今回はルイ13世について紹介していきます。ルイ13世はブルボン王朝の君主で、父アンリ4世が亡くなった後に王位に就いた人物です。

じゃあここからはブルボン家に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説してくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した本を読み漁り、歴女ライフを満喫中。ここ最近はブルボン家に関する本を愛読中!そんなまぁこがフランス絶頂期の礎を築いたルイ13世について解説する。

ルイ13世とは?

image by iStockphoto

ルイ13世をご存知でしょうか。彼はフランス絶頂期の基礎を築いたブルボン朝2代目の王です。彼は宰相リシュリューを登用し、王権強化に努めました。また彼の息子は、太陽王として有名なルイ14世。今回はそんな王権強化を図ったルイ13世の生涯を解説していきたいと思います。

1-1 わずか9歳で王となったルイ

Louis XIII Richelieu devant La Rochelle.jpg
By 不明, Ecole française du xviie siècle - 不明, パブリック・ドメイン, Link

ルイ13世はわずか9歳で即位しました。これは父アンリ4世が暗殺されたため。ルイ13世が幼かったので、母のマリー・ド・メディシスが摂政となりました。

実権を握った彼女はイタリアから下級貴族のコンチーニを呼び、彼を重用しました。これに対してフランス国内ではイタリア人に国が乗っ取られるのではないかという声が上がる事態に。マリーは反プロテスタント政策や宿敵であるハプスブルク家との婚姻を結びました。夫アンリ4世が自身の信仰をくるくると変えたりナントの王令を出すなどして尽力した宗教に関する政策をマリーは無視したのです。この反プロテスタント政策によって国内は再び不安定な状態となることに。

1-2 息子ルイに追放された母マリー

ルイ13世が成人してからもマリーは摂政として政治を行います。ルイはそんな母に対して次第に不満が募り、反乱を起こしました。これによってコンチーニを暗殺し、母マリーはブロワ城に追放。その後、許されてパリへ戻ることができました。

一度息子ルイから追放されたマリー。再度戻ることを許されたマリーは自身がどれほどフランスに貢献したのかを示すため行動します。なんとルーベンスに自身のこれまでの人生を連作「マリー・ド・メディシスの生涯」を描かせたのです。その数20。かなりの大作ですよね。絵画では、マリーが女神に扮し彼女の生涯での重要なシーンを劇的にかつ、過剰ともいえる美化がされています。連作の「和解」では息子ルイとマリーがローマ神話のゼウスとヘラに扮して描かれていますが、実際にこの2人の仲を取り持ったのは宰相リシュリュー

1-3 うぬぼれ屋マリー

Peter Paul Rubens 049.jpg
By ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, Link

多くのマリーの連作を描いたルーベンス。特にマリーの生涯にとって重要なこの絵を見ていきましょう。

この絵は「サン・ドニ聖堂におけるマリー・ド・メディシスの戴冠式」です。夫のアンリ4世がパリを留守にするため、統治権をマリーが委譲されている場面。マリーが手を合わせて、冠が被せられるのを待っている瞬間が描かれていますね。マリーの人生にとってこの場面は最も輝かしい時。本来ならばマリーではなく神格化されるべきアンリ4世がマリーの奥に小さく描かれています。また左側に立って見つめている婦人は、アンリの前妻マルゴです。前妻をわざわざ登場させて自分の優位を示そうとするところやアンリの功績をたたえるのではなく自分の連作を依頼するところに、彼女のうぬぼれがよく表れています。ここまで自分を自画自賛している様子は少し滑稽ですね。

ところでなんとなくこの絵と同じような構図を目にしたという方もいるでしょう。そう、「ナポレオンの戴冠式」と同じ構図ですよね。これは作者ダヴィッドがルーベンスのこの絵をヒントにあの名画を描いたのです。

1-4 マリー、再び追放

母マリーを許したルイでしたが、またも母との確執が。マリーが懲りずに政治について口出ししてきたのです。しかもマリーは恩人のリシュリューを失脚させようと企んでいました。これによってルイはマリーを2度目の追放に。今回は誰も2人を仲裁しようとはしませんでした。こうして母マリーはコンピエーニュ城へ軟禁されることに。マリーは半年後に城を抜け出しますが、その後はパリに戻ることはなく、11年もの亡命生活の後亡くなりました。

\次のページで「2 ルイ13世の妃アンヌ」を解説!/

2 ルイ13世の妃アンヌ

母マリー・ド・メディシスの政策によって結婚することになったルイ13世とアンヌ・ドートリッシュ。この2人は同い年でした。1619年に結婚しますが、アンヌは流産してしまいなかなか子どもを授かることができませんでした。これにより二人の仲は険悪となります。果たして2人には子どもが生まれたのでしょうか。早速見ていきましょう。

