今回は、徳川昭武を取り上げるぞ。幕末の水戸徳川家の出身で慶喜の弟ですが、わずか14歳でヨーロッパに派遣されてパリ万博に参加したんです。

昭武に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。パリ万博に派遣された14歳の昭武の可愛い写真を見て興味を持ち、例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、斉昭の18男で慶喜の弟

image by PIXTA / 15025522

嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生。父は9代藩主斉昭で、生母は側室の万里小路建房の六女睦子(ちかこ)、斉昭の18男で幼名は余八麿。

慶喜とは16歳年下の異母弟になります。
初名は松平 昭徳で後に昭武を名乗り、諡号は節公。

1-2、昭武、10歳で江戸、京都へ出陣

Kyoto Tokugawa Akitake.jpg
By published by 松戸市戸定歴史館 - The Japanese book "将軍のフォトグラフィー 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟 TYCOON AND PHOTOGRAPHY Tokugawa Yoshinobu and Akitake", パブリック・ドメイン, Link

水戸家の公子たちは水戸で育てられる習慣があったので、昭武は生後半年で水戸の国元へ送られて養育されましたが、国元が天狗党の乱など幕末の騒乱で騒がしくなったために、文久3年(1863年)、10歳のときに江戸屋敷へ。

そして同じ年に、京都で病に伏した5歳年上の兄の松平昭訓の看護の名目で上洛し、昭訓が亡くなったのでそのまま長兄の慶篤の補佐として在京に。
上京区下長者町烏丸西入るにあった水戸藩邸に滞在し、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在(滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。
昭武はわずか10歳でしたが、滞京中の活動は多忙を極めていて、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加。
写真を見ても裃や衣冠束帯に着られているような10歳の坊やが大将として陣頭指揮できるはずがなく、家老級の補佐がついていたのは明らかでしょう。

2-1、昭武、清水家を相続、使節団を率いてヨーロッパへ

慶応2年(1867年)従五位下、侍従兼民部大輔に叙任され、14代将軍家茂の死去後に諱を昭武に。20年も当主不在だった御三卿のひとつ清水家を相続。そしてパリで開催される万国博覧会に、兄である将軍慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣されることに。
昭武は、慶応3年1月(1867年2月)に、使節団を率いて約50日をかけて渡仏。使節団のメンバーには、会計係の渋沢栄一、随行医の高松凌雲という錚々たる人がいて、通訳は山内堤雲、そして英国公使館で通訳官をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子)も加わっていました。

江戸幕府とフランスとの関係
幕府のパリ万博参加は降ってわいたものではなくて、実は当時は幕府とフランスとの関係が濃厚でありました。
元治元年11月10日(1864年12月8日)に、フランス公使レオン・ロッシュは、幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されたのがきっかけとなり、幕府寄りの立場を取るように。
そして若い通訳官アーネスト・サトウらの情報収集で、薩摩、長州藩と深くかかわるようになるイギリス公使ハリー・パークスとロッシュはライバル意識がかなりあったので、対抗意識からもロッシュは積極的に幕府を支援したそう。
幕府は横須賀製鉄所建設の他に、慶応元年(1865年)に開校の横浜仏語伝習所も設立、そしてパリ万国博覧会への参加というわけなんですね。
また、フランスからは慶応2年(1866年)に経済使節団が来日、600万ドルの対日借款と武器契約の売り込みをしたり、軍事顧問団も招聘して、慶応3年(1867年)1月13日から訓練が開始されているという具合。
昭武の派遣の前にも、文久3(1864)年12月から7月にかけて、外国奉行池田長発(ながおき)を正使として派遣された横浜鎖港使節が、横浜近郊で起きた攘夷派とみられる浪人3人にフランス軍士官が殺害された井土ヶ谷事件の解決の約束と謝罪、それと横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔するため、開港していた横浜を再び閉鎖したいという希望)の交渉に当たらせるため派遣されています。

他にも14代将軍家茂が、フランスの蚕が病気で全滅し生糸産業が壊滅したことを聞いて、蚕の卵を産み付けた蚕種をフランスへ送ったことで、フランスでは、蚕を全滅させた病原菌の耐性を持つカイコを作り出した話であるとか、15代慶喜がナポレオン3世から贈られた軍服の正装写真とかも、フランスと幕府との濃厚な関係をあらわしていることがわかります。

