賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北
天正11年(1583年)柴田勝家vs羽柴秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発。近江長浜城を守っていた勝家の甥柴田勝豊は、勝家が同じ養子でも柴田勝政(柴田勝家の実弟)を優遇していたことに不満を抱き、羽柴軍から攻められるとあっさりと降伏。秀吉側へと寝返ってしまいます。更に岐阜城の織田信孝も降伏。雪のため身動きが取れずにいた勝家も、3万の軍を率いて北ノ庄城を出発しました。一度は降伏した信孝が滝川一益と結び美濃で再び挙兵。この事実を知った秀吉は美濃に向け進軍します。しかし、悪天候で足止めをくらった秀吉は大垣城に待機。秀吉がいなくなった今が好機とばかりに、佐久間盛政が大岩山砦の中川清秀を攻撃。清秀は討死し、岩崎山の高山右近も退却しました。
勝家は盛政に撤退命令を出しますが、盛政は従わず更に攻め込んでいきます。秀吉は大岩山砦が落とされたことを知り、大垣から52キロの距離を5時間で移動(美濃の大返し)。盛政との直接対決となりました。ところが、茂山に布陣していた柴田側の前田利家が突然の戦線離脱。秀吉とは旧知の仲であり、勝家のことも慕っていた利家。どちらの味方もできなかったのかもしれません。利家の離脱により士気が下がった盛政は、秀吉軍に敗退。秀吉は勝家がいる本陣まで攻め入ってきました。多くの兵力に圧倒された勝家は、北ノ庄城に退却します。
北ノ庄城でお市の方と共に自害
北ノ庄城に退却した勝家を秀吉軍はすぐに包囲。勝家はお市の方に逃げるよう勧めますが、「二度も逃げたくない」と拒否。こうして、二人は共に城内で自害したのです。勝家享年62歳(正確な年齢は不明)お市の方37歳。
二人が詠んだとされる辞世の句をご紹介。
勝家「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」
夏の夜の夢のように儚い路であった。山のほととぎすよ、私の名を雲の上まで語ってはくれまいか。
お市の方「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな」
ただでさえ夏の夜は短いのに、ほととぎすが別れの路を急かすようです。
二人は最後に酒を酌み交わし、勝家がお市の方を脇差しで刺し介錯した後、自らも十字切り(正式な切腹の作法)で自害したと言われています。
一生涯、織田家臣として仕えた柴田勝家
織田信秀時代から、織田の家臣として仕えた柴田勝家。当初は弟の信行に仕えていたことから敵対関係にあった二人ですが、徐々に信頼関係を築いていきました。信長の筆頭家老にまで出世した勝家。羽柴秀吉と競い合って最後は敗北してしまいますが、どちらにせよ、秀吉が勝家以上の力量を身につけていたのは間違いありません。
賤ヶ岳の戦いで、前田利家の離脱が敗北の原因の一つとも言えますが、責めたりせず労いの言葉をかけたそうです。勝家と言えば勇猛で戦上手。鬼の異名は多くありますが、温厚な人物であったと伝わります。勝家が残した辞世の句の通り、現世でもお市の方と共に語り継がれていますね。