2-1 ハプスブルク家の王女

アンヌ・ドートリッシュは、スペインからやって来た王女。彼女は白い肌に青い目を持っていました。そう、彼女はスイスの小さな豪族をルーツに持つハプスブルク家出身。そのため、スペイン人の血はほとんど入っていません。ちなみにドートリッシュは名前ではなく、オーストリアのアンヌという意味

後にフランスが参戦する三十年戦争では、アンヌは夫とスペイン王となった弟が争ったため苦しい思いをすることに。戦争を止めてほしい一心から弟に送った手紙にはなんとフランス軍の情報が載っていました。宰相リシュリューによってその手紙は押収され、アンヌはルイとリシュリューの前で説明し謝罪させられることに。

2-2 ルイとの不仲

アンヌの流産をきっかけに不仲となったルイ13世とアンヌ。これはルイ13世が男色だったため。ルイは沼地だったヴェルサイユの狩り小屋に若い男を招いていたと言います。ちなみにこの狩り小屋の場所には息子のルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てたことで有名ですよね。

世継ぎのために奮闘したルイでしたが、流産という結果に腹を立てたのでした。アンヌからすると、異国へ嫁いだためルイしか頼れる人物はいないという心細い状況でした。

2-3三銃士のモデルとなったアンヌ

アンヌにとっては苦しい時期が続きましたが、ここにきてスキャンダルが。アンヌはイギリスで最もハンサムと言われたバッキンガム公と恋に落ちました。それはイギリス王太子が非公式にフランスへ訪れたところから始まります。バッキンガム公は側近として同行し、宮廷舞台で演じたアンヌに一目惚れ。彼はアンヌに猛烈なアプローチをかけます。その2年後にアンヌとバッキンガム公は禁断の恋に身を投じました。

このことを知り、面白くないのはルイ。ルイ13世は、側についていなかったアンヌの女官を処罰。アンヌに対して冷たかったルイでしたが、他の男性にアンヌを取られたことに嫉妬したのでした。余談ですが、王妃アンヌは小説「三銃士」のモデルとして登場しています。

\次のページで「2-4奇跡の子、ルイ14世」を解説!/

2-4奇跡の子、ルイ14世

アンヌの流産から仮面夫婦となったルイ13世。国内でも半ば諦めムードでしたが、ついにアンヌは懐妊。この子は奇跡の子と言われました。しかしその子どもは本当にルイとの子どもだったのでしょうか。人々はアンヌの恋人マザランの子ではないかと噂するように。しかしルイが認知したため、子の子どもは2人の子と認められることに。

アンヌは30代後半に授かった我が子にたっぷりと愛情を注ぎ、親子の仲はとても良好。ルイ13世とその母マリーとは大違いですね。こうして太陽王、ルイ14世は誕生したのでした。

3 宰相リシュリュー

Richelieu, por Philippe de Champaigne (detalle).jpg
By フィリップ・ド・シャンパーニュ - National Gallery, London, パブリック・ドメイン, Link

リシュリューはルイ13世に仕えた宰相。そしてもう一つの顔がカトリックの聖職者でした。彼はフランスの王権強化に努め、抵抗する貴族や民衆を容赦なく弾圧しました。また当時ドイツで起こった宗教対立がきっかけとなった三十年戦争へも参戦することを決定。しかもカトリック側ではなく、プロテスタント側として戦ったのです。一体なぜそうしたのでしょうか。それではより詳しくリシュリューについて見ていきましょう。

3-1 手段を選ばなかったリシュリュー

宰相に任命されたリシュリューはかなりの実力者でした。リシュリューは国王をより偉大にさせ、フランス国家の繁栄を目指し、国内の改革をします。タイユ税と呼ばれる税金を導入し、貴族に課税。これによって王権の財源を確保し、同時に貴族の弱体化を狙います。そして中央から地方監察官を出向させ、地方行政をチェック。また農民に対しても税金をかけたため、反乱が多発する事態に。しかしリシュリューは容赦しませんでした。反抗する者は国家の敵とみなして徹底的に弾圧。このあまりの徹底ぶりにルイ13世も嫌ったとか。何度もリシュリューの追放を考えますが、リシュリューと同じ程の優秀な人物がいなかったため、そのまま続投させることに。

3-2 リシュリューが改革を進めた背景とは?

