日本史歴史江戸時代

反乱の目的は統一でも支配でもない!「大塩平八郎」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は大塩平八郎について勉強していくぞ。大塩平八郎と言えば「大塩平八郎の乱」が有名だが、歴史を学んでいると1837年にそれは突如起こり、以後彼の名を聞くことはない。

しかしこれでは印象に残らず、実際大塩平八郎については「大塩平八郎の乱」しか知らない人も多いのではないだろうか。そこで今回、大塩平八郎をもっと知るため日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎をわかりやすくまとめた。

大塩平八郎 与力時代

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町奉行の補佐・大坂町奉行組与力を務める

まず、大塩平八郎とはどんな人物なのかを覚えていきましょう。1793年に生まれた大塩平八郎は「乱」を起こした点で武闘派のイメージがありますが、決して好戦的な人物ではありません。大坂町奉行組与力だった大塩平八郎、大坂町奉行とは江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の一つであり、与力は江戸幕府の代表的な役職です。

ここで注意すべきなのは与力の地位・意味で、これは時代によって全く異なります。大塩平八郎は江戸時代の人間ですが、この時代の与力は、町奉行の補佐を務めており、江戸市中の行政・司法・警察の任務にあたる重要かつ実力のある役職とされていました。

ただ鎌倉時代の場合、与力は単に「加勢する人」としての意味合いしかなく、そのため鎌倉時代の与力は大塩平八郎の与力とは別物なので注意してください。ちなみに、大塩家は代々大坂東町奉行組与力を務めていて、大塩平八郎はその8代目にあたります。

強い正義感で次々と不正を暴く

大坂町奉行組与力時代の大塩平八郎は正義感が強く、同僚・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど次々と不正を暴いていきました。当然汚職する側からすれば大塩平八郎は厄介な存在で、そのため奉公所の中には彼を嫌うものも少なくなかったようですね。

そんな状況にもかかわらず大塩平八郎が正義感を貫いて不正を暴き続けられたのは、上司である東町奉行・高井実徳が彼の行動を後押ししてくれたからです。前述した同僚・弓削新左衛門の汚職の内部告発、そしてキリシタン摘発、破戒僧摘発、これら3つは大塩平八郎が自ら三大功績と称えました。

しかし大塩平八郎は1830年に辞職、これは彼の良き理解者だった上司の高井実徳が転勤したためで、これを機に大塩平八郎は養子である大塩格之助に跡目を譲っています。隠居後は学業に専念、ここで大塩平八郎が選択したのは陽明学で、知行合一、致良知、万物一体の仁の基本思想を信じて独学で学びました。

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正義感が強い大塩平八郎は、大坂町奉行組与力を務めていた頃は次々と不正を暴いていた。周囲に疎まれつつも良き理解者の上司・高井実徳の後押しもあって大塩平八郎はその信念を曲げなかったが、高井実徳が転勤したことで与力を辞職した。

大塩平八郎 陽明学と天保の大飢饉

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\次のページで「朱子学ではなく陽明学を学ぶ」を解説!/

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