「三枚舌外交」って聞くと、なんだかものすごく悪い感じがしないか?イギリスが20世紀の初めに中東で行った外交がそういう名前で呼ばれているらしのですが、外交で「三枚舌」っていうのはどういうことだと思う?現代にも続いている中東の問題とも、関係があるみたいです。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「三枚舌外交」について解説する。

三枚舌外交とは何か

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まずは三枚舌外交とは何なのか、その背景を詳しく見ていきましょう。

イギリスの中東政策

「三枚舌外交」というのは、第一次世界大戦のさなかにイギリスが展開した外交政策です。中東地域をめぐり、それぞれ異なる3つの約束を別の相手と交わしました。これらが矛盾しているとして、その後多くの問題を引き起こす原因とります。そのため、悪名高い「三枚舌外交」として知られているのです。

3つの約束とは、アラブ民族との間に結んだフサイン=マクマホン協定フランスとロシアとの間で結んだサイクス・ピコ協定、そしてユダヤ人に示したバルフォア宣言のこと。これらはそれぞれどのような約束で、なぜ矛盾していると言われるのでしょうか。

背景は第一次世界大戦

イギリスの三枚舌外交を理解するためには、時代背景を知っておかなければいけません。この外交が展開された当時、世界はヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次世界大戦のさなかでした。1914年から1918年にかけて続いたこの大戦は史上最悪の戦争のひとつとも言われ、イギリスももちろん中心的な国のひとつとして参戦しています。

第一次世界大戦において、イギリスは中東地域で開戦の直前にドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国と戦っていました。オスマン帝国とは、現在のトルコです。第一次世界大戦に敗れたあとに革命が起きて体制が転換されましたが、地中海近辺を中心として一時は広大な国土を誇っていたイスラム系の大帝国でした。

そんなオスマン帝国との戦いを有利に進めたいというイギリスの思惑から展開された外交が、結果として矛盾と言われる状況を引き起こしたのです。三枚舌外交の背景には、そうした事情があります。

アラブ人と締結したフサイン=マクマホン協定

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イギリスが結んだ3つの約束を、交わされた順番に見ていきましょう。最初はフサイン=マクマホン協定です。

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フサイン=マクマホン協定はどんな約束?

フサイン=マクマホン協定は、1915年10月にイギリスとアラブ人の間で結ばれました。これは、イスラム教の聖地であるマッカの長(シャリーフ)だったフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官だったヘンリー・マクマホンが交わした書簡の一部です。イギリスはアラブ人に対して、第一次世界大戦が終わったあとのアラブ人のオスマン帝国からの独立を支持すると約束します。

当時アラブ人はオスマン帝国の支配下にあり、独立を望んでいました。そしてイギリスは、オスマン帝国に対して有利に戦争を進めたいと考えています。そこでイギリスがアラブ人に対して、戦争が終わったあとにアラブ人が独立することを支持する代わりに、オスマン帝国に反乱を起こすことを求めたのです。オスマン帝国内で問題が生じれば、オスマン帝国はそちらに資源を割かなければいけなくなるため、イギリスは自国にとって有利になると画策しました。

協定を信じて反乱を起こしたアラブ人

イギリスと結んだフサイン=マクマホン協定に基づき、1916年、フサイン率いるアラブ人は実際にオスマン帝国に対して反乱を起こしました。「アラブの反乱」として知られています。アラブ側はイギリスの協力もあったため優勢に戦いを進めることができ、最終的にはオスマン帝国の軍隊に勝利。オスマン帝国の支配からの解放を実現しました。

この結果、フサインはダマスカスを首都としてアラブの統一国家であるヒジャーズ王国を建国します。このときフサインが頭に描いていたより広大なアラブ王国よりも、実際に建国したヒジャーズ王国は小さな領土でした。それは、サイクス・ピコ協定の存在があったからです。

大国間で結ばれたサイクス・ピコ協定

MPK1-426 Sykes Picot Agreement Map signed 8 May 1916.jpg
By Royal Geographical Society (Map), Mark Sykes & François Georges-Picot (Annotations) - This file is from the collections of The National Archives (United Kingdom), catalogued under document record MPK1/426. For high quality reproductions of any item from The National Archives collection please contact the image library., Public Domain, Link

続いては、イギリスが2つめに交わしたサイクス・ピコ協定について見ていきましょう。

サイクス・ピコ協定はどんな約束?

