昭武に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、斉昭の18男で慶喜の弟
- 1-2、昭武、10歳で江戸、京都へ出陣
- 2-1、昭武、清水家を相続、使節団を率いてヨーロッパへ
- 2-2、パリ万博には薩摩も別に展示
- 2-3、幕末の様相があらわに
- 2-4、昭武、ヨーロッパの君主たちと謁見
- 3-1、昭武、パリでお勉強
- 3-2、代表団たちもそれぞれ先進技術などを目の当たりにして大いに学ぶ
- 3-3、昭武、幕府瓦解を受けて、新政府より帰国命令
- 3-4、昭武、最後の水戸藩主に
- 3-5、昭武、今度は兄弟たちとフランスへ再留学
- 3-6、昭武、夫人が死去したショックで若くして隠居
- 4、昭武の逸話
- 幕末当時、慶喜は昭武を後継者と
- 慶喜と昭武は仲良しで写真マニア
- 昭武の松戸の別邸戸定邸が重要文化財に
- 子孫のひとりは皇室へ
- パリ万博派遣され、最後の水戸藩主、人生のピークは10代で終わったみたいな徳川昭武
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。パリ万博に派遣された14歳の昭武の可愛い写真を見て興味を持ち、例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。
1-1、徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、斉昭の18男で慶喜の弟
嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生。父は9代藩主斉昭で、生母は側室の万里小路建房の六女睦子(ちかこ)、斉昭の18男で幼名は余八麿。
慶喜とは16歳年下の異母弟になります。
初名は松平 昭徳で後に昭武を名乗り、諡号は節公。
1-2、昭武、10歳で江戸、京都へ出陣
By published by 松戸市戸定歴史館 – The Japanese book “将軍のフォトグラフィー 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟 TYCOON AND PHOTOGRAPHY Tokugawa Yoshinobu and Akitake”, パブリック・ドメイン, Link
水戸家の公子たちは水戸で育てられる習慣があったので、昭武は生後半年で水戸の国元へ送られて養育されましたが、国元が天狗党の乱など幕末の騒乱で騒がしくなったために、文久3年(1863年)、10歳のときに江戸屋敷へ。
そして同じ年に、京都で病に伏した5歳年上の兄の松平昭訓の看護の名目で上洛し、昭訓が亡くなったのでそのまま長兄の慶篤の補佐として在京に。
上京区下長者町烏丸西入るにあった水戸藩邸に滞在し、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在(滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。
昭武はわずか10歳でしたが、滞京中の活動は多忙を極めていて、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加。
写真を見ても裃や衣冠束帯に着られているような10歳の坊やが大将として陣頭指揮できるはずがなく、家老級の補佐がついていたのは明らかでしょう。
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2-1、昭武、清水家を相続、使節団を率いてヨーロッパへ
慶応2年(1867年)従五位下、侍従兼民部大輔に叙任され、14代将軍家茂の死去後に諱を昭武に。20年も当主不在だった御三卿のひとつ清水家を相続。そしてパリで開催される万国博覧会に、兄である将軍慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣されることに。
昭武は、慶応3年1月(1867年2月)に、使節団を率いて約50日をかけて渡仏。使節団のメンバーには、会計係の渋沢栄一、随行医の高松凌雲という錚々たる人がいて、通訳は山内堤雲、そして英国公使館で通訳官をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子)も加わっていました。
江戸幕府とフランスとの関係
幕府のパリ万博参加は降ってわいたものではなくて、実は当時は幕府とフランスとの関係が濃厚でありました。
元治元年11月10日(1864年12月8日)に、フランス公使レオン・ロッシュは、幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されたのがきっかけとなり、幕府寄りの立場を取るように。
そして若い通訳官アーネスト・サトウらの情報収集で、薩摩、長州藩と深くかかわるようになるイギリス公使ハリー・パークスとロッシュはライバル意識がかなりあったので、対抗意識からもロッシュは積極的に幕府を支援したそう。
幕府は横須賀製鉄所建設の他に、慶応元年(1865年)に開校の横浜仏語伝習所も設立、そしてパリ万国博覧会への参加というわけなんですね。
また、フランスからは慶応2年(1866年)に経済使節団が来日、600万ドルの対日借款と武器契約の売り込みをしたり、軍事顧問団も招聘して、慶応3年(1867年)1月13日から訓練が開始されているという具合。
昭武の派遣の前にも、文久3(1864)年12月から7月にかけて、外国奉行池田長発(ながおき)を正使として派遣された横浜鎖港使節が、横浜近郊で起きた攘夷派とみられる浪人3人にフランス軍士官が殺害された井土ヶ谷事件の解決の約束と謝罪、それと横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔するため、開港していた横浜を再び閉鎖したいという希望)の交渉に当たらせるため派遣されています。
他にも14代将軍家茂が、フランスの蚕が病気で全滅し生糸産業が壊滅したことを聞いて、蚕の卵を産み付けた蚕種をフランスへ送ったことで、フランスでは、蚕を全滅させた病原菌の耐性を持つカイコを作り出した話であるとか、15代慶喜がナポレオン3世から贈られた軍服の正装写真とかも、フランスと幕府との濃厚な関係をあらわしていることがわかります。
尚、ロッシェ公使の幕府への肩入れすぎはフランス本国政府の意向を逸脱して内政干渉、個人的なものとみなされ、帰国命令が出たのですが、それが日本へ届いたときにはすでに幕府は崩壊していたということ。
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