しかしなぜリシュリューはここまで徹底的に王権の強化を行ったのでしょうか。背景には当時の武器の進化が挙げられます。この頃の武器は火器が使われるように。次第に軍隊が大規模化していきます。他国に勝つには軍隊を強化しないといけない。しかし軍隊を強化するためには軍事力を支えられるほどの財力を持った国家が必要となったのです。これまでの社会では王の力は弱いものでした。それは王が絶対的な存在ではなく、たくさんいる王の中の一人にすぎないものでした。そのため、王の権力を強化していく必要があったのです。

3-3 国内のユグノー勢力を一掃するリシュリュー

Siege of La Rochelle 1881 Henri Motte 1846 1922.jpg
By Henri-Paul Motte - 投稿者自身による作品, World Imaging (talk), パブリック・ドメイン, Link

この絵はモットの「ラ・ロシェル攻囲戦におけるリシュリュー」。画面中央に立っている人物がリシュリューです。彼の服装はとても目を惹きますね。彼は聖職者が着る僧服と軍服を合わせて着用。これは少年時代から軍服に憧れていた表れです。とてもサマになっていますね。

さて絵画の状況ですが、フランス国内のユグノー勢力が王権を拒否し港町ラ・ロシェルで形成した共和国にリシュリューが容赦なく総攻撃を仕掛けているところです。冷酷なリシュリューらしいやり方ですね。ユグノー勢力にはイギリスが援助しており、画面に描かれている大きな槍のようなものはイギリス船除け。この攻防ですが、なんと1年以上にも亘って続くことに。そしてラ・ロシェルは陥落することになり、陥落後にリシュリューは三十年戦争にユグノー勢力側として参戦するのです。国内ではユグノー教徒を弾圧しているのに、国際戦争ではユグノー側を支援するという状況となりました。

\次のページで「3-4 そもそも三十年戦争とは?」を解説!/

3-4 そもそも三十年戦争とは?

そもそも三十年戦争とはどんな戦争だったのでしょうか?この戦争は1618年に宗教の対立から起こった戦争。これは神聖ローマ皇帝のフェルディナンド2世がオーストリアの属領であったベーメンにカトリック教徒の国王を任命しようとして、プロテスタント教徒が反抗したのがきっかけ。三十年戦争はカトリック教徒とプロテスタント教徒との戦争で最も長く最大規模の戦争でした。当初はカトリック教側にローマ皇帝、皇帝を支援するスペインとプロテスタント教徒側にデンマーク、スウェーデンなどが参戦。しかしフランスはプロテスタント教徒側のスウェーデンをひそかに援助していました。

3-5 ルイはなぜプロテスタント側に加勢したのか?

なぜルイ13世はプロテスタント教徒側のスウェーデンに援助をしたのでしょうか。それはこの戦争が単なる宗教戦争ではなかったから。もともとは宗教対立で起こった戦争でしたが、次第に領土の拡大やハプスブルク家の勢力を削ぐためなどの理由からプロテスタント教徒側に味方をしたのです。当初フランスはスウェーデンに援助するだけでしたが、スウェーデン国王グスタフ2世が戦死したため、ルイらは兵を投入して戦いに参加。

この戦いは1648年のウェストファリア条約にて終結を迎えます。プロテスタント教徒側の勝利でした。条約では、スウェーデンが北ドイツの領土を獲得。これによってバルト帝国を成立させます。またフランスはアルザスを獲得。そして敗者ハプスブルクは後退することに。ルイ13世やリシュリューの野望が叶った結果となりました。ちなみに戦場となったドイツは荒廃し、人口は激減することに。

3-6 主権国家とは何か?

ウェストファリア条約によってヨーロッパの国は主権国家が確立することになりました。ところで主権国家とはどういったものなのでしょうか。主権国家とは、国の領土がはっきりしており、そこに国王がいて国王が領土内を統治している状態のことです。主権国家が形成される前は、封建国家が形成されていました。封建国家では国王などは単に封建領主の1人に過ぎないものでした。日本の戦国時代の武将たちをイメージすると分かりやすいかもしれませんね。

こうして主権国家が形成され、その初めの頃は絶対王政が取られることに。絶対王政とは、王権を高めた国王が専制政治を行うこと。絶対王政になくてはならないものが、官僚と軍隊でした。この主権国家の形は今の近代国家の原型はこの時期に形づくられることに。

王権強化を図ったルイ13世とリシュリュー

母マリー・ド・メディシスとの政権争いから実の母を2度パリから追い出したルイ。困った母との政権争いはこれにて終結を迎えました。

そして母マリーが決めたスペイン・ハプスブルク家との結婚は、当時スペインと敵対していたのでかなり奇抜な策だったことが分かりますね。この結婚がアンヌにとって夫と弟が争うことになるため、かなり苦しい思いをしたんだろうと想像がつきます。

フランス国内では、宰相にリシュリューを起用して王権強化を図ったルイ。リシュリューは王家に反抗する者は容赦なく弾圧しました。そこまでするリシュリューの熱意はとても恐ろしいですね。そして宿敵ハプスブルク家の勢力をこれ以上拡大させないため、三十年戦争に兵を投じたルイ。彼の最期は病死で、ルイを追いかけるようにリシュリューもすぐに息を引き取ることに。

