今回は、篤姫を取り上げるぞ。幕末の薩摩から徳川将軍に嫁入りしたしっかりもののお姫さまです。義理の間柄の和宮との嫁姑問題とかもあったようですが、本当のところはどうだったのか知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。篤姫も大河ドラマになる前から注目していたほどで、今回も昔読んだ本を引っ張り出してネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1-1、篤姫は薩摩藩主島津家の分家の生まれ

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篤姫(あつひめ)は、天保6年12月19日(1836年2月5日)薩摩国鹿児島城下上竜尾町大竜寺馬場(現在の鹿児島県鹿児島市大竜町の区域にあたる)で誕生。篤姫は長女で、兄と弟、側室腹の妹がふたりいます。実父は薩摩藩主島津家一門の今和泉(いまいずみ)家の島津忠剛(ただたけ)で、母は島津久丙(ひさあき)の娘のお幸。薩摩藩9代藩主島津斉宣の孫にあたります。

1-2、篤姫の名前は

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幼名は一(かつ)、その後、市(いち)。
徳川将軍に嫁入りが決まった後、本家の藩主で従兄に当たる島津斉彬(なりあきら)の養女となったときに、源 篤子(みなもと の あつこ)、次に近衛忠煕(ただひろ)の養女となって、藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と改名。さらに近衛家養女となったことで公家の娘らしく呼び名が篤君(あつぎみ)に。
篤姫の名は、島津家から徳川家斉に嫁いだ広大院篤姫にあやかっての改名だそう。

2-1、篤姫、徳川将軍に嫁入りに至った経過とは

安政4年(1857年)の大老阿部正弘の死後に大老に就任した井伊直弼と斉彬らは、将軍継嗣問題で真っ向から対立。13代将軍家定が病弱でとうてい後継ぎが望めなかったため、伊達宗城(むねなり)ほかの四賢侯が水戸斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子の一橋慶喜を全面的にバックアップ。

斉彬は、正室が2人続けて若死にした家定の3番目の正室として篤姫を嫁がせて、水戸嫌いの大奥に慶喜を支持させようとし、さらに朝廷に請願して慶喜擁立の勅許まで得ようとしたのですね。
また、大奥の政治への影響はかなり大きいものだったので、島津家のメリットとして考えた場合も、家斉の正室だった島津家出身の広大院が亡くなった後の大奥への影響力を取り返す目的も持っていました。
具体的には、将軍の外戚となることで、薩摩藩が行っている琉球との密貿易問題などについて幕府の追及をやめさせたかったという話。

ということで斉彬の期待とは別に、幕府側としても、公家出身のひ弱な正室が次々亡くなった家定の後室、また大奥のトップとして、50人からの子沢山だった家定祖父の家斉正室が、薩摩出身の丈夫な広大院だったことを思い出して斉彬に打診してきたわけで、双方の想いが合致して篤姫の嫁入りが決定。
尚、大奥では、篤姫が島津藩主の実子ではなく分家出身ということで将軍とは身分が釣り合わない、側室扱いにしようという意見があり、慶喜の父水戸の斉昭も、斉彬が分家の娘という身分の低い女性を送り込むことについて、将軍家を軽んじているんじゃないかと書いた手紙が残っているなど、斉彬の思惑が先行していて四賢侯のグループが全面的に賛成というわけではなかったんですね。
しかし逆に考えれば、家柄よりも、いかに篤姫が聡明でしっかりした女性であったか、斉彬が自分の期待通りに将軍や大奥に対して影響力を発揮してくれると見込んだ人物であったかということでしょう。

