今回は、権六・鬼柴田・かかれ柴田など数々の異名を持つ柴田勝家の登場です。風貌からして少し暑苦しいイメージですが、見た目は関係ないぞ。中身で勝負だからな。

猛将で優しい人物だったと言われる柴田勝家を、戦国武将に浪漫を感じるライターすのうと一緒に解説していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。柴田勝家は戦国一の美女と言われたお市の方と共に自刃した事でも有名。そんな勝家の生涯を強い戦国武将が大好きなすのうが解説していく。

信長の父・織田信秀の代から仕えた柴田勝家

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By 不明 - The Japanese book "Shibata Katsuie", Fukui City History Museum, 2006, パブリック・ドメイン, Link

柴田勝家の生誕は、大永2年(1522年)生まれと言う説や、大永7年、8年生まれの説もあったりと事実は不明。出身は尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市東区)父親は柴田勝義とされ、若い頃より織田信秀(信長の父)に仕えていました。信秀死後は、次男の織田信行(信長の弟)の家臣となります。織田信長の重臣のイメージが強い勝家ですが、当初は弟の信行に仕えていました。後に、兄弟の家督争いへと発展していきます。

織田信行に仕え、信長と対立

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織田信行の家老として仕えた勝家。当時は信長と信行の間で家督をめぐり対立していました。兄vs弟、この時代には良くあることですよね。信長と言えば、うつけと言われ信秀の葬儀で位牌に焼香を投げつけたエピソードは有名です。それに対し弟の信行は行儀が良く真面目な性格。信行は、うつけと呼ばれる信長が家督を継ぐことに不満を抱いていました。勝家は当主である信行を後継者にしようと、林秀貞と画策します。

弘治2年(1556年)信長に対して信行が謀反を企て、織田家の後継者争い・稲生の戦いが始まりました。信長の手勢700に対し、信行軍は1700と数では優勢。勝家の活躍もあり、信長本陣まで攻め入りますが、信長が大声で「喝」を入れると、信長軍は反撃を開始。信長の大声に信行の軍勢は逃げてしまい、450人余りが討ち取られてしまいます。敗れた信行は生母である土田御前(どだごぜん)らの助命願いにより、信長に降伏。勝家、秀貞も謝罪し赦免されました。こうして信長が家督を継承することになり、勝家も信長の家臣となります。

二度目の謀反を起こした織田信行は暗殺される

一時は降伏し信長に忠誠を誓ったと思われていた信行ですが、懲りずに二度目の謀反を計画していました。この頃から、信行は家臣の津々木 蔵人(つづき くらんど)を重宝し、信行の家臣をほぼ蔵人の配下に付けるようになります。蔵人がその立場を利用し、勝家を侮るようになったことから、勝家の信行に対する気持ちに変化が生じてきました。信行の二度目の謀反計画を知った勝家は、信長に密告。逆に信行を陥れようと信長は、自らが病気になったと嘘をつき、「清洲城までお見舞いに来るように」と信行を誘き出します。

この誘いに信行も「罠ではないのか?」と勝家に相談。ところが勝家は、逆に信長を討つチャンスでは?とアドバイス。こうして清洲城に出向いた信行は、信長の命を受けた家臣の河尻秀隆により殺されてしまいます。信行の嫡男であった坊丸(後の津田信澄)は助命され、勝家のもとに預けられ養育されました。

瓶割り柴田のエピソード

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元亀元年(1570年)信長が京に上洛をする際に戦った六角 義賢(ろっかくよしかた)が、甲賀の軍勢を引き連れて南近江で一揆を起こしていました。この抑えを任された勝家は、長光寺城(現在の滋賀県近江八幡市)に籠城。六角氏は長光寺城を包囲し、水の手を断ってしまいます。降伏を促す使者は「お手洗いの水を借りたい」と申し出ました。勝家は使者に水を与えると、残りの水を全部捨ててしまいますそれを見た使者は、「水はまだ十分にある」と思いこみ、「柴田勢はまだ水の蓄えはあるので、しばらく籠城するに違いない」と報告。

ところが、これは勝家の戦略でした。敵に「水はまだ十分にある」と思わせ油断させる作戦だったのです。勝家は家臣たちに瓶の水を飲ませ、残りの水を捨て瓶を割ってしまいます。「これで水は無くなった。ここで乾いて死ぬより討って出よう」そして、六角軍に攻撃を仕掛けました。まさか討って出るはずがないと油断していた六角氏は柴田勢に敗北。これが「瓶割り柴田」の由来となっているそうですよ。しかし、この話は「信長公記」に書かれていないことから、創作の可能性が高いと言われています。

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越前国8郡49万石を与えられる、後に羽柴秀吉と衝突

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天正3年(1575年)5月、武田勝頼を敗り長篠の闘いに勝利した信長は、同年8月、後回しとなっていた越前の一向一揆に向け5万近くの兵を率いて岐阜を出発。敦賀に到着した織田軍は、総動員と言われるほど多くの猛将たちが参陣します。ほどなくして、越前一向一揆が開始。勝家も、丹羽長秀・津田信澄と越前府中の北にある鳥羽城を攻め落とし、6百名余りを討ちとります。織田勢は、わずか4日間で1万人以上を捕らえ殺害。被害者は3万人を超え、越前一向一揆は織田軍勝利で鎮圧しました。

