を暴く

大坂町奉行組与力時代の大塩平八郎は正義感が強く、同僚・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど次々と不正を暴いていきました。当然汚職する側からすれば大塩平八郎は厄介な存在で、そのため奉公所の中には彼を嫌うものも少なくなかったようですね。

そんな状況にもかかわらず大塩平八郎が正義感を貫いて不正を暴き続けられたのは、上司である東町奉行・高井実徳が彼の行動を後押ししてくれたからです。前述した同僚・弓削新左衛門の汚職の内部告発、そしてキリシタン摘発、破戒僧摘発、これら3つは大塩平八郎が自ら三大功績と称えました。

しかし大塩平八郎は1830年に辞職、これは彼の良き理解者だった上司の高井実徳が転勤したためで、これを機に大塩平八郎は養子である大塩格之助に跡目を譲っています。隠居後は学業に専念、ここで大塩平八郎が選択したのは陽明学で、知行合一、致良知、万物一体の仁の基本思想を信じて独学で学びました。

大塩平八郎 陽明学と天保の大飢饉

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\次のページで「朱子学ではなく陽明学を学ぶ」を解説!/

朱子学ではなく陽明学を学ぶ

大塩平八郎が学んだ陽明学は反体制的な理論が生まれ、そのため現在の体制を反発している者が好みやすい傾向がありました。その考えは上下関係を大切にする朱子学とは対称的で、反抗的とも取れる陽明学の考えは江戸時代において危険視されていたのが事実です。

実際、大塩平八郎を含めて陽明学に影響を受けた者が革命を起こしたケースは多く、例えばあの西郷隆盛もその一人でした。西郷隆盛らの行動が正しいか間違っていたかはともかく、陽明学を学ぶことで自分の正義感に囚われすぎてしまい、間違った行動を起こしてしまう危険性があるとされていたのです。

時は1790年、江戸幕府の老中・松平定信が寛政の改革を行ったことで、寛政異学の禁により学問が統制されました。この影響が続く中で幕府は朱子学を推し進めていましたが、大塩平八郎は陽明学を学んで自宅に開いた私塾などで子弟にもこれを指導していたようです。

天保の大飢饉の発生

大塩平八郎が1830年に与力を辞職した3年後、1833年より大規模が飢饉が起こりました。飢饉とは人々が飢えて苦しむことで、洪水や冷害による農作物の急激な収穫不足が深刻化、1833年より起こったこの飢饉を天保の大飢饉と呼びます。ちなみに「天保」は飢饉が起こった時の元号が名前の由来です。

天保の大飢饉は寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つに数えられており、また寛永を除いて江戸三大飢饉の一つと数えられることもありますね。天保の大飢饉は1833年・秋~1834年・夏、そして1836年・秋~1837年・夏にかけてが特に酷い状態になっていたようです。

ただ、1833年・秋~1834年・夏にかけての際はそれほど深刻な被害には至りませんでした。これは、大坂西町奉行の矢部定謙が大塩平八郎を顧問としてもてなしたこと、矢部定謙の配下の中に内山彦次郎のような経済の専門家がいたことが理由です。

大塩平八郎 大阪の民のための救済活動

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大阪より幕府を優先する跡部良弼

1833年・秋~1834年・夏の天保の大飢饉は何とか乗り切ったものの、1836年・秋~1837年・夏の天保の大飢饉は深刻な状況になりました。ではなぜ一方は乗り切れて、もう一方は乗り切れなかったのでしょうか?……その理由は矢部定謙の存在の有無にあります。

後半の天保の大飢饉が起こった時は矢部定謙が出世して勘定奉行になっており、そのため大坂東町奉行は矢部定謙ではなく跡部良弼が務めていました。この跡部良弼がなかなかの問題人物で、当時幕府の政治を担っていた老中・水野忠邦の実弟だったのです。

跡部良弼は幕府から認められようと、同様に飢饉に苦しむ江戸に向けて大阪で収穫した米を送ります。つまり、自らが携わる大阪よりも幕府がある江戸を救うことを優先してしまい、そのせいで大阪の民たちは米が届かず飢餓に苦しめられていたのです。