\次のページで「2-2、篤姫、江戸城大奥へ」を解説!/

2-2、篤姫、江戸城大奥へ

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当時、斉彬には妙齢の娘がおらず、親戚を探して篤姫に白羽の矢が立ったのですが、前述のように将軍との結婚となると格式の問題があり、島津家の分家では釣り合いが取れないために本家の斉彬の養女になり、さらに京都の五摂家の近衛家の養女としてお輿入れに。
篤姫は、嘉永6年(1853年)8月21日に鹿児島を陸路出立して熊本を経由し、まず江戸の薩摩藩邸に入りました。すぐに大奥入りするわけではなく、篤姫は年寄りの幾島(篤姫の叔母の嫁ぎ先である京都近衛家に仕えた経験があり篤姫の教育係、後、大奥の重鎮に)に薩摩弁の訛りを直されたり、行儀作法とかもみっちり教え込まれ、斉彬に大奥の事情から次期将軍に慶喜擁立の重要性などを叩き込まれ、お妃教育ならぬ将軍の御台所教育を受けたはず。
そのして篤姫は、 安政3年(1856年)に右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女となり、いよいよその年の11月に13代将軍徳川家定の正室として大奥入りしました。
このとき篤姫20歳、お輿入れの行列は渋谷の薩摩藩邸(現常陸宮邸)から江戸城まで、先頭が城内に到着しても最後尾はまだ薩摩藩邸だったというすごさでした。

篤姫夫家定とは
13代将軍家定は、12代家慶のただ一人成人した息子ですが、今から推測するに脳性麻痺を患っていたらしく、就任直後から後継問題が浮上するほどの病弱で暗愚だったそう。幼少の頃から人前に出ることを極端に嫌い、乳母の歌橋という女性にしか心を開かなかったほどで、幕末の難局にあっても将軍としての指導力は期待できず。

また、カステラや饅頭などの菓子作りが趣味で、煮豆やふかし芋を作っては家臣たちに振る舞ったので、松平春嶽から「イモ公方」と呼ばれたことも
それと犬嫌いだったので、わんこ好きで狆を多頭飼いしていた篤姫は遠慮してにゃんこ飼いに転向したそう。

大奥の水戸嫌いとは
幕末の激動のご時世にしっかりとした将軍が必要ということで、徳川一門でも優秀な人物との呼び声高かった水戸斉昭の7男の一橋慶喜を将軍にという四賢侯の動きに反し、大奥では水戸嫌いが幅を利かせていました。

その理由とは、水戸藩主斉昭の兄で8代藩主斉脩(なりのぶ)は11代将軍家斉の娘峰姫と結婚したが、子供がないため、家斉や幕府のほうからは、大勢いる家斉の息子の一人を養子にして次の藩主にという目論見があり、水戸藩内でも将軍から養子を迎えれば幕府からの援助がもらえるのを見込んでの養子派と、部屋住みの斉昭擁立派の対立があったそう。この問題は若くして亡くなった斉脩(なりのぶ)の遺言で斉昭が9代藩主に決まり、お家騒動には発展しなかったものの、幕府というか将軍若君を養子に送り込めなかった大奥にも、しこりが残ったはず。

そして斉昭はかなりの女好きでしたが、兄嫁にあたる将軍息女の峰姫付きの上臈唐橋(からはし)に手を出したという事件が。唐橋はお手付き女中よりも位が上の上臈だったので、斉昭の行いがかなり非常識とされて、大奥の女性たちは大の水戸(斉昭)嫌いとなり、斉昭息子である慶喜擁立のネックとなっていたのですね。
大奥の影響力は表の老中らも手が出せないこともある強力なもので、後述するように大奥の権力者と水戸家の奥を牛耳る老女が姉妹というネットワークもありました。
また大奥居住者のなかでも将軍家定実母の本寿院は「慶喜殿が将軍になるならば、わらわは死を選ぶ」とまでおっしゃるほどで、大奥の年寄で実力者の瀧山もこれに賛同したというからたまりません。

2-3、篤姫、結婚わずか2年たらずで未亡人に

ところが、安政5年7月6日(1858年8月14日)に家定が35歳で急死し、同月16日(8月24日)には斉彬も49歳で急死。
将軍が亡くなると正室も側室も仏門に入り院号で呼ばれることになるので、篤姫は以後、天璋院(てんしょういん)と呼ばれ、引き続き江戸城大奥に前将軍御台所、大御台様として君臨することに。
しかし篤姫は斉彬の期待もむなしく、すっかり大奥に染まって一橋慶喜嫌いに。
篤姫付きの年寄りである教育係の幾島らは一橋慶喜派でしたが、篤姫は養父の近衛忠煕にも、宮中で慶喜を継嗣にするような工作を行わないでほしいと書状を出しているほど。
そして表の大老井伊直弼も、紀州藩主で父が御三卿清水家の出身の徳川慶福(よしとみ)を後継者にと大老の地位を利用して強権を発動して反対派を弾圧、安政の大獄に。
その結果、13歳の慶福が14代将軍に就任、家茂(いえもち)と改名。
尚、島津家は家定死後、篤姫に薩摩帰国を申し出たけれど、篤姫は江戸で暮らすことを選んで、その後も鹿児島に帰ることはありませんでした。