勝家は戦後の論功行賞で、越前国8軍49万石、更に北ノ庄城(現在の福井城)を与えられ、前田利家・佐々成政・不破光治(ふわみつはる)らが与力として付けられます。早くから活躍しているイメージの勝家ですが、出世したのは以外と遅めでした。天正5年(1577年)勝家は、手取川の戦いで上杉謙信に敗北。七尾城を守る長続連(ちょうつぐつら)は、謙信に攻められ信長に援軍を要請。勝家は軍を率いて救援に向かいます。しかし、勝家が到着する前に七尾城が落城。一緒に戦うはずであった羽柴秀吉が離脱した事もあり事態は悪化。勝家は手取川を超えた直後に撤退を決意しますが、天候などの影響もあって手取川は増水。火薬などは濡れて使い物にならず、溺死者も多数出るなど最悪な状態となってしまいました。秀吉の離脱の原因は、勝家との分裂、元々二人は不仲であったとも言われています。

本能寺の変で織田信長死去

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天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が家臣であった明智光秀の謀反により自刃。当時柴田勝家は、上杉家臣が籠城する魚津城攻めの最中でした。上杉景勝は援軍に向かいますが、森長可(もりながよし)滝川一益が越後に侵入したとの一報を受け撤退。魚津城に籠城していた上杉家臣13名が自刃し、城は落城します。しかし、この後すぐに信長が本能寺で討たれた事実を知り、勝家は京に進軍。この時、信長家臣の中で誰よりも早く光秀を討ったのが羽柴秀吉でした。

清洲会議で羽柴秀吉と対立

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信長亡き後、羽柴秀吉が中国大返しで明智光秀を討ったことから光秀の「三日天下」は終了。その後、織田家の後継者・領地の再分配などを話し合う「清洲会議」が行われます。参加メンバーは、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4名。織田家の次期後継者として秀吉は、本能寺の変で討死した織田信忠の嫡男「三法師」、勝家は信長の三男「織田信孝」を推薦します。

信長の筆頭家老であった勝家でしたが、中国大返しでの功績により秀吉の発言力は大きく、後継者は三法師に決定。当時の三法師は僅か3歳。信孝は次男、織田信雄と三法師の後見人となります。領地の再分配でも秀吉は勝家の倍の石高となり、光秀討伐に間に合わなかった勝家には不本意な結果となりました。この清洲会議以降、織田家臣内での秀吉の立場は大きくなり、勝家との対立も更に激化。元々衝突が多かったと言われている二人ですが、後に有名な賤ヶ岳の戦いへと繋がっていきます。

お市の方と結婚する

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By 不詳 - 高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」, パブリック・ドメイン, Link

清洲会議の後、勝家は信長の妹で戦国一の美女と言われる「お市の方」と結婚。当初は織田信孝の仲介であったと言われていましたが、最近では、秀吉の仲介説が濃厚だそうです。大河ドラマなどでは、秀吉がお市の方に思いを寄せている設定が多いので、この説が事実ならば思い人を仲介?と少し複雑な気もしますけど。実際は創作の可能性もあるようです。

そうなると「秀吉仲介説」も理解できますね。二人が結婚した当時、勝家推定60歳、お市の方は36歳。親子ほど年齢差のあった二人ですが、勝家は結婚した記録が残されておらず、初婚であったと言われ、お市の方も娘3人を連れての再婚。しかし、夫婦として生活したのは僅か一年程でした。

\次のページで「賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北」を解説!/

賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北

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天正11年(1583年)柴田勝家vs羽柴秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発。近江長浜城を守っていた勝家の甥柴田勝豊は、勝家が同じ養子でも柴田勝政(柴田勝家の実弟)を優遇していたことに不満を抱き、羽柴軍から攻められるとあっさりと降伏。秀吉側へと寝返ってしまいます。更に岐阜城の織田信孝も降伏。雪のため身動きが取れずにいた勝家も、3万の軍を率いて北ノ庄城を出発しました。一度は降伏した信孝が滝川一益と結び美濃で再び挙兵。この事実を知った秀吉は美濃に向け進軍します。しかし、悪天候で足止めをくらった秀吉は大垣城に待機。秀吉がいなくなった今が好機とばかりに、佐久間盛政が大岩山砦の中川清秀を攻撃。清秀は討死し、岩崎山の高山右近も退却しました。

勝家は盛政に撤退命令を出しますが、盛政は従わず更に攻め込んでいきます。秀吉は大岩山砦が落とされたことを知り、大垣から52キロの距離を5時間で移動(美濃の大返し)。盛政との直接対決となりました。ところが、茂山に布陣していた柴田側の前田利家が突然の戦線離脱。秀吉とは旧知の仲であり、勝家のことも慕っていた利家。どちらの味方もできなかったのかもしれません。利家の離脱により士気が下がった盛政は、秀吉軍に敗退。秀吉は勝家がいる本陣まで攻め入ってきました。多くの兵力に圧倒された勝家は、北ノ庄城に退却します。