サイクス・ピコ協定は、1916年5月にイギリス・フランス・ロシアの間で結ばれました。イギリスの中東専門家だったマーク・サイクスとフランスの外交官だったフランソワ・ジョルジュ=ピコが交渉に携わったため、この名前で呼ばれています。

イギリス・フランス・ロシアの三国は、第一次世界大戦が終わったあとでオスマン帝国の領土を分割し、それぞれの勢力圏とすることを想定していました。そこでサイクス・ピコ協定では、領土をどう割り振るかを取り決めていたのです。イギリスは地中海とイランに挟まれた地域の南側、フランスはその北側、そしてロシアは黒海東南の沿岸部などの地域を勢力圏とすることが合意されました。また、パレスチナは国際管理地域とすることに決まりました。

ロシア革命による想定外の出来事

サイクス・ピコ協定はそもそも、イギリス・フランス・ロシアの間の密約でした。実際に取り決めが行われた地域に住むアラブ人を中心とした人々には、その内容はもちろん協定の存在も知らされていませんでした。

しかし、1917年にロシア革命が生じます。ロシア政府を転覆したソヴィエト政府は、世界中にサイクス・ピコ協定を暴露してしまうのです。サイクス・ピコ協定の存在を知り、広大なアラブ王国を想定していたフサインはその実現が不可能であることを知りました。また、秘密裏に勝手に結ばれていたこの協定は、当然アラブの人々の反感を買うこととなります。

ロシアが離脱したためこの協定で結ばれた内容がそのまま実現したわけではありませんが、1920年に開催されたサン・レモ会議でイギリスとフランスによる中東の分割が協議され、両国はこの中東地域を勢力圏とすることに成功しました。

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ユダヤ人と結ばれたバルフォア宣言

最後はバルフォア宣言についてです。

バルフォア宣言とはどんな約束?

イギリスが交わした3つ目の約束は、バルフォア宣言。第一次世界大戦も終盤に差し掛かっていたときのことでした。

1917年11月、イギリスの外務大臣だったアーサー・バルフォアが、ユダヤ系イギリス人の富豪ウォルター・ロスチャイルドに向けて書簡を送ります。この書簡でイギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人居住区の建設に賛同する旨を伝えたのです。当時ユダヤ世界では、故郷パレスチナにユダヤ人が安住できる国を建設しようというシオニズム運動がさかんとなっていました。バルフォア宣言は、イギリスがこの運動を支持するという表明だったのです。

なぜイギリスはユダヤ人に対して好意的な態度をとったのでしょうか。そこには、長引く戦争を受けて思いのほか出費がかさんでいたというというイギリスの厳しい財政事情がありました。ユダヤ世界には多くの資産家がいます。ユダヤ人の主張を尊重する意思を表明することで、彼らから財政的支援を引き出したいという思惑があったようです。

今に続くパレスチナ問題のきっかけに

イギリスからの支持も得たユダヤ人は、世界各地から次々とパレスチナの地へ移住してくるようになりました。ヨーロッパを中心にユダヤ人の排斥運動が高まってきたことも、その流れを加速させます。しかしユダヤ人が急増した影響で、もともとパレスチナの地に住んでいたアラブ人との衝突が生じるようになりました。先住のアラブ人にはイスラム教徒が多く、ユダヤ人とイスラム系アラブ人との対立は徐々に後戻りできないものとなっていきます。

その後、第二次世界大戦を経て、ユダヤ人はパレスチナにユダヤ国家のイスラエルを建国。ユダヤ人とアラブ人の対立は決定的となり、この後、中東の国々は泥沼化する中東戦争へと突入していくのです。そのきっかけとなった大きな出来事が、バルフォア宣言だったと言えるでしょう。