2-4、和宮が14歳将軍家茂夫人として大奥入り

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文久2年(1862年)公武合体の政策の一環として、孝明天皇の妹である和宮親子内親王が、14代将軍家茂と結婚することに。

和宮は家茂とは同い年(しかも閏5月の同じ月生まれ)で夫婦仲はとても良かったということですが、内親王の位を持った将軍御台所は和宮が初、身分制度がうるさい時代なので、征夷大将軍の家茂の位よりも和宮の方が位が高いことになるなど、いろいろややこしいことになったのですね。
そして篤姫は名目上は家茂の義母に当たる(年は10歳年上なだけ)ので、和宮は嫁となり、大奥では世紀の嫁姑バトルが起こることになったのです

\次のページで「3-1、和宮との大奥バトル」を解説!/

3-1、和宮との大奥バトル

これは篤姫と和宮が正面切っていがみ合い、喧嘩をしたのではなく、彼女らに仕える上臈から中臈、お末までの1000人とも3000人とも言われる奥女中たちが関わったことでややこしくなった、派閥争いみたいなものだったのではないでしょうか。

3-2、なんと大奥取り締まりのひとりは和宮の大叔母

和宮は公家出身の実母橋本観行院と共にお輿入れしましたが、大奥にはすでにこの和宮の母の叔母に当たる姉小路という上臈が幅を利かせていました。
姉小路は公家の橋本家出身で、妹は水戸徳川家の奥に勤める老女花野井、橋本姉妹は頻繁な手紙などのやり取りをしていたということで、もちろん、和宮降嫁の交渉役を務め、江戸下向を嫌がる和宮を説得に当たったほどの公武合体の政略結婚の立役者。

将軍の姫君が大名家へお輿入れするときは、大奥の上臈や乳母や多くの女中を連れて行くものだし、公家の姫君が将軍家へというときも、側仕えの公家の娘が上臈となって付いて行くもの、そういう理由で、自然と大奥には公家や他の大名家とのネットワークが出来上がっていたので、表の老中たちも大奥の女性たちの意向を無視できないことになるのですね。
維新後の最晩年の徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」には、なんで慶喜が将軍就任したくなかったかということについて述懐し、幕府の衰亡の兆しが見えていたこと、そして大奥について、「瀧山は実に恐るべきものにて実際老中以上の権力あり、ほとんど改革の手をつくべからず、これを引き受けるのは到底立ち直す事は難しい」とまで。
とにかく、和宮の大叔母に当たる女性が大奥を仕切っているひとりだったというのは、意外な事実だと思います。
また、この頃は他にも、13代家定実母の本寿院、14代家茂の実母の実成院(じつじょういん)もいて、篤姫対和宮という単純な対決ではないことがわかりますね。

3-3、京風と江戸風の対立

和宮は大奥入りする前から、江戸でも御所風の暮らしを要求していました。
そして将軍家御台所として、「御台様」と呼ばれるべきところを、「和宮さま」と呼べとご命令あそばしたのです。

最初の挨拶のときから、和宮から姑の篤姫へのプレゼントには、「天璋院へ」と呼び捨てで書いてあったとか、対面のときに、篤姫は会釈もせず、和宮にお座布団が出ていなかったとか、ちょっとしたことで相手へのリスペクトがないじゃないかと、ヒートアップ。はては、白足袋を履く大奥の女中たちに対し、御所風で和宮以下が素足で過ごすとか、座ったときの掌の置き方(江戸流は掌を付けるが、御所流は手の甲を)などの違いが、女性だけの世界では受け入れがたいことになったよう。
また、孝明天皇も和宮の要求が受け入れられていないと正式に抗議するなど、どんどん大事になっていったのですね。武家対公家、お互いに仕える御殿女中たちのライバル意識、尊王と佐幕の争いが大奥でもということかも。

3-4、14代家茂早世で15代慶喜が将軍に

大奥で江戸風と御所風の対決バトルが繰り広げられている間、江戸城の外では激動の幕末維新の時代がどんどん進行中だったわけですが、将軍家茂は、慶応2年7月にわずか20歳で大坂城で脚気のために亡くなりました。和宮は落飾して以後、静寛院宮と名乗ることに。
家茂は後継ぎとして、田安家の亀之助を指名したものの、まだ6歳と幼いため、未亡人となった和宮や篤姫が遺言に反して一橋慶喜が嫌々ながら15代将軍を継ぐことに。

