

しかし、1854年に日本が開国すると多くの外国人が訪れるようになり、そんな折に起こったのが生麦事件だ。今回、そんな生麦事件をいきさつから分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から生麦事件をわかりやすくまとめた。
ペリーの来航と鎖国の終わり
生麦事件が起こったのは1862年ですが、その10年前の1852年のこと、東インド艦隊司令長官に就任したアメリカの軍人・ペリーは、日本に対して開国の交渉を依頼する大統領の親書を手渡すように指示されました。そこでペリー日本に向けて出航、翌1853年に浦賀(神奈川県横須賀市東部)に入港します。
そして上陸すると、幕府の代表として現れた戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡しました。こうして開国を要求したペリーでしたが、結局その時点では具体的な協議は行われず、幕府からは結論を翌年に持ち越したいと猶予を求められます。
このため一旦引き返して琉球へと立ち寄りますが、翌1854年に7隻の軍艦を率いて横浜に現れると、開国を求めるペリーに対して日本は日米和親条約を締結させました。この条約締結によって日本は下田と箱館を開港、200年以上続いた鎖国体制が終焉を迎えたのでした。
日米修好通商条約の締結と外国人に対する不満
一方の日本は、長く鎖国体制を維持してきたことからペリーが来航した時は大混乱しました。そして開国したさらに4年後、今度は日本とアメリカとの間に日米修好通商条約が締結されますが、この条約は日本にとって不利なものであり、庶民の不満は高まっていきます。
その不満は日米修好通商条約を天皇に無許可で調印した幕府に対してはもちろん、外国・外国人に対しても向けられました。このため日本では外国人を追い払う攘夷の思想が広まり、さらに幕府に対する不信感から天皇による政治を望む声も生まれます。
天皇を尊ぶこと……それを「尊王」と呼び、外国人を追い払うこと……それを「攘夷」と呼び、それぞれの考えをあわせた思想を「尊王攘夷」と呼びました。つまり、日本人にとって外国・外国人は追い払うべき存在であり、攻撃対象でもあったのです。
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生麦事件が起こるいきさつとして覚えておくべきことは2つある。1つは開国によって日本に外国人が訪れるようになったこと、もう1つはそんな外国人達に対して日本人は敵意を持っていたことだ。
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