長年続いた江戸幕府が終わりを告げる時、この国は『新政府VS旧幕府』に別れ戦ったんです。そんな中、どちらにもつかず中立の立場を貫こうとしたのが長岡藩です。

指導者として藩政を改革し、最後の戦いに挑んだ男『河合継之助(つぎのすけ)』の生き様を幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末の戊辰戦争において、新政府軍を苦戦させたラストサムライ『河合継之助』について詳しくまとめる。

小さな龍の成長過程

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我儘な少年だった

1827年(文政10年)父・河井代右衛門秋紀と母・さだのあいだに長男として、越後長岡(現・新潟中越北部から下越西部)に生まれました。幼少期は非常に腕白でいたずら者、さらに強情我儘の心が強く大人のいう事を聞かなかったそうです。

12歳になったころ文武の道に励み始めますが先生のいう事を真に受けず、しばしば反論しては困らせていたとの事。特に手を焼いたのは馬術の師である三浦治郎平です。教えは一切守らず勝手な乗り方をし、叱られると「乗り降りができて、思うように走らせればいい」と反論。困り果てた三浦は教えることを放棄してしまいました。

名臣への決意

1842年(天保13年)継之助は元服し秋義と名乗ります。河井家は代々通称として「代右衛門」を世襲しますが、彼は幼名である継之助を使い続けました。継之助は儒学者である『王陽明(おうようめい)』を尊敬していて、元服の翌年にニワトリを割いて王陽明をまつり、国家の干城(国を守る武士)となる事を誓ったのです。

20歳から23歳にかけての継之助は、儒学者や哲学者の語録などの写本に熱中していました。そして1850年(嘉永3年)24歳になった春、同藩の武士である梛野喜兵衛の妹『すが』と結婚。翌年、美濃出身の儒学者・佐藤一斎(いっさい)の『言志禄(げんしろく)』と出会い、これも写し切ります。そして、この本を読んだことが動機となり、藩に江戸留学を希望しました。

江戸で学んだこと

1852年(嘉永5年)江戸に上った継之助は、まず斎藤拙堂(せつどう)の門を叩きました。斎藤は才能ある継之助を愛し、普通の門人には滅多に出席を許さない『詩文の会』にも参加を許します。しかし継之助の志は政治であって詩ではなかったので、しばらくして斎藤の門から出ました。

その後、古賀謹一郎の久敬舎に入ります。古賀は国外に対する関心が深く情報を集め、対外問題についての見識を持っていました。そして弟子たちに「我が国における今日の急務は、火器・貿易・船舶である」と語り、継之助に影響を受けます。さらに久敬舎の書庫で『李忠定公集(りちゅうていこう)』を見つけ、この本を真の経済書と感じた彼は、取り憑かれたように写本したのです。

やがて古賀の所から、当時開明的な論を展開し、西洋砲術に明るいといわれていた佐久間象山(しょうざん)の門に入りました。写した李忠定公集を見せると佐久間は感動し、題字を書いてもらいます。しかし継之助は、佐久間の人柄が好きになれなかったようで、彼の許をすぐ去り長岡へ帰国しました。

藩政に参加

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我儘な為に嫌われる

1853年(嘉永6年)に黒船(アメリカ艦隊)が来航し、再び江戸へ出ます。そして藩主・牧野忠雅(ただまさ)に対して時事に対する意見を述べ、これに忠雅は感心し継之助を『評定方随役』に抜擢しましたが、他人からの評判は最悪だったようでした。重役たちが眉をしかめるような事を次々と言い、思うがままに自分の信条を告げる継之助の言動は、重役たちに嫌われてしまったのです。

長岡に戻っても同じでした。本来、評定方随役とは藩が何かをなす場合に思うままに意見できる資格を持っているのですが、格にこだわる重役たちは、継之助の生意気な態度に腹を立て、彼の意見を完全に無視。呆れた継之助はこの職を辞退してしまったのです。

更に同じころ、藩主・忠雅は自分の世子(相続人)として松平乗寛の3男・忠恭(ただゆき)を養子にしました。江戸で継之助にふれていた忠恭は、学問の講義を依頼しますが、これを拒否。江戸でも長岡でも我儘な人物として定着する事となったのです。

才能を発揮した矢先に

1856年(安政3年)、藩政から離れ東北各地を遊歴していた継之助は帰国後、父が隠居し家督を継ぎました。同年、藩主・忠雅が病没し忠恭が後を継ぎ『外様吟味役(藩内で起こる紛争を裁断する役)』に命じられます。