慶喜は、百才あって一誠なし
慶喜は、前述のように父斉昭のせいで大奥で嫌われていたのですが、「権現様(家康)以来」と言われるほど頭が良いと評判でした。しかし、酔って暴言を吐くなど言ってはいけないことを言ってしまうとか、自分の意見をころころ変えるせいで、「百才あって一誠なし」とも言われていました。

色々な回想録を読んだり、大坂城からの逃亡などトップにあるまじき慶喜の行動を考えても、この人は自分を客観的に見れない、想像力に欠けているとしか思えず、アスペルガー症候群の疑いが濃厚に思えるほど。

そういうところが女性受けがしなかったようで、慶応2年(1866年)に将軍になりたての慶喜が大奥改革しようとしましたが、篤姫と和宮に徹底的に反対されるなど、大奥では嫌われていたこともあり、慶喜の奥方美賀子も一度も大奥入りすることなく明治維新に。

\次のページで「3-5、江戸城無血開城へ」を解説!/

3-5、江戸城無血開城へ

慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争となり、徳川将軍家が存亡の危機に立たされたとき、篤姫と和宮はそれぞれ縁故のある島津家、橋本家の伯父や従兄にあたる官軍の代表たちに嘆願書を送り、徳川家の家臣たちの救済と慶喜の助命に尽力しました。
そして江戸城無血開城となったとき、篤姫や和宮らはきれいさっぱり大奥を立ち退いたのでした。

4-1、明治維新後の篤姫

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江戸城を出た篤姫は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸に住み、宗家の16代を継いだ田安亀之助後の家達(いえさと)を育てました。家達に英才教育を受けさせたうえにイギリスに留学させ、家達の婚約者である近衛家の泰子(ひろこ)を訓育したり、大勢の大奥の女中だった女性たちの就職や結婚の面倒をみたりと、色々と世話を焼きつつ、規律の厳しい大奥とは違った自由な生活も楽しんだそう。
勝海舟は、篤姫に市井の生活をみせて、今の徳川家の財政を理解してもらう目的で、料亭や芝居見物などに連れ出したということです。吉原にまで出かけたというのがすごいですね。

また、篤姫は生活費に困っても島津家には頼らずに、あくまで徳川家の人間としてやりくりしたということですが、これは松平容保が明治後に尾張家を継がないかと兄の慶勝に言われたときに、「自分だけが苦労をかけた会津の人たちを捨てて他家に行くことはできない」と断ったのと同じく、篤姫も島津家に徳川家に仕えてくれた大奥の人たちの面倒を見てもらうわけにいかず、自分だけが島津家に帰るわけにもいかなかったのでしょう。

4-2、和宮とも仲良しに

勝海舟の「氷川清話」などによれば、ある日篤姫と和宮が勝邸を訪問、ぎこちなかったふたりが一緒の馬車で帰ってから打ち解けて仲良くおなりになったという回想話を残しています。
また、勝邸でお昼ご飯になったとき、篤姫と和宮がどちらが相手のご飯をよそうかでもめて(目下の立場の方が目上にご飯をよそうため、お互いが相手に対してへりくだった態度をあらわしたのですね)、勝がもう一つおしゃもじを取り寄せて、お互いがお互いのご飯をよそったという話は、何とも微笑ましいですね。
和宮は明治10年(1878年)に亡くなりますが、篤姫とも度々会っていたそう。
ただ、篤姫は明治後も相変わらず慶喜は嫌っていたということ。

明治16年(1883年)11月13日、篤姫は徳川宗家邸で脳溢血で倒れ、意識が回復しないまま、11月20日に49歳(満47歳9ヶ月15日)で死去。葬儀の際には沿道に1万人もの人々が集まったということです。
亡くなったとき、篤姫のお手元には6円(今の3万円)しかなかったという話は有名。