北ノ庄城でお市の方と共に自害

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北ノ庄城に退却した勝家を秀吉軍はすぐに包囲。勝家はお市の方に逃げるよう勧めますが、「二度も逃げたくない」と拒否。こうして、二人は共に城内で自害したのです。勝家享年62歳(正確な年齢は不明)お市の方37歳。
二人が詠んだとされる辞世の句をご紹介。

勝家「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」

夏の夜の夢のように儚い路であった。山のほととぎすよ、私の名を雲の上まで語ってはくれまいか。

お市の方「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな」

ただでさえ夏の夜は短いのに、ほととぎすが別れの路を急かすようです。

二人は最後に酒を酌み交わし、勝家がお市の方を脇差しで刺し介錯した後、自らも十字切り(正式な切腹の作法)で自害したと言われています。

一生涯、織田家臣として仕えた柴田勝家

織田信秀時代から、織田の家臣として仕えた柴田勝家。当初は弟の信行に仕えていたことから敵対関係にあった二人ですが、徐々に信頼関係を築いていきました。信長の筆頭家老にまで出世した勝家。羽柴秀吉と競い合って最後は敗北してしまいますが、どちらにせよ、秀吉が勝家以上の力量を身につけていたのは間違いありません。

賤ヶ岳の戦いで、前田利家の離脱が敗北の原因の一つとも言えますが、責めたりせず労いの言葉をかけたそうです。勝家と言えば勇猛で戦上手。鬼の異名は多くありますが、温厚な人物であったと伝わります。勝家が残した辞世の句の通り、現世でもお市の方と共に語り継がれていますね。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

「柴田勝家」鬼の異名を持つ勇猛な心優しい武将を歴女がわかりやすく解説

賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北

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天正11年(1583年)柴田勝家vs羽柴秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発。近江長浜城を守っていた勝家の甥柴田勝豊は、勝家が同じ養子でも柴田勝政(柴田勝家の実弟)を優遇していたことに不満を抱き、羽柴軍から攻められるとあっさりと降伏。秀吉側へと寝返ってしまいます。更に岐阜城の織田信孝も降伏。雪のため身動きが取れずにいた勝家も、3万の軍を率いて北ノ庄城を出発しました。一度は降伏した信孝が滝川一益と結び美濃で再び挙兵。この事実を知った秀吉は美濃に向け進軍します。しかし、悪天候で足止めをくらった秀吉は大垣城に待機。秀吉がいなくなった今が好機とばかりに、佐久間盛政が大岩山砦の中川清秀を攻撃。清秀は討死し、岩崎山の高山右近も退却しました。

勝家は盛政に撤退命令を出しますが、盛政は従わず更に攻め込んでいきます。秀吉は大岩山砦が落とされたことを知り、大垣から52キロの距離を5時間で移動(美濃の大返し)。盛政との直接対決となりました。ところが、茂山に布陣していた柴田側の前田利家が突然の戦線離脱。秀吉とは旧知の仲であり、勝家のことも慕っていた利家。どちらの味方もできなかったのかもしれません。利家の離脱により士気が下がった盛政は、秀吉軍に敗退。秀吉は勝家がいる本陣まで攻め入ってきました。多くの兵力に圧倒された勝家は、北ノ庄城に退却します。

北ノ庄城でお市の方と共に自害

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北ノ庄城に退却した勝家を秀吉軍はすぐに包囲。勝家はお市の方に逃げるよう勧めますが、「二度も逃げたくない」と拒否。こうして、二人は共に城内で自害したのです。勝家享年62歳(正確な年齢は不明)お市の方37歳。
二人が詠んだとされる辞世の句をご紹介。

勝家「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」

夏の夜の夢のように儚い路であった。山のほととぎすよ、私の名を雲の上まで語ってはくれまいか。

お市の方「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな」

ただでさえ夏の夜は短いのに、ほととぎすが別れの路を急かすようです。

二人は最後に酒を酌み交わし、勝家がお市の方を脇差しで刺し介錯した後、自らも十字切り(正式な切腹の作法)で自害したと言われています。

一生涯、織田家臣として仕えた柴田勝家

織田信秀時代から、織田の家臣として仕えた柴田勝家。当初は弟の信行に仕えていたことから敵対関係にあった二人ですが、徐々に信頼関係を築いていきました。信長の筆頭家老にまで出世した勝家。羽柴秀吉と競い合って最後は敗北してしまいますが、どちらにせよ、秀吉が勝家以上の力量を身につけていたのは間違いありません。

賤ヶ岳の戦いで、前田利家の離脱が敗北の原因の一つとも言えますが、責めたりせず労いの言葉をかけたそうです。勝家と言えば勇猛で戦上手。鬼の異名は多くありますが、温厚な人物であったと伝わります。勝家が残した辞世の句の通り、現世でもお市の方と共に語り継がれていますね。

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