宮路村で長年にわたり続いていたトラブルを解決し、評判がよくなってきた継之助でしたが勉強の虫が騒ぎだし、再び江戸へ向かうことを決意しました。

師との出会い

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1859年(安政5年)、33歳になった継之助は以前学んだ古賀を訪ね、一人の人物を紹介してもらいます。備中松山(現・岡山県高梁市)の山田方谷(ほうこく)です。

山田は「日本の政治は経済、すなわち経世済民。民に対し、子を思う親のように仁と徳によって接することなのだ」と教えました。事実、山田は農民出身でありながら松山藩の改革に着手し藩主・板倉勝静(かつきよ)から絶大な信頼を得て、後の長州藩などの手本となるほどの画期的な政策を行った人物でした。「わが意を得たり」と感じた継之助は、長岡の未来を切り開くのです。

傾く幕府に見切りをつける

激流の幕末

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1862年(文久2年)安政の大獄以降、治安の乱れた京都。そして藩主・牧野忠恭は治安維持のため『京都所司代(しょしだい)』に任命され、継之助を京都に呼び寄せます。京都に入った継之助は「直ちに所司代の辞任すべき」と直言しますが、忠恭は「無責任だ」と拒否しました。

当時の京都では『倒幕運動』が盛んでしたが、幕府が倒れた後の日本が見えないと感じた継之助は『武装中立』に長岡の未来を託していたのです。

斬新すぎる継之助の考えは誰にも受け入れられず、時代の流れは『京都守護職』が復活される事となります。

笑われても怒鳴られても

所司代の上に置かれた守護職となった『松平容保(かたもり)』は、京都に巣食う過激な志士達を取り締まり実力を発揮します。それに比べ、停滞状況を続ける忠恭の所司代ぶりは他の大名らの嘲笑を買い、6月に所司代を辞任。代わりに江戸の防衛の任にあたりました。

しかし同年9月、忠恭は『老中』に任命され外国事務取扱いを命じられてしまいました。公用人に命じられ、共に江戸にいた継之助は「藩財政の疲弊」を理由に老中辞任を進言します。

この時、長岡藩の支藩である常陸(現・茨城県)笠間の藩主・牧野貞明が敬意を表すために老中宅に訪れました。継之助は忠恭の代わりに状況を説明しますが、牧野貞明は「不忠の臣だ」と怒鳴りつけます。負けじと継之助も怒鳴り返し持論をとうとうと述べ、ついには退席させられてしまいうのです。結局、牧野貞明に対する無礼の罪を謝するために、公用人を辞し帰国しました。

長岡の戻った継之助は、自宅に引き籠り庭の松の木を愛したそうです。ひときわ目立つ松の緑が庭全体に翳(かざ)りを与えているのを見て、自らを蒼き龍に例え『蒼龍窟(そうりゅうくつ)』と号しました。

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藩政改革実施

財政改革

1865年(慶応元年)藩主・牧野忠恭により河合継之助は郡奉行に命じられ、藩政改革に着手。毎年のように洪水を起こす、中ノ口川の改修工事を実施し年貢率を再検討。更に、河税や株の特権を廃止し長岡の街から贅沢の追放を目指します。

賄賂・賭博・遊郭を禁止し、背くものは逮捕されたため牢獄はたちまち一杯になってしまいました。そこで継之助は寄せ場を設置、罪人たちの宿場として使用し彼らに仕事を与えたのです。

罪人たちには一様に柿色の服を着用させ、一目で悪いことをした連中と分かるように区別し、町民の視線による罰を与えました。また寄せ場の出入りは自由でしたが、時間を守れないものは容赦なく処刑し本気であることを示したのです。

更に藩士の持高を改正します。百石を基準とし「多いものは下げ、少ないもの上げる」事により均等化を図り、同時に役職手当も細かく改正したのです。

軍制改革

従来の軍制では、家老や一般藩士などの身分と禄高によって、武具や率いる兵数などが定められていました。そして戦い方も一人ひとりの武士が刀や槍を振り回して、個人武芸を試し合うようなものだったようです。

今後の戦争では通用しないと悟っていた継之助は、組織的に動けるようフランス式の軍制を取り入れ、さらに装備を西洋式の銃火器に変更しました。藩兵たちは号令による演習に慣れるのに苦労したそうです。

