今日は薩英戦争について勉強していきます。鎌倉時代、室町時代、江戸幕府と振り返っていくと、歴史の中で多くの戦いが起こっているが、それらはいずれも国内の戦い……つまり内戦です。

しかし江戸時代に開国して以降、日本は外国と戦う機会も生まれてくる。そしてその一つが1863年の8月に起こった薩英戦争であり、今回、薩英戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩英戦争をわかりやすくまとめた。

薩英戦争と攘夷

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薩英戦争とは

薩英戦争は1863年に起こった戦争で、これは日本とイギリスではなく薩摩藩とイギリスによる戦いです。この戦争はわずか3日間で終わりましたが、珍しいのは結果として勝者も敗者もいなかったことで、「お互い勝ってもいないが負けてもいない」という決着となりました。

最も、当時のイギリス艦隊は世界最強と謳われており、それに対して一つの藩だけでイギリス相手に互角の戦いと繰り広げた薩摩藩は見事というしかないでしょう。実際、この戦争の結果でイギリスは薩摩藩を認め、また世界中に日本の力を知らしめることとなったのです。

薩英戦争は文字どおり薩摩藩とイギリスの戦争ですから、この戦いに幕府は一切関係ありません。このため、薩英戦争は日本の政治に影響を与えていないように思えますが、この戦いが後に薩摩藩の考えを変え、長州藩と同盟を結んで倒幕に向かっていくことになりました。

「攘夷」の排外思想が広まっていた日本

当時、外国人は日本人に嫌われる存在でした。これまで200年以上も鎖国体制を維持してきた日本でしたが、1853年のペリーによる黒船来航をきっかけに翌1854年に開国、さらに1858年には日本に不利な日米修好通商条約を締結させてしまいます。

このため日本は外国に良い印象を持っておらず、外国人を追い払って外国を撃退する攘夷と呼ばれる排外思想が広まっていたのです。多くの外国人が日本に住み、また外国との交流が盛んになっても攘夷の思想を持つ日本人は多く、治安は不安定で乱れた状態でした。

安政の大獄で攘夷派を弾圧してきた幕府もさすがにこれには対応し、番所や関所を設置するなどして警備体制を整えます。しかし、そんな最中1862年に外国人を殺傷する事件が勃発、これが生麦事件と呼ばれる事件であり、後に薩英戦争の引き金となるのでした。

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生麦事件と薩英戦争

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イギリス人を殺傷した生麦事件

現在の神奈川県の横浜市に位置する生麦村は、景色の美しさから外国人に人気の観光スポットになっていました。時は1862年、薩摩藩の最高権力者である島津久光は中央政界へ進出するため江戸に赴き、目的を果たしたため帰京しようと江戸を出発します。

そして東海道を帰京の途中、生麦村にて4人のイギリスの民間人に遭遇しました。島津久光は400人もの薩摩藩のお供を連れていましたが、イギリス人達は島津久光の大名行列に対して脇による素振りも見せずに進んできたのです。これは、当時においてマナー違反となる行為でした。

このイギリス人達の行為はマナーとして相当な無礼にあたり、そのため薩摩藩の藩士の一人が抜刀、イギリス人達の1人・チャールズリチャードソンを斬りつけて殺害します。1人は逃げたことで無傷、残り2人は斬りつけられて負傷、このイギリス人達への殺傷事件が生麦事件です。

生麦事件で怒るイギリスと薩英戦争の勃発

生麦事件の後、イギリスは幕府と薩摩藩に対して謝罪と賠償金の支払いを要求します。この時、幕府はイギリスに対して10万ポンドを支払っていますが、事件を起こした薩摩藩は謝罪も賠償金の支払いも拒否、イギリスは幕府に対して実行犯の差し出しを何度も要求してきました。

生麦事件は攘夷派の日本人からすれば賛辞を贈るべき出来事で、東海道筋の民衆は島津久光の行列を迎え、孝明天皇に至ってはわざわざお出ましして島津久光を称えたほどです。このため幕府もイギリスとの交渉に難航、ついにはイギリスが臨戦態勢に入ってしまいます。

1863年、軍艦7隻を鹿児島湾に入港されたイギリスに対して薩摩藩が砲撃、これによって薩摩藩とイギリスが衝突……薩英戦争が勃発しました。戦いは3日間続きますが、圧勝するかに思われたイギリスは思いのほか苦戦、薩摩藩以上に多くの死傷者を出す結果となったのです。

