ときおりアメリカのニュースで耳にするのが「クー・クラックス・クラン KKK」。あやしい白装束に身をまとう不思議な集団です。この集団は白人至上主義という立場をとり、激しい人種差別と過激な行動を起こしてきたことで知られる。アメリカで根強い人種差別に対し、元黒人奴隷であったアフリカ系アメリカ人は戦いを挑んできた。

それじゃ、「クー・クラックス・クラン KKK」の思想や活動、同時に展開されたアフリカ系アメリカ人の公民権運動の流れについて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき人種差別の問題を避けて通ることはできない。「クー・クラックス・クラン KKK」は、奴隷制度から派生する人種差別の歴史と密接に結びついている。そこで、「クー・クラックス・クラン KKK」をキーワードに、アメリカの人種差別の歴史と公民権運動の高まりの流れをまとめてみた。

「クー・クラックス・クラン KKK」とはどのような組織?

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日本で耳にすることがほとんどないKKK。南北戦争後、解放された元黒人奴隷に対する人種差別を展開した組織です。とくに20世紀転換期に大きな影響を持ちましたが、現在はアメリカの「負の歴史」のような位置づけとなっています。

奴隷制度の影響が色濃いアメリカ南部で組織化

奴隷制度をめぐりアメリカは2つに分裂した状態となりました。それが1861年から1865年にかけて勃発した南北戦争です。南部に住む人々は広大なプランテーションを維持するために奴隷制度を支持。しかし敗北したことで奴隷は解放されました。

そのような時期につくられたのがKKK。南北戦争を戦った元軍人を中心に組織されました。敗北後の南部の人々は、プランテーションを維持できずに経済的困窮。このような状況の反動から元奴隷の黒人を敵視するようになり、リンチ活動が展開されます。

白人至上主義にもとづく独自の経典と儀式をもつ秘密結社

KKKを特徴づけるのが白い装束。もともとカーテンをかぶったことが起源のようです。メンバーが増えるにしたがい、独自の儀礼や位階を整えて、秘密結社としての規模を拡大させていきます。

KKKの思想は排他的なもの。過剰なまでの白人至上主義がとられ、とくに「北方人種(ノルディック)」の優位性を主張します。一方、元奴隷である黒人は白人の「純血」をおびやかす存在であるとみなして徹底的に排除しました。

「クー・クラックス・クラン KKK」の第1次ブームが沈静化した理由は?

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By KAMiKAZOW, CC BY 2.5, Link

南北戦争における北部の立場は奴隷解放であるため、人種差別は完全に撤廃されたと思われがち。しかし実際は、アメリカ南部を中心に人種差別的な隔離政策が継続。KKKが戦う意味が徐々になくなっていきます。

南部では「ジム・クロウ法」が制定される

南北戦争のあといちど人種隔離政策は廃止されます。しかし北部側である連邦政府の干渉は縮小。アメリカ南部では隔離政策を復活させる州がそくぞくと出てきます。それが「ジム・クロウ法」と呼ばれるものでした。

「ジム・クロウ法」とは公共の場を黒人が使うことを禁止するもの。レストランや公共の乗り物などが「白人専用」と「黒人専用」と区別されました。つまり人種隔離が合法。結果、黒人は脅威ではなくなり、KKKが排除する理由がなくなっていきます。

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指導者ネイサン・ベッドフォード・フォレストの脱退と組織の脆弱化

指導者であったネイサン・ベッドフォード・フォレストは、1867年に開催された大規模あ大会でグランド・ウィザードの称号を得ます。これは実質的にKKKのトップとなること。この時期にKKKの勢いはピークに達するに至りました。

しかし、フォレスト自身は過激化するKKKの傾向に疑問を持つように。資質がある黒人は社会進出することを認めるようになります。最終的にフォレストはKKKの解散を宣言。フォレスト抜きでKKKは継続しますが、勢いを失い自然消滅するに至ります。

20世紀初頭に公民権運動の萌芽が見られる

Hundreds of African Americans peacefully parading down 5th avenue in New York, holding signs of protest
By Unknown - NY Public Library http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchdetail.cfm?trg=1&strucID=569258&imageID=1228870, Public Domain, Link

南北戦争後に奴隷解放が行われたものの、黒人を取り巻く環境は向上しませんでした。とはいえ、優秀な人を経済支援する白人もおり、そこから地位向上運動のリーダーとなるアフリカ系の知識人が出現します。

手に職を持つことの大切さを説いたブッカー・T・ワシントン

ブッカー・T・ワシントンはアフリカ系の教育学者。奴隷という立場でしたが南北戦争後に開放、それから学問を道を深めていきます。白人の富裕層の支援を受ける機会があったことから、元奴隷の地位を向上させるために「技能」を身に着けることの重要性を説きました。

彼によると、家を建てる技能を持つことで白人社会との接触が生まれます。その技能が優れていれば有益な存在として評価。それにより白人社会のなかで地位が得られるという考えでした。そして、アフリカ系の職業訓練学校の校長として自身の理念を実行に移していきます。

黒人の組織化を目指したW・E・B・デュボイス

ブッカー・T・ワシントンは白人迎合主義であると批判する立場も出現。黒人のアイデンティティを確立することを訴えたのがW・E・B・デュボイスです。彼は、アフリカ系アメリカ人の運動家と位置づけられますが、厳密にはハイチ系アメリカ人でした。