パレスチナでは古くから、イスラム教徒やユダヤ教徒など様々な宗教の人が暮らしていました。時には衝突もあったものの、基本的には隣人として共存していたのです。しかし、バルフォア宣言に見られるような第三国の介入により、人々のバランスが崩れてしまいました。現在にも続くパレスチナ問題を生み出した責任の一端は、当時のイギリスの外交政策にもあるのです。

三枚舌外交は「矛盾」していたのか

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イギリスが自国に有利な外交政策を繰り広げて中東情勢を混乱させたと言われる三枚舌外交ですが、実際のところ、何がどのくらい「矛盾」していたのでしょうか。まずはフサイン=マクマホン協定とサイクス・ピコ協定から見ていきましょう。

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「オスマン帝国からの」独立?

ソヴィエト政府によってサイクス・ピコ協定が暴露されると、フサイン=マクマホン協定でイギリスから独立を支持されたはずのアラブの人々は大きな不信感を抱きます。アラブが独立を想定していたはずの地域が、イギリスやフランスの勢力圏とされていたからです。同じ地域における「アラブ人の独立」と「大国の支配」という点に、人々は矛盾を感じました。

しかし、イギリスに好意的な立場からは別の見方をすることもできます。イギリスやフランスの影響下にはあったとしても、アラブはオスマン帝国の支配から逃れて独立を果たすことができる、という解釈です。協定で定められた領土の境界には一部あいまいな部分もありましたが、基本的にこの2つの協定はそれほど矛盾したものではないという意見もあります。

パレスチナはアラブ国家の範囲外?

次に、フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言について考えてみましょう。

イギリスは、アラブ人に対してもユダヤ人に対しても中東の地域での独立を支持すると約束しました。その後パレスチナの帰属争いが大きな問題に発展したこともあり、同じ地域における「アラブ人の独立」と「ユダヤ人の独立」は矛盾していると非難されることがよくあるのです。

しかし、実際にフサイン=マクマホン協定で想定されたアラブ国家の範囲には、パレスチナは含まれていなかったと考えられています。そのため、アラブ人とユダヤ人のそれぞれの独立について矛盾は生じないという見方もできるのです。またバルフォア宣言でイギリスは、ユダヤ人がパレスチナに入植することについて「先住民の権利を侵害しない限りにおいて」という前提条件を付けています。そのため、イスラム系アラブ人など現地に暮らす人々にも一定の配慮を見せてたと解釈することができるのです。

イギリスが支持したのはユダヤ人の「居住地」

最後に、サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言について考えてみましょう。

ユダヤ人は、バルフォア宣言によってイギリスから独立国家の建設を約束されたと考えていました。しかし建国の地となるはずのパレスチナが、サイクス・ピコ協定では国際管理地域として取り決められています。当然パレスチナの地における「ユダヤ人の独立国家建設」と「国際管理」が矛盾するとして、不平を抱く人もいました。

しかしイギリスの見解では、この2つの協定は互いに矛盾しているわけではありません。バルフォア宣言でイギリスが当面支持しているのは、ユダヤ人の居住地(National home)の建設だからです。バルフォア宣言には「ユダヤ国家」ではなく、「居住地」と記載されていました。パレスチナを国際管理しながら、同時にユダヤ人の居住地を建設することは可能です。そのため、サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言に矛盾はない、という解釈もできます。

現在にも残る三枚舌外交の影響

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矛盾していたのかそうでないのかは解釈によっても異なってきますが、どちらであったとしても、三枚舌外交の影響は今でも中東に色濃く残っています。

特に、アラブ人とユダヤ人がパレスチナの領有を争って多くの難民を生み出しているパレスチナ問題は、中東の難題のひとつ。中東戦争を引き起こし、複雑なパレスチナ問題を生み出した原因のひとつは、間違いなく第一次世界大戦中のイギリスの三枚舌外交でしょう。イギリスが中東から手を引いた今も、そこに住む人々は当時の外交政策に翻弄されているのです。