大塩平八郎の提案を無視する跡部良弼

大阪の民が飢餓に苦しめられる状況を無視できない大塩平八郎は、跡部良弼に対して様々な提案をしました。「蔵米(幕府が年貢として収納して保管してある換金前の米)を民に与えてはどうだ?」、「商人による米の買い占めを止めさせてはどうだ?」……しかし、跡部良弼はそんな大塩平八郎の提案を完全に無視します。

そこで大塩平八郎は、飢餓に苦しめられている大阪の民に米を買い与えるため、自らの禄米を担保として1万両借りたい旨を豪商・鴻池幸実に相談しました。しかし鴻池幸実はこれを跡部良弼に相談、その際に「断ってしまえ!」と命令されてしまい、またも大塩平八郎の考えは実現しませんでした。

このため大阪では毎日多くの民が飢えて死んでいき、その数は1日150人~200人を超えたともされています。それでも大塩平八郎は少しでも多くの民を救おうと、蔵書を処分するなど私財を投げうってまで救済活動に励みますが、それにも限界を感じていました。

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大塩平八郎の乱の発生

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反乱の計画が漏れた誤算

1836年の秋、飢饉による米の価格の高騰などの影響から各地に頻繁に一揆が発生するようになります。甲斐国では天保騒動、三河国・挙母藩(ころもはん)では加茂一揆、この状況に大塩平八郎は「大勢の民が暴動や反乱を起こし、奉行達を討伐するしか解決の道はない」と考えました。

そこで大塩平八郎は密かに軍事訓練を開始、与力同心の門下生達に砲術などを教えます。これが明るみにならなかったのは、軍事訓練ではなく飢饉によって発生する打ちこわし(不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為)の鎮圧と偽っていたからです。

そして1837年3月25日(天保8年2月19日)、民衆とともに反乱を起こしたのが大塩平八郎の乱ですが、大塩平八郎にとって計算外だったのは仲間の中に裏切り者が出たことでした。決起直前の2日前の夜になって町目付・平山助次郎が離反、全ての計画を跡部良弼に密告したのです。

大塩平八郎の乱と発生と鎮圧

計画では跡部良弼を爆殺する予定でしたが、計画で漏れたことでこれも不可能になってしまいます。一方、計画が漏れたことを知った大塩平八郎は計画の大幅な変更を余儀なくされ、準備不足のまま自らの屋敷に火を放って反乱を宣言、手当たり次第に商人の屋敷を襲撃していきました。

大塩平八郎の一派は300人ほどの勢力になるものの、その主が農民や大阪の町民であるため決して戦闘のプロではありません。このため、大砲や矢を放っても大した効果はなく、ただいたずらに火災が広まるばかりでした。後にこの火災は大塩焼けとも呼ばれています。

奉公所の部隊との戦いでも大塩平八郎の一派は簡単に倒されてしまい、訓練を重ねた末に実行した大塩平八郎の乱はたった半日で鎮圧させられてしまったのです。この時、奉行所側には死者どころか負傷者すらおらず、大塩平八郎の乱はまさに完敗で終わりました

大塩平八郎の最期

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潜伏の発覚と自決

大塩平八郎の乱が失敗に終わった後、追われる身となった大塩平八郎は養子である格之助と共に大阪近郊の各所に潜伏します。意見を述べた建議書が幕府に届くことを期待しつつの潜伏でしたが、これも届けられることがなく発見されて押収されてしまいました。

もはや打つ手がない大塩平八郎は失望、ひとまず大阪に戻って以前から付き合いのあった商人・美吉屋五郎兵衛の店に行って匿ってもらいます。しかし当家の女中が帰郷したのをきっかけに潜伏が発覚、通報されて潜伏先の屋敷を完全に包囲されてしまったのです。

観念した大塩平八郎は格之助と共に屋敷に自ら火を放って自決、焼け焦げた遺体は損傷が激しく、どちらが大塩平八郎でどちらが格之助なのか?……顔はもちろん性別すら判別できない状態でした。2人の遺体は回収されたものの牢獄が焼失、そのため大阪の高原溜に送られて塩漬けにされて保存されたのです。