1867年(慶応3年)藩主・牧野忠恭が隠居し、家督を継いだ忠訓(ただくに)により年寄役(金座の総取締)に命じられました。

戊辰戦争

鳥羽伏見から

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1867年(慶応3年)10月、14代将軍慶喜(よしのぶ)は大政を天皇に奉還をしました。これに対し、薩摩・長州ら討幕派は『王政復古の大号令』を出し徳川家から全てを奪い挑発します。忠訓と共に上洛した継之助は、武力衝突を避けるよう『建言書(けんげんしょ)』を作成し、藩主名代として御所の議定所に提出。しかし、権威を取り戻した公家たちには何も伝わりませんでした。

翌年1月、鳥羽・伏見において『新政府軍VS旧幕府軍』が衝突、戊辰戦争のはじまりです。近代兵器の前に旧幕府軍は敗走し、さらに慶喜が江戸へ逃亡したという知らせを聞いた継之助は、直ちに忠訓を帰国させ自身は江戸へ向かいます。

江戸へ到着した継之助は「いかに多くの金を手に入れるか」を考えました。そこで藩邸や家宝などを全て売却し数万両の金を手に入れ、米や銅銭を購入。そして米は北海道で、銅銭は新潟で売却し大きな利益を得ることに成功。その軍資金を使い外国武器商人から『アームストロング砲』や『ガトリング砲』、『ミニエー銃』などの最新兵器を購入し決戦に備えます。

当時、ガトリング砲は日本に3門しかありませんでしたが、2門を長岡藩が所持していたのです。

交渉決裂

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鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、朝敵となった会津藩・庄内藩の討伐のため北陸へと進軍し小千谷(おぢや)を占領。対する北陸諸藩は『奥羽列藩同盟(おううれっぱん)』を結成します。この時、新政府軍は長岡藩に「天皇に忠誠を誓い、兵員か金を差し出せ」と要求。恭順か交戦か藩論が分かれる中、継之助は藩主・忠訓により軍事総督に命じられました。帰国してすぐ家老上席に任命されていたので、いってみれば長岡藩の運命は全て継之助一身に託されたのです。

どちらについても戦闘は回避できません。あくまでも武装中立を貫こうとする継之助は、新政府軍軍監である岩村精一郎と『慈眼寺(じげんじ)』で会談に臨みます。

「官軍といいながら私的な制裁が目的ではないのか?王政を目指すなら慶喜、ならびに会津・庄内藩の賊の名を除き寛大な処置をすべき」と言い放ち、嘆願書を差出し大総督府に取り次ぐように申し出ました。

この正論に対し岩村は「兵も金も差し出さず時間稼ぎをして、軍備を整え我々を包囲するつもりだろう」と反論し、お互いが激昂し交渉は決裂。嘆願書も受け取ってはもらえませんでした。もはや新政府軍と戦うしか道はなくなり、長岡藩は同盟軍に参加を決意。

後年、岩村は「あの日の河井の態度は、非常に高圧的で論詰するような意気昂然たるものがあった。」と語っています。

咆哮する蒼き龍

1868年(慶応4年)5月10日、長岡兵1300名に対し、新政府軍はおよそ5000名の戦い

『北越戦争』が始まります。

継之助は集中突破からの包囲殲滅という、合理的な戦術と最新兵器を駆使し新政府軍と互角に戦いました。しかし19日に奇襲攻撃を受け長岡城は半日で落城し、さらには領民たちが人夫調達の撤回、米の払い下げを求めて大規模な一揆が発生してしまいます。藩を守るための戦いが、皮肉にも領民の離反を招いてしまったのです。6月26日に全てを鎮圧しましたが、減少した兵力の補充の手立てを失ってしまいます。

それでも蒼き龍は吠えました。長岡城の奪還に挑む継之助は、新政府軍の防衛ラインに攻撃を仕掛けて注意をひきつけます。その隙に、徒歩で渡るのは困難と思われていた沼沢地を別動隊を使い、夜陰に紛れて突破させ城の奪還に成功したのです。(八丁沖渡沼作戦)

これにより城内の長岡兵と、場外の列藩同盟兵軍で挟撃し殲滅することが可能となり、形勢逆転を狙います。

腰抜け武士の最後

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挟撃作戦に対する同盟軍の呼応が遅いと感じた継之助は、視察に出向いた所を狙撃されてしまい左膝に命中し重症を負います。(一説には奇襲作戦中に狙撃)

指揮官の負傷により長岡兵の士気は低下、さらに大勢を立て直した新政府軍の反撃の前に長岡城は再び陥落。板に乗せられなければ移動できない継之助は、会津へ向かう八十里峠を越える際に自嘲の句を詠みました。