薩英戦争の結果とその後

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勝者も敗者もない薩英戦争

薩英戦争の勃発後、世界最強を謳うイギリス艦隊は薩摩藩の砲台を砲撃、さらに蒸気船も砲撃によって沈没させて薩摩藩を圧倒します。しかし、薩摩藩はこれに退くことなく反撃、悪天候も味方につけてイギリス艦隊を砲撃していきました。

結果イギリス艦隊の死傷者は60名以上に対して、薩摩藩は城下の一部が破壊されたものの死傷者は20名足らず、むしろイギリスの方が被害が大きい事態となったのです。これにはイギリス艦隊も撤退するしかなく、薩摩藩は世界最強のイギリス艦隊を見事退けました。

最も、撤退したとは言え、戦争の後にイギリスは幕府から謝罪と賠償金を受け取っていましたし、薩摩藩から見舞金も受け取っているため戦争に敗北とは言えません。一方、薩摩藩も生麦事件の実行犯を差し出していないためやはり敗北したとは言えず、お互い勝者にも敗者にもならなかったのです

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認め合う薩摩藩とイギリス

決着つかずに終わった薩英戦争でしたが、その後薩摩藩もイギリスも報復行為などを行うことはなく、それどころか意外にも交流が生まれます。取り決めを結び、戦争を止めて平和を回復するための講和交渉を通じてイギリスは薩摩藩を評価するようになったのです

一方、イギリスの軍事力の高さに感心した薩摩藩もイギリスを評価、お互い認め合ったことで薩摩藩とイギリスに友好関係が生まれました。これによって薩摩藩はイギリスから最新武器を購入できるようになり、藩の軍事力を高めたものの、外国の強さを思い知ったことで攘夷は不可能だと悟ったのです。

最も、薩摩藩は公武合体(朝廷と幕府が協力して行う政治)を思想としており、尊王攘夷(天皇を敬って外国を追い払う政治)の思想ではありませんでした。それでも薩摩藩の中には攘夷を掲げる者が多く、しかし薩英戦争によってその者達は攘夷を諦めることにしたのです。

攘夷の諦めから倒幕へ

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攘夷を諦めた薩摩藩は、公武合体の実現に向けて動いていました。1863年の末、朝廷の任命によって有力な大名経験者達から構成された合議制の会議、参与会議が開かれます。しかし、島津久光と徳川慶喜は会議においてたびたび衝突、参与会議は早くも行き詰ってしまったのでした。

結局、参与会議はたった数ヶ月で崩壊、薩摩藩・島津久光は長年追い求めていた公武合体の思想を断念、倒幕へとその考えを変えることにします。イギリスから最新武器を購入できる薩摩藩は、軍事力においては幕府に引けを取っていません。

問題は兵力で、いくら大きな藩とは言え幕府に戦いを挑むには兵力が足らず、そのため薩摩藩は少しでも仲間の数を増やしたいと考えていました。こうして薩英戦争を経て倒幕へと考えを変えた薩摩藩でしたが、実は同じ頃「ある藩」もまた倒幕を考えていたのです。

薩摩藩同様に倒幕を考えていた「ある藩」とは長州藩です。長州藩は尊王攘夷の考えを持っており、天皇中心の政治を思想としていました。つまり、長州藩は幕府中心の政治を望んでおらず、反幕府派であったため幕府にとって元々邪魔で厄介な存在だったのです。

そんな長州藩の尊王攘夷へのこだわりは異常なほど強く、あまりの過激さから孝明天皇も手を焼くほどでした。外国を怖れることなく攻撃し続ける長州藩でしたが、やがて報復を受けて壊滅寸前となり、外国の軍事力の高さを知った長州藩は薩摩藩同様に攘夷が不可能だと悟ります。

さらに長州藩にとって追い打ちとなったのが、1864年の禁門の変において朝敵となってしまったことでした。朝敵となったことで武器も購入できず、倒幕を考えるものの軍事力的にそれは不可能な状況だったのです。しかし、ここで「ある人物」が登場してこの状況を打破します。

薩長同盟の締結と薩英戦争のまとめ

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坂本竜馬の活躍で実現した薩長同盟

倒幕という同じ考えを持つことになった薩摩藩と長州藩でしたが、実はこの2つの藩はお互い犬猿の仲、何しろ長州藩が朝敵となった禁門の変において薩摩藩と長州藩は戦っているのです。そこで、貿易会社を挟む形で2つの藩の仲介役に回ったのが坂本竜馬でした。