大塩平八郎の乱による余波

大塩平八郎の乱は確かに失敗に終わりましたが、しかしその行動は幕政に不満を抱く多くの民衆に衝撃を与えました。反乱の規模は決して大きくなかったものの、幕府の役人が反乱を起こした事実によって幕府や奉公所への信頼は激しく低下したのです。

大塩平八郎が発した檄文は幕政に不満を抱く庶民が守り、取り締まりをかいくぐりつつ全国に伝えられます。1837年に起こった国学者・生田万による越後国柏崎での貧民救済を目的とした生田万の乱は、まさに大塩平八郎の乱の余波によるものと言えるでしょう。

さらに、摂津国能勢での山田屋大助が一揆を起こして数日間にわたって付近を揺るがした能勢騒動など、大塩平八郎の乱の影響で日本の各地で同様の乱が頻繁に起こるようになりました。こうした乱を起こした首謀者は大塩残党と呼ばれ、「大塩平八郎はまだ生きている」と噂まで流れたのです。

大塩平八郎は庶民を救うために戦った

大塩平八郎が反乱を起こしたのは大坂の庶民を天保の大飢饉から救うためでした。支配を想像する幕府の人間の中で、こうした庶民のために動く大塩平八郎は当時珍しい存在だったのかもしれません。

反乱という手段だけに注目すると、江戸時代ならではの戦いを連想してしまうでしょう。しかし、大塩平八郎を学ぶことで手段はどうであれ、彼が本当に大坂とそこにする庶民を大切に思っていたかが分かりますね。

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日本史歴史江戸時代

反乱の目的は統一でも支配でもない!「大塩平八郎」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は大塩平八郎について勉強していきます。大塩平八郎と言えば「大塩平八郎の乱」が有名ですが、歴史を学んでいると1837年にそれは突如起こり、以後彼の名を聞くことはない。

しかしこれでは印象に残らず、実際大塩平八郎については「大塩平八郎の乱」しか知らない人も多いのではないでしょうか。そこで今回、大塩平八郎をもっと知るため日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎をわかりやすくまとめた。

大塩平八郎 与力時代

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町奉行の補佐・大坂町奉行組与力を務める

まず、大塩平八郎とはどんな人物なのかを覚えていきましょう。1793年に生まれた大塩平八郎は「乱」を起こした点で武闘派のイメージがありますが、決して好戦的な人物ではありません。大坂町奉行組与力だった大塩平八郎、大坂町奉行とは江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の一つであり、与力は江戸幕府の代表的な役職です。

ここで注意すべきなのは与力の地位・意味で、これは時代によって全く異なります。大塩平八郎は江戸時代の人間ですが、この時代の与力は、町奉行の補佐を務めており、江戸市中の行政・司法・警察の任務にあたる重要かつ実力のある役職とされていました。

ただ鎌倉時代の場合、与力は単に「加勢する人」としての意味合いしかなく、そのため鎌倉時代の与力は大塩平八郎の与力とは別物なので注意してください。ちなみに、大塩家は代々大坂東町奉行組与力を務めていて、大塩平八郎はその8代目にあたります。

強い正義感で次々と不正を暴く

大坂町奉行組与力時代の大塩平八郎は正義感が強く、同僚・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど次々と不正を暴いていきました。当然汚職する側からすれば大塩平八郎は厄介な存在で、そのため奉公所の中には彼を嫌うものも少なくなかったようですね。

そんな状況にもかかわらず大塩平八郎が正義感を貫いて不正を暴き続けられたのは、上司である東町奉行・高井実徳が彼の行動を後押ししてくれたからです。前述した同僚・弓削新左衛門の汚職の内部告発、そしてキリシタン摘発、破戒僧摘発、これら3つは大塩平八郎が自ら三大功績と称えました。

しかし大塩平八郎は1830年に辞職、これは彼の良き理解者だった上司の高井実徳が転勤したためで、これを機に大塩平八郎は養子である大塩格之助に跡目を譲っています。隠居後は学業に専念、ここで大塩平八郎が選択したのは陽明学で、知行合一、致良知、万物一体の仁の基本思想を信じて独学で学びました。

大塩平八郎 陽明学と天保の大飢饉

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