サイクス・ピコ協定で定められたイギリスとフランスの勢力範囲の一部は、現在の国境線にも影響を与えています。現地に住む人々の民族や宗教に関わらずに勝手に大国が引いた境界線は、パレスチナ問題以外にもいくつかの問題を生み出しました。例えば、クルド問題。独自の国家を持たない最大の民族とも言われるクルド人は、知らないうちに第三者に引かれていた国境線に翻弄され、今でも独立を求めて戦っているのです。

立場によって見方が変わる「三枚舌外交」!

イギリスが第一次世界大戦時に中東で繰り広げた「三枚舌外交」。現代にも残る様々な中東の問題を引き起こした原因として、非難されることが多い出来事です。たしかにイギリスは大国としての力を利用して、中東の人々を翻弄しました。自国に有利な状況をつくりだしたいという狙いもあったでしょう。しかし現在に残された手掛かりを読み解くと、もしかしたら本当に3つの協定はそこまで大きく矛盾してはいなかったのかもしれない、と捉えることもできます。イギリスの外交は許容される範囲内で、良くも悪くも一枚上手だったという可能性があるのです。

立場によって、そして誰に対して好意的に解釈するかによって、見え方は全く異なってきます。これは「三枚舌外交」だけでなく、ほかのどんな歴史上の出来事についても言えることです。歴史を学ぶ上では、ほとんどが「事実」ではなくて特定の立場から見た「主張」なのだと思った方がいいのかもしれません。「三枚舌外交」は、そんな教訓も教えてくれる歴史の一幕なのです。

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簡単でわかりやすいイギリスの「三枚舌外交」!中東にもたらした影響とは?国際政治を学ぶライターが詳しく解説

「三枚舌外交」って聞くと、なんだかものすごく悪い感じがしないか?イギリスが20世紀の初めに中東で行った外交がそういう名前で呼ばれているらしのですが、外交で「三枚舌」っていうのはどういうことだと思う?現代にも続いている中東の問題とも、関係があるみたいです。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「三枚舌外交」について解説する。

三枚舌外交とは何か

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まずは三枚舌外交とは何なのか、その背景を詳しく見ていきましょう。

イギリスの中東政策

「三枚舌外交」というのは、第一次世界大戦のさなかにイギリスが展開した外交政策です。中東地域をめぐり、それぞれ異なる3つの約束を別の相手と交わしました。これらが矛盾しているとして、その後多くの問題を引き起こす原因とります。そのため、悪名高い「三枚舌外交」として知られているのです。

3つの約束とは、アラブ民族との間に結んだフサイン=マクマホン協定フランスとロシアとの間で結んだサイクス・ピコ協定、そしてユダヤ人に示したバルフォア宣言のこと。これらはそれぞれどのような約束で、なぜ矛盾していると言われるのでしょうか。

背景は第一次世界大戦

イギリスの三枚舌外交を理解するためには、時代背景を知っておかなければいけません。この外交が展開された当時、世界はヨーロッパを中心に繰り広げられていた第一次世界大戦のさなかでした。1914年から1918年にかけて続いたこの大戦は史上最悪の戦争のひとつとも言われ、イギリスももちろん中心的な国のひとつとして参戦しています。

第一次世界大戦において、イギリスは中東地域で開戦の直前にドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国と戦っていました。オスマン帝国とは、現在のトルコです。第一次世界大戦に敗れたあとに革命が起きて体制が転換されましたが、地中海近辺を中心として一時は広大な国土を誇っていたイスラム系の大帝国でした。

そんなオスマン帝国との戦いを有利に進めたいというイギリスの思惑から展開された外交が、結果として矛盾と言われる状況を引き起こしたのです。三枚舌外交の背景には、そうした事情があります。

アラブ人と締結したフサイン=マクマホン協定

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イギリスが結んだ3つの約束を、交わされた順番に見ていきましょう。最初はフサイン=マクマホン協定です。

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