まず、貿易会社を通じて武器を購入できない長州藩には薩摩藩の武器を売ります。そして、火山で米の生産がうまくいかない薩摩藩には長州藩の米を売りました。そうやって薩摩藩と長州藩の関係を修復していったのです。その甲斐あって1866年には薩長同盟によって薩摩藩と長州藩が同盟を締結するに至りました。

薩長同盟では、主にお互いの藩が危機に瀕した時にサポートし合うことが条文として定められており、直接的な倒幕実現に向けたものではありません。しかし、薩長同盟の締結は倒幕ムードを加速させることになり、倒幕実現の基盤を作ったことには違いないでしょう。

薩英戦争のまとめ

ペリーの黒船来航以来、日本は外国や外国人に対して敵意を見せていました。このため、外国人を排除する攘夷思想が高まり、そんな中薩摩藩は大名行列を邪魔されたという理由で4人のイギリス人を殺傷します。生麦村で起こったこの事件は生麦事件と呼ばれ、イギリスの怒りを買うことになりました。

生麦事件の起こった翌1863年、とうとう薩摩藩とイギリスによる戦争が勃発、これが薩英戦争です。世界最強を謳うイギリス艦隊でしたが薩摩藩は互角の戦いを繰り広げ、3日間に及ぶこの戦争は結局決着がつかず、勝者も敗者もありませんでした。

「どちらも勝ってはいないが負けてもいない」……これが薩英戦争の結果です。意外なのは、この戦争後に薩摩藩とイギリスが親しくなったことで、薩摩藩はイギリスの軍事力の高さを、一方イギリスは薩摩藩の力を認め、お互い友好関係を築くことになるのでした。

戦争そのものよりもその前後が大切

薩英戦争は「戦争」と名がついているものの、戊辰戦争ほど覚えることは多くありません。重要なのは戦争そのものより、戦争が起こった原因と戦争がもたらした影響でしょう。

原因を知ることで攘夷の意味をより深く理解できますし、戦争がもたらした影響を知ることで薩摩藩が攘夷を諦めた理由も理解できます。このため、薩英戦争は戦争前と戦争後をポイントとして覚えていきましょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末の歴史を変えた戦い「薩英戦争」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は薩英戦争について勉強していきます。鎌倉時代、室町時代、江戸幕府と振り返っていくと、歴史の中で多くの戦いが起こっているが、それらはいずれも国内の戦い……つまり内戦です。

しかし江戸時代に開国して以降、日本は外国と戦う機会も生まれてくる。そしてその一つが1863年の8月に起こった薩英戦争であり、今回、薩英戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩英戦争をわかりやすくまとめた。

薩英戦争と攘夷

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薩英戦争とは

薩英戦争は1863年に起こった戦争で、これは日本とイギリスではなく薩摩藩とイギリスによる戦いです。この戦争はわずか3日間で終わりましたが、珍しいのは結果として勝者も敗者もいなかったことで、「お互い勝ってもいないが負けてもいない」という決着となりました。

最も、当時のイギリス艦隊は世界最強と謳われており、それに対して一つの藩だけでイギリス相手に互角の戦いと繰り広げた薩摩藩は見事というしかないでしょう。実際、この戦争の結果でイギリスは薩摩藩を認め、また世界中に日本の力を知らしめることとなったのです。

薩英戦争は文字どおり薩摩藩とイギリスの戦争ですから、この戦いに幕府は一切関係ありません。このため、薩英戦争は日本の政治に影響を与えていないように思えますが、この戦いが後に薩摩藩の考えを変え、長州藩と同盟を結んで倒幕に向かっていくことになりました。

「攘夷」の排外思想が広まっていた日本

当時、外国人は日本人に嫌われる存在でした。これまで200年以上も鎖国体制を維持してきた日本でしたが、1853年のペリーによる黒船来航をきっかけに翌1854年に開国、さらに1858年には日本に不利な日米修好通商条約を締結させてしまいます。

このため日本は外国に良い印象を持っておらず、外国人を追い払って外国を撃退する攘夷と呼ばれる排外思想が広まっていたのです。多くの外国人が日本に住み、また外国との交流が盛んになっても攘夷の思想を持つ日本人は多く、治安は不安定で乱れた状態でした。

安政の大獄で攘夷派を弾圧してきた幕府もさすがにこれには対応し、番所や関所を設置するなどして警備体制を整えます。しかし、そんな最中1862年に外国人を殺傷する事件が勃発、これが生麦事件と呼ばれる事件であり、後に薩英戦争の引き金となるのでした。

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