母との政権争いや妻アンヌとの不仲に悩まされたルイ13世。しかし彼はリシュリューと共にフランスの王権を強化し、後にフランスの絶頂期に貢献しました。

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フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史世界史歴史

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今回はルイ13世について紹介していきます。ルイ13世はブルボン王朝の君主で、父アンリ4世が亡くなった後に王位に就いた人物です。

じゃあここからはブルボン家に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説してくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した本を読み漁り、歴女ライフを満喫中。ここ最近はブルボン家に関する本を愛読中!そんなまぁこがフランス絶頂期の礎を築いたルイ13世について解説する。

ルイ13世とは?

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ルイ13世をご存知でしょうか。彼はフランス絶頂期の基礎を築いたブルボン朝2代目の王です。彼は宰相リシュリューを登用し、王権強化に努めました。また彼の息子は、太陽王として有名なルイ14世。今回はそんな王権強化を図ったルイ13世の生涯を解説していきたいと思います。

1-1 わずか9歳で王となったルイ

Louis XIII Richelieu devant La Rochelle.jpg
By 不明, Ecole française du xviie siècle不明, パブリック・ドメイン, Link

ルイ13世はわずか9歳で即位しました。これは父アンリ4世が暗殺されたため。ルイ13世が幼かったので、母のマリー・ド・メディシスが摂政となりました。

実権を握った彼女はイタリアから下級貴族のコンチーニを呼び、彼を重用しました。これに対してフランス国内ではイタリア人に国が乗っ取られるのではないかという声が上がる事態に。マリーは反プロテスタント政策や宿敵であるハプスブルク家との婚姻を結びました。夫アンリ4世が自身の信仰をくるくると変えたりナントの王令を出すなどして尽力した宗教に関する政策をマリーは無視したのです。この反プロテスタント政策によって国内は再び不安定な状態となることに。

1-2 息子ルイに追放された母マリー

ルイ13世が成人してからもマリーは摂政として政治を行います。ルイはそんな母に対して次第に不満が募り、反乱を起こしました。これによってコンチーニを暗殺し、母マリーはブロワ城に追放。その後、許されてパリへ戻ることができました。

一度息子ルイから追放されたマリー。再度戻ることを許されたマリーは自身がどれほどフランスに貢献したのかを示すため行動します。なんとルーベンスに自身のこれまでの人生を連作「マリー・ド・メディシスの生涯」を描かせたのです。その数20。かなりの大作ですよね。絵画では、マリーが女神に扮し彼女の生涯での重要なシーンを劇的にかつ、過剰ともいえる美化がされています。連作の「和解」では息子ルイとマリーがローマ神話のゼウスとヘラに扮して描かれていますが、実際にこの2人の仲を取り持ったのは宰相リシュリュー

1-3 うぬぼれ屋マリー

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By ピーテル・パウル・ルーベンス – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, Link

多くのマリーの連作を描いたルーベンス。特にマリーの生涯にとって重要なこの絵を見ていきましょう。

この絵は「サン・ドニ聖堂におけるマリー・ド・メディシスの戴冠式」です。夫のアンリ4世がパリを留守にするため、統治権をマリーが委譲されている場面。マリーが手を合わせて、冠が被せられるのを待っている瞬間が描かれていますね。マリーの人生にとってこの場面は最も輝かしい時。本来ならばマリーではなく神格化されるべきアンリ4世がマリーの奥に小さく描かれています。また左側に立って見つめている婦人は、アンリの前妻マルゴです。前妻をわざわざ登場させて自分の優位を示そうとするところやアンリの功績をたたえるのではなく自分の連作を依頼するところに、彼女のうぬぼれがよく表れています。ここまで自分を自画自賛している様子は少し滑稽ですね。

ところでなんとなくこの絵と同じような構図を目にしたという方もいるでしょう。そう、「ナポレオンの戴冠式」と同じ構図ですよね。これは作者ダヴィッドがルーベンスのこの絵をヒントにあの名画を描いたのです。

1-4 マリー、再び追放

母マリーを許したルイでしたが、またも母との確執が。マリーが懲りずに政治について口出ししてきたのです。しかもマリーは恩人のリシュリューを失脚させようと企んでいました。これによってルイはマリーを2度目の追放に。今回は誰も2人を仲裁しようとはしませんでした。こうして母マリーはコンピエーニュ城へ軟禁されることに。マリーは半年後に城を抜け出しますが、その後はパリに戻ることはなく、11年もの亡命生活の後亡くなりました。

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