徳川将軍家の最後を締めくくった女性の総大将として名を残した篤姫

現代とは違い、昔の女性が自分の才能を生かして社会に貢献するのが難しかった時代、思いがけない運や美貌で数奇な運命を生きたり、父親や夫、息子の偉業の陰に隠れて貢献していた女性が多かったのですが、篤姫も思いがけず名君斉彬に認められて江戸城大奥入りしました。女性としての幸せを得られたかは疑問ですが、あの激動の時代に江戸城無血開城にも貢献し、その後も徳川宗家を守り、大奥に仕えた人たちの面倒を見続けるなど、与えられた地位にふさわしい役割を果たしました。表の総大将慶喜は放り投げて逃げ出したのに比べて、大奥の総大将は逃げなかった責任を全うしたということは忘れてならないと思います。

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幕末日本史歴史江戸時代

13代将軍家定の正室「篤姫」徳川家のために尽くした人生を歴女がわかりやすく解説

今回は、篤姫を取り上げるぞ。幕末の薩摩から徳川将軍に嫁入りしたしっかりもののお姫さまです。義理の間柄の和宮との嫁姑問題とかもあったようですが、本当のところはどうだったのか知りたいよな。

そのへんに昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。篤姫も大河ドラマになる前から注目していたほどで、今回も昔読んだ本を引っ張り出してネットで調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1-1、篤姫は薩摩藩主島津家の分家の生まれ

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篤姫(あつひめ)は、天保6年12月19日(1836年2月5日)薩摩国鹿児島城下上竜尾町大竜寺馬場(現在の鹿児島県鹿児島市大竜町の区域にあたる)で誕生。篤姫は長女で、兄と弟、側室腹の妹がふたりいます。実父は薩摩藩主島津家一門の今和泉(いまいずみ)家の島津忠剛(ただたけ)で、母は島津久丙(ひさあき)の娘のお幸。薩摩藩9代藩主島津斉宣の孫にあたります。

1-2、篤姫の名前は

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幼名は一(かつ)、その後、市(いち)。
徳川将軍に嫁入りが決まった後、本家の藩主で従兄に当たる島津斉彬(なりあきら)の養女となったときに、源 篤子(みなもと の あつこ)、次に近衛忠煕(ただひろ)の養女となって、藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と改名。さらに近衛家養女となったことで公家の娘らしく呼び名が篤君(あつぎみ)に。
篤姫の名は、島津家から徳川家斉に嫁いだ広大院篤姫にあやかっての改名だそう。

2-1、篤姫、徳川将軍に嫁入りに至った経過とは

安政4年(1857年)の大老阿部正弘の死後に大老に就任した井伊直弼と斉彬らは、将軍継嗣問題で真っ向から対立。13代将軍家定が病弱でとうてい後継ぎが望めなかったため、伊達宗城(むねなり)ほかの四賢侯が水戸斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子の一橋慶喜を全面的にバックアップ。

斉彬は、正室が2人続けて若死にした家定の3番目の正室として篤姫を嫁がせて、水戸嫌いの大奥に慶喜を支持させようとし、さらに朝廷に請願して慶喜擁立の勅許まで得ようとしたのですね。
また、大奥の政治への影響はかなり大きいものだったので、島津家のメリットとして考えた場合も、家斉の正室だった島津家出身の広大院が亡くなった後の大奥への影響力を取り返す目的も持っていました。
具体的には、将軍の外戚となることで、薩摩藩が行っている琉球との密貿易問題などについて幕府の追及をやめさせたかったという話。

ということで斉彬の期待とは別に、幕府側としても、公家出身のひ弱な正室が次々亡くなった家定の後室、また大奥のトップとして、50人からの子沢山だった家定祖父の家斉正室が、薩摩出身の丈夫な広大院だったことを思い出して斉彬に打診してきたわけで、双方の想いが合致して篤姫の嫁入りが決定。
尚、大奥では、篤姫が島津藩主の実子ではなく分家出身ということで将軍とは身分が釣り合わない、側室扱いにしようという意見があり、慶喜の父水戸の斉昭も、斉彬が分家の娘という身分の低い女性を送り込むことについて、将軍家を軽んじているんじゃないかと書いた手紙が残っているなど、斉彬の思惑が先行していて四賢侯のグループが全面的に賛成というわけではなかったんですね。
しかし逆に考えれば、家柄よりも、いかに篤姫が聡明でしっかりした女性であったか、斉彬が自分の期待通りに将軍や大奥に対して影響力を発揮してくれると見込んだ人物であったかということでしょう。

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