尚、ロッシェ公使の幕府への肩入れすぎはフランス本国政府の意向を逸脱して内政干渉、個人的なものとみなされ、帰国命令が出たのですが、それが日本へ届いたときにはすでに幕府は崩壊していたということ。

\次のページで「2-2、パリ万博には薩摩も別に展示」を解説!/

2-2、パリ万博には薩摩も別に展示

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前回のロンドン万博には日本は正式に参加したわけではなかったので、パリ万博は、日本が初めて正式に参加した国際博覧会となりました。ところが、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ別に出展。幕府からは昭武、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣されたということ。
薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別の展示をして、コーディネーターを任していたモンブラン伯爵の提案で独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕府も葵の紋をモチーフに独自の勲章制作を開始したが、結局幕府は倒れて幻にという事件も。
このほか、江戸浅草の商人が数寄屋造りの茶屋で、3人の柳橋芸者が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりするだけの光景が、物珍しさからか人気になったということです。

2-3、幕末の様相があらわに

この時期、権威が落ちて博覧会どころではなかったはずの江戸幕府がなんでパリ万博参加をしたかという理由は、様々あるようです。建前は参加すべき時期に来ていたというのですが、本音はフランスと親密な関係をいっそう強めて軍事援助を受けたかったにつきるでしょう。また、フランス滞在中だった柴田日向守からの情報で、すでに薩摩の新納刑部や五代友厚らがパリに来ていて、薩摩が万博に参加するらしいということで、国禁を犯してパリに渡って日本代表を気取る薩摩に対し、幕府の権威を見せつけたいというのも。

しかし新聞メディアがすでに発達していたパリでは、幕府と薩摩の別々の展示を見て「日本国は、政府が複数ある連邦国家」という認識をされてしまい、幕府の権威の低下と国内の混乱はヨーロッパでもあらわとなってしまいました

パリ万博が切掛けでジャポニズムへ
この時、日本の展示物で高い評価を得たのは、和紙(すでに銅版画の用紙として珍重されてはいたが、改めて品質の高さが認識)、金銀蒔絵(日本独特の鶴亀、松竹梅、富士、龍などの図柄が話題に)、武者人形(鎧を着た等身大の武者人形に、サムライブームが起きたほど)などで、昔から人気の陶器は、特に薩摩焼が、飛ぶように売れ世界的な薩摩焼のブームが起こったほど。

そして浮世絵や屏風絵などの手法などが、マネ、モネ、ルノワール、ゴッホなど、当時の画家たちに影響を与え、それは残された名画に数々の日本のグッズが描かれていたことで明白に伝わってきますよね。

2-4、昭武、ヨーロッパの君主たちと謁見

TokugawaAkitakeInBelgium.gif
By 不明 - 1860s photograph. Source:[1], パブリック・ドメイン, Link

昭武は、パリでは、皇帝ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)に謁見して、パリ万国博覧会を訪問しました。

万博終了後には引き続いて江戸幕府代表として、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス各国を歴訪。オランダでは国王ウィレム3世に、ベルギーでは国王レオポルド2世に、イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、そしてイギリスのヴィクトリア女王に謁見を。さすが将軍代理、実の弟だけありますが、イギリスの新聞は、「プリンス・トクガワ」と昭武を次期将軍のように大きく報道したそうです。

3-1、昭武、パリでお勉強

昭武は、ヨーロッパ歴訪後、パリで留学生活を送ることに。
この頃の昭武は日記を記していて「徳川昭武幕末滞欧日記」として残っていますが、ココアを飲んだとあり、ココアを飲んだ最初の日本人とされています。

\次のページで「3-2、代表団たちもそれぞれ先進技術などを目の当たりにして大いに学ぶ」を解説!/

3-2、代表団たちもそれぞれ先進技術などを目の当たりにして大いに学ぶ

昭武のご一行の仲には、後に日本資本主義の父と言われた渋沢栄一や高松凌雲、後のジャーナリストの草分けである栗本鋤雲(じょううん)らが含まれていたので、彼らもフランスで大いに色々なことを学び、明治日本の近代化に貢献したことは間違いありません。