「八十里、腰抜け武士の、越す峠」

会津領に入り只見村で休息中、医師である松本良順の診察を受けます。その時、良順が持参していきた牛肉を平らげたそうです。しかしこれは継之助の最後の強がりでした。すでに傷は破傷風により手遅れな状態だった継之助は、15日の夜、従僕の松蔵に火葬の支度を命じると労いの言葉をかけました。

翌16日の昼、談笑の後、眠りについた継之助は二度と目を覚ますことはなく42年の生涯を閉じたの。

夢は実現せず

人の意見を聞かず、我儘に自身の意見を曲げなかった継之助の心には『王道政治』という理想がありました。しかし長く続いた徳川幕府、それを倒した新政府軍は力と権力を駆使する『覇道政治』でしかなかったのです。だからこそ、彼は父母の心をもって、民のために仁と徳の政治を行うため藩政を改革し『武装中立』の道を選びました。

戦いに踏み切ったのは新政府軍を倒すためではなく、長岡の民を戦火から守るためです。しかし現実は、皮肉にも民の大規模な一揆という形で戦局は悪化し、多くの民が血を流してしまう事となりました。

いつの時代にも存在する「理想と現実の相剋」。それでも不可能と知りつつ、理想に到達しようとする人間の努力を教えてくれた河合継之助。歴史の中の小さな戦いで生きた、大きな男だったのではでないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

越後の蒼き龍『河合継之助』ラストサムライの生涯を幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説

長年続いた江戸幕府が終わりを告げる時、この国は『新政府VS旧幕府』に別れ戦ったんです。そんな中、どちらにもつかず中立の立場を貫こうとしたのが長岡藩です。

指導者として藩政を改革し、最後の戦いに挑んだ男『河合継之助(つぎのすけ)』の生き様を幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末の戊辰戦争において、新政府軍を苦戦させたラストサムライ『河合継之助』について詳しくまとめる。

小さな龍の成長過程

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我儘な少年だった

1827年(文政10年)父・河井代右衛門秋紀と母・さだのあいだに長男として、越後長岡(現・新潟中越北部から下越西部)に生まれました。幼少期は非常に腕白でいたずら者、さらに強情我儘の心が強く大人のいう事を聞かなかったそうです。

12歳になったころ文武の道に励み始めますが先生のいう事を真に受けず、しばしば反論しては困らせていたとの事。特に手を焼いたのは馬術の師である三浦治郎平です。教えは一切守らず勝手な乗り方をし、叱られると「乗り降りができて、思うように走らせればいい」と反論。困り果てた三浦は教えることを放棄してしまいました。

名臣への決意

1842年(天保13年)継之助は元服し秋義と名乗ります。河井家は代々通称として「代右衛門」を世襲しますが、彼は幼名である継之助を使い続けました。継之助は儒学者である『王陽明(おうようめい)』を尊敬していて、元服の翌年にニワトリを割いて王陽明をまつり、国家の干城(国を守る武士)となる事を誓ったのです。

20歳から23歳にかけての継之助は、儒学者や哲学者の語録などの写本に熱中していました。そして1850年(嘉永3年)24歳になった春、同藩の武士である梛野喜兵衛の妹『すが』と結婚。翌年、美濃出身の儒学者・佐藤一斎(いっさい)の『言志禄(げんしろく)』と出会い、これも写し切ります。そして、この本を読んだことが動機となり、藩に江戸留学を希望しました。

江戸で学んだこと

1852年(嘉永5年)江戸に上った継之助は、まず斎藤拙堂(せつどう)の門を叩きました。斎藤は才能ある継之助を愛し、普通の門人には滅多に出席を許さない『詩文の会』にも参加を許します。しかし継之助の志は政治であって詩ではなかったので、しばらくして斎藤の門から出ました。

その後、古賀謹一郎の久敬舎に入ります。古賀は国外に対する関心が深く情報を集め、対外問題についての見識を持っていました。そして弟子たちに「我が国における今日の急務は、火器・貿易・船舶である」と語り、継之助に影響を受けます。さらに久敬舎の書庫で『李忠定公集(りちゅうていこう)』を見つけ、この本を真の経済書と感じた彼は、取り憑かれたように写本したのです。

やがて古賀の所から、当時開明的な論を展開し、西洋砲術に明るいといわれていた佐久間象山(しょうざん)の門に入りました。写した李忠定公集を見せると佐久間は感動し、題字を書いてもらいます。しかし継之助は、佐久間の人柄が好きになれなかったようで、彼の許をすぐ去り長岡へ帰国しました。

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