W・E・B・デュボイスは、黒人は「アメリカ」と「アフリカ」の狭間にある存在と主張。この「二重性」こそがアフリカ系アメリカ人の本質であると考えました。彼は全米黒人地位向上協会を創立すると共に、アフリカルーツの人々の連携をとなえ、世界中で講演活動を行いました。

第一次世界大戦は「クー・クラックス・クラン KKK」を愛国団体に変える

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By Fransuraci - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

第一次世界大戦が勃発すると、アフリカ系アメリカ人が従軍することになります。そこから「アメリカ国民」としての貢献が指摘されるように。その反動としてKKKは排他色を強め、愛国的な団体として存在感を回復させます

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「クー・クラックス・クラン KKK」の後ろ盾をなる政治家も出現

KKKは、アフリカ系のみならずイスラム系、ユダヤ系も排除の対象としていきます。このような流れのなかで、保守傾向が強かった南部を中心にKKKを支持する政治家が勢力を増しました。

南部の保守層の支持を得るためにKKKが利用された面もあります。しかし、実際にKKKのメンバーとして活動していた政治家もいました。第33代大統領となるトルーマンは元KKKのメンバーであったことが知られています。

D・W・グリフィスの「国民の創生」は「クー・クラックス・クラン KKK」を英雄化

第一次世界大戦期に製作された「国民の創生」(1915)はハリウッド映画の誕生の瞬間として歴史化されています。実は「国民の創生」のテーマはKKK。白人女性が元黒人奴隷にレイプされそうになり、KKKが救出に向かうというものです。

その映画は、元黒人奴隷の恐怖にふるえる南部の町をKKKが救うというスタンス。KKK=英雄として位置づけられました。映画のエンディングは、白装束に身を包んだKKKの隊列が南部の町を行進するというものです。

低迷と分裂を繰り返す「クー・クラックス・クラン KKK」

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By Underwood & Underwood - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3b12355. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

第一次世界大戦による愛国的気運が高まるなかKKKの存在感が増しますが、1920年代半ばになると、勢いがどんどんなくなっていきます。とくに指導者の性犯罪はKKKに対する信頼を一気におとすことになりました。

指導者の性犯罪により信頼を失う

KKKの指導者的立場にあったのがデビッド・カーチス・スティーブンソン。彼が女性教師を拉致し、お酒を無理やり飲ませて強姦しました。その後、女性は精神的なショックから薬を大量に服薬し、自殺を図ります。

薬の影響により手遅れの状態になった女性は、亡くなる前にスティーブンソンの行いを告発しました。その後、女性は腎不全で亡くなるものの、その訴えが認められ、終身刑が言い渡されます。

政治家との癒着も露呈することに

KKKが勢いがなくなることで、南部にはびこっていた政治家との癒着がどんどん露呈するように。スティーブンソンのサポートにより当選したインディアナ州の知事が、終身刑を覆さなかったことにより、わいろが暴露されます。

わいろを受け取っていたのは州知事および州職員。それにより批判が高まったことをうけ、インディアナ州はKKKの影響力を排除するようになります。州知事の買収容疑も追及され、政治家に対する信頼がゆらぐ結果となりました。

\次のページで「キング牧師の登場と公民権運動の加速」を解説!/

キング牧師の登場と公民権運動の加速

Civil Rights March on Washington, D.C. (Dr. Martin Luther King, Jr. and Mathew Ahmann in a crowd.) - NARA - 542015 - Restoration.jpg
By Rowland Scherman - U.S. National Archives and Records Administration, Public Domain, Link

その後、KKKの思想を受け継ぐ人々は存在するものの組織としては消えていきます。それに代わるようにアメリカ国内ではキング牧師を中心とする公民権運動が加速。「黒人」とされていた人々が「アフリカ系アメリカ人」として法的に位置づけられていきます。

バスボイコット運動からワシントン大行進まで

1955年、黒人女性が黒人専用席に座っていたにもかかわらず席の移動を強要されました。それを拒否した女性は逮捕。この濡れ衣の事件をきっかけに、マーティン・ルーサー・キング牧師が中心となり、バスをボイコットする呼びかけを開始します

「人種分離法」は憲法に違反しているという判決がでました。1963年8月28日、人種差別・隔離を反対する20万人が集結。ワシントンD.C.にて「ワシントン大行進」が行われました。 

ジョン・F・ケネディ政権による人種隔離法の撤廃

1960年、民主党のジョン・F・ケネディ政権が生まれます。ケネディ政権には、アフリカ系を含む有色人種がおらず、批判されることはありました。しかし、人種差別・隔離に対しては前向きな対応を進めていきます

南部の州で定着していた人種隔離を正当化する「ジム・クロウ法」を禁止。南北戦争後から続いてきた法律が廃止されました。その後、ケネディは暗殺されますが、公民権法を制定する流れが続きます。

「クー・クラックス・クラン KKK」の思想は過去のものではない

KKKが実際に影響力を発揮した時期は限られたものでした。しかし、現在のアメリカでは、移民に対する排他的意識がたびたび高まるなど、KKKと重なり合う動きが出てくることがあります。公民権法の制定により「法的な差別」は撤廃。しかし、社会的な面で差別が残っていること踏まえながら、現在のニュースを見ていくことが大切になります。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

「クー・クラックス・クラン KKK」の白人至上主義とは?公民権運動の歴史と共に元大学教員がわかりやすく解説

ときおりアメリカのニュースで耳にするのが「クー・クラックス・クラン KKK」。あやしい白装束に身をまとう不思議な集団です。この集団は白人至上主義という立場をとり、激しい人種差別と過激な行動を起こしてきたことで知られる。アメリカで