高松凌雲とは
高松凌雲は適塾出身の蘭方医で、西洋医学の知識を持ち、オランダ語と英語ができるという語学力が評価されて代表団の随行医に選ばれました。そしてパリ万博終了後も資金は幕府負担で留学生としてパリに残り、各地の病院などを視察、オテル・デュウ(神の家と言う意味)という病院を兼ねた医学校に入学。
「神の家」では、当時最先端の技術だったクロロフォルム麻酔を用いた開腹手術も実施されていましたが、先端技術以上に凌雲は「神の家」に併設された貧民病院の無料診療に衝撃を受けたそう。貧しい人向けの無料の貧民病院とは言え、設備は十分で、診察も「神の家」に所属している医師や看護婦が一般患者と同様に行っていたこと、貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立ち、国からの援助を受けない民間病院には驚くことばかりだったということです。

帰国後、凌雲は箱館戦争に行き、函館病院の院長に就任、パリ留学で学んだ精神で、戦傷者を敵味方を問わず治療、日本で初めての赤十字の活動とされています。後には民間救護団体の前身の同愛社を創設したことで有名。

3-3、昭武、幕府瓦解を受けて、新政府より帰国命令

慶応4年(1868年)1月、慶喜が大政奉還を行った知らせが入って使節団の立場は微妙に。3月には、鳥羽伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武をはじめとする7名は残留。すぐに新政府から帰国要請が届くも、4月の段階では兄慶喜からは、滞在を続けて勉学せよという手紙が。しかし5月15日(7月4日)になると、新政府から正式の帰国命令書が届き、ついに帰国することに。滞在最後に、昭武らは10日をかけて、フランス各地、ノルマンディーのカーンやシェルブールを回って、ロワール川河口のナントまで旅行しました。

3-4、昭武、最後の水戸藩主に

昭武ら一行は、慶応4年(1868年)9月4日(10月18日)にマルセイユを出航して約2か月の船旅で11月3日(12月6日)に神奈川に帰着。
長兄で水戸藩主慶篤が死去したので、昭武はヨーロッパから帰国した翌年の明治2年(1869年)天狗党の乱以来もめていた水戸の政情安定のために次期藩主に就任、すぐに版籍奉還で水戸藩知事に。そして北海道の土地割渡しを出願して、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国のうち利尻郡の合計5郡の支配を命じられました。
明治4年(1871年)7月14日には廃藩置県で藩知事お役御免となり、東京府向島の旧水戸藩下屋敷の小梅邸で寓居。

明治7年(1875年)には陸軍少尉に任官して、初期の陸軍戸山学校で教官として軍事教養を教授、明治8年(1875年)には、中院通富の娘の栄姫(瑛子)と結婚。

3-5、昭武、今度は兄弟たちとフランスへ再留学

昭武はたしかにフランス留学帰りで新知識を持っていたでしょうが、出来たばかりの陸軍学校とはいえ、まだ22歳の教官でしたので、勉強不足を痛感したのかもしれません。その後は明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛を命じられて訪米、その後、兄弟の土屋挙直、松平喜徳とともにフランスに向かい、再び留学して勉強し直しています。明治13年(1881年)に留学先のエコール・モンジュを退学して、同じくフランスに留学中だった長兄慶篤の長男篤敬とドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、ベルギーなどの欧州旅行の後、ロンドンへ半年滞在して翌年6月帰国。

3-6、昭武、夫人が死去したショックで若くして隠居

明治16年(1883年)1月に長女昭子が誕生するも、翌月産後の肥立ちが悪く妻の瑛子が死去。これが打撃になったのか、昭武は5月に隠居願を提出、31歳で甥の篤敬に水戸本家の家督を譲りました。
この時代は先取の知識を得るためにどんどん留学生を外国へ送り出して勉強させ、帰国してその知識を伝えるということがされていたのですが、若い殿様であった昭武はせっかくフランスで勉強したのに、この範疇に入らなかったのかとちょっと残念。
その後は、明治25年(1892年)次男の武定が子爵となり、松戸徳川家を創設。明治31年(1898年)甥で水戸家当主の篤敬が44歳で死去したので、昭武は、水戸徳川家当主となった11歳の圀順の後見に。 尚、昭武は晩年、華族のご隠居の名誉職のような麝香間祗候として明治天皇の相談役として、兄の慶喜らと共に皇居に出仕していました。

