日本史

越後の蒼き龍『河合継之助』ラストサムライの生涯を幕末マニアが5分で詳しく解説

よお、桜木健司だ。長年続いた江戸幕府が終わりを告げる時、この国は『新政府VS旧幕府』に別れ戦ったんだ。そんな中、どちらにもつかず中立の立場を貫こうとしたのが長岡藩だ。

指導者として藩政を改革し、最後の戦いに挑んだ男『河合継之助(つぎのすけ)』の生き様を幕末マニアのベロと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

西岡壱誠

ライター/西岡壱誠

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末の戊辰戦争において、新政府軍を苦戦させたラストサムライ『河合継之助』について詳しくまとめる。

小さな龍の成長過程

image by PIXTA / 25611901

我儘な少年だった

1827年(文政10年)父・河井代右衛門秋紀と母・さだのあいだに長男として、越後長岡(現・新潟中越北部から下越西部)に生まれました。幼少期は非常に腕白でいたずら者、さらに強情我儘の心が強く大人のいう事を聞かなかったそうです。

12歳になったころ文武の道に励み始めますが先生のいう事を真に受けず、しばしば反論しては困らせていたとの事。特に手を焼いたのは馬術の師である三浦治郎平です。教えは一切守らず勝手な乗り方をし、叱られると「乗り降りができて、思うように走らせればいい」と反論。困り果てた三浦は教えることを放棄してしまいました。

名臣への決意

1842年(天保13年)継之助は元服し秋義と名乗ります。河井家は代々通称として「代右衛門」を世襲しますが、彼は幼名である継之助を使い続けました。継之助は儒学者である『王陽明(おうようめい)』を尊敬していて、元服の翌年にニワトリを割いて王陽明をまつり、国家の干城(国を守る武士)となる事を誓ったのです。

20歳から23歳にかけての継之助は、儒学者や哲学者の語録などの写本に熱中していました。そして1850年(嘉永3年)24歳になった春、同藩の武士である梛野喜兵衛の妹『すが』と結婚。翌年、美濃出身の儒学者・佐藤一斎(いっさい)の『言志禄(げんしろく)』と出会い、これも写し切ります。そして、この本を読んだことが動機となり、藩に江戸留学を希望しました。

江戸で学んだこと

1852年(嘉永5年)江戸に上った継之助は、まず斎藤拙堂(せつどう)の門を叩きました。斎藤は才能ある継之助を愛し、普通の門人には滅多に出席を許さない『詩文の会』にも参加を許します。しかし継之助の志は政治であって詩ではなかったので、しばらくして斎藤の門から出ました。

その後、古賀謹一郎の久敬舎に入ります。古賀は国外に対する関心が深く情報を集め、対外問題についての見識を持っていました。そして弟子たちに「我が国における今日の急務は、火器・貿易・船舶である」と語り、継之助に影響を受けます。さらに久敬舎の書庫で『李忠定公集(りちゅうていこう)』を見つけ、この本を真の経済書と感じた彼は、取り憑かれたように写本したのです。

やがて古賀の所から、当時開明的な論を展開し、西洋砲術に明るいといわれていた佐久間象山(しょうざん)の門に入りました。写した李忠定公集を見せると佐久間は感動し、題字を書いてもらいます。しかし継之助は、佐久間の人柄が好きになれなかったようで、彼の許をすぐ去り長岡へ帰国しました。

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継之助は王陽明の学問だけを学んだわけではなかったんだ。王陽明も子供の時から高慢で、いつも父母に心配をかける腕白者だった。ということを知り「俺は長岡の王陽明だ」という自負心があったみたいだ。師のいう事を聞かなかったり、我儘一杯に生きてきたが、底には一本の筋を通して生きてきた幼少時代。この時すでに、指導者としての資質を持っていたのかもしれないな。

藩政に参加

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西岡壱誠