明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去、享年58歳。

\次のページで「4、昭武の逸話」を解説!/

4、昭武の逸話

幕末当時、慶喜は昭武を後継者と

会津藩主松平容保は自身の養子に当初、昭武を望んでいたのですが、この頃はまだ子供がなかった兄慶喜が昭武を自分の後継者にと強引に清水家を継がせたということ。容保は代わって昭武のすぐ下の弟の喜徳を養子にしたということ。
しかし後に容保には実子の容大が生まれたために養子縁組が解消、喜徳は水戸家分家の守山松平家を継承。

慶喜と昭武は仲良しで写真マニア

徳川斉昭は早世も含めて21男14女の子沢山でしたが、写真が現存するのは慶喜、昭武、慶徳、池田茂政だけで、慶喜と昭武は写真撮影や狩猟など共通の趣味があり、交流も盛んで、昭武や慶喜の写した貴重な写真が多く残されています。

昭武の松戸の別邸戸定邸が重要文化財に

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昭武は狩猟で何度も訪れた松戸に、戸定邸(とじょうてい)を建設。
この邸宅は、眼下に江戸川、遠くに富士を望む小高い岡の上に建てられていて、明治期の旧大名家の和風邸宅として数少ない貴重なもの。
戸定邸は、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、皇太子時代の大正天皇ら多くの皇族、華族たちの交流の場としても使われたのですが、昭和26年に昭武の息子武定が松戸市に寄贈し、現在は庭なども復元されて一般公開されていて、庭は国の名勝に、建物は重要文化財となっています。

子孫のひとりは皇室へ

昭武は夫人がお産で亡くなった後に隠居したので後室をもらわず側室を置きました。そして夫人の残した嫡室の長女の他に、3男3女が誕生。
そのうちの次女政子が長門長府藩の第14代で最後の藩主毛利元敏の長男元雄と結婚して生まれた久子が、津軽義孝と結婚して生まれたのが、常陸宮華子妃殿下。
昭武は華子妃の母方の曾祖父になりますが、華子妃は父が尾張徳川家の出身(昭和天皇の侍従長だった徳川義寛が伯父、昭和天皇皇后の女官長北白川祥子が叔母)なので、尾張家出身で会津藩主の松平容保の孫である故秩父宮妃と、徳川慶喜孫の高松宮妃ともご親戚。昭和の頃の皇室はこういう感じで親戚関係が絡み合い、血族姻戚関係が濃いものだったのですね。

パリ万博派遣され、最後の水戸藩主、人生のピークは10代で終わったみたいな徳川昭武

昭武は元服はしたものの14歳というまだ子供のうちに水戸家の代表としてパリ万博への派遣後、最後の水戸藩主となり明治後には一時的に北海道開拓に興味を示したり、陸軍学校の教官も。そしてフィラデルフィア万博へ派遣され、兄弟たちと数年パリ留学をしたのに、結局は31歳で若隠居となって58歳で亡くなるまで趣味三昧の生活を送りました。人間誰でも15分は有名人になれるということで、昭武の場合は人生早いうちに仕事をさせられてピーク終了、後は余生を送ったのではないでしょうか。

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幕末日本史明治歴史江戸時代

14歳でパリ万博に派遣された若き万博殿様「徳川昭武」水戸藩最後の藩主を歴女がわかりやすく解説

今回は、徳川昭武を取り上げるぞ。幕末の水戸徳川家の出身で慶喜の弟ですが、わずか14歳でヨーロッパに派遣されてパリ万博に参加したんです。

昭武に昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。パリ万博に派遣された14歳の昭武の可愛い写真を見て興味を持ち、例によって本を引っ張り出したりネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、斉昭の18男で慶喜の弟

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嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生。父は9代藩主斉昭で、生母は側室の万里小路建房の六女睦子(ちかこ)、斉昭の18男で幼名は余八麿。

慶喜とは16歳年下の異母弟になります。
初名は松平 昭徳で後に昭武を名乗り、諡号は節公。

1-2、昭武、10歳で江戸、京都へ出陣

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By published by 松戸市戸定歴史館 – The Japanese book “将軍のフォトグラフィー 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟 TYCOON AND PHOTOGRAPHY Tokugawa Yoshinobu and Akitake”, パブリック・ドメイン, Link

水戸家の公子たちは水戸で育てられる習慣があったので、昭武は生後半年で水戸の国元へ送られて養育されましたが、国元が天狗党の乱など幕末の騒乱で騒がしくなったために、文久3年(1863年)、10歳のときに江戸屋敷へ。

そして同じ年に、京都で病に伏した5歳年上の兄の松平昭訓の看護の名目で上洛し、昭訓が亡くなったのでそのまま長兄の慶篤の補佐として在京に。
上京区下長者町烏丸西入るにあった水戸藩邸に滞在し、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在(滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。
昭武はわずか10歳でしたが、滞京中の活動は多忙を極めていて、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加。
写真を見ても裃や衣冠束帯に着られているような10歳の坊やが大将として陣頭指揮できるはずがなく、家老級の補佐がついていたのは明らかでしょう。

2-1、昭武、清水家を相続、使節団を率いてヨーロッパへ

慶応2年(1867年)従五位下、侍従兼民部大輔に叙任され、14代将軍家茂の死去後に諱を昭武に。20年も当主不在だった御三卿のひとつ清水家を相続。そしてパリで開催される万国博覧会に、兄である将軍慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣されることに。
昭武は、慶応3年1月(1867年2月)に、使節団を率いて約50日をかけて渡仏。使節団のメンバーには、会計係の渋沢栄一、随行医の高松凌雲という錚々たる人がいて、通訳は山内堤雲、そして英国公使館で通訳官をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子)も加わっていました。

江戸幕府とフランスとの関係
幕府のパリ万博参加は降ってわいたものではなくて、実は当時は幕府とフランスとの関係が濃厚でありました。
元治元年11月10日(1864年12月8日)に、フランス公使レオン・ロッシュは、幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されたのがきっかけとなり、幕府寄りの立場を取るように。
そして若い通訳官アーネスト・サトウらの情報収集で、薩摩、長州藩と深くかかわるようになるイギリス公使ハリー・パークスとロッシュはライバル意識がかなりあったので、対抗意識からもロッシュは積極的に幕府を支援したそう。
幕府は横須賀製鉄所建設の他に、慶応元年(1865年)に開校の横浜仏語伝習所も設立、そしてパリ万国博覧会への参加というわけなんですね。
また、フランスからは慶応2年(1866年)に経済使節団が来日、600万ドルの対日借款と武器契約の売り込みをしたり、軍事顧問団も招聘して、慶応3年(1867年)1月13日から訓練が開始されているという具合。
昭武の派遣の前にも、文久3(1864)年12月から7月にかけて、外国奉行池田長発(ながおき)を正使として派遣された横浜鎖港使節が、横浜近郊で起きた攘夷派とみられる浪人3人にフランス軍士官が殺害された井土ヶ谷事件の解決の約束と謝罪、それと横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔するため、開港していた横浜を再び閉鎖したいという希望)の交渉に当たらせるため派遣されています。

他にも14代将軍家茂が、フランスの蚕が病気で全滅し生糸産業が壊滅したことを聞いて、蚕の卵を産み付けた蚕種をフランスへ送ったことで、フランスでは、蚕を全滅させた病原菌の耐性を持つカイコを作り出した話であるとか、15代慶喜がナポレオン3世から贈られた軍服の正装写真とかも、フランスと幕府との濃厚な関係をあらわしていることがわかります。

尚、ロッシェ公使の幕府への肩入れすぎはフランス本国政府の意向を逸脱して内政干渉、個人的なものとみなされ、帰国命令が出たのですが、それが日本へ届いたときにはすでに幕府は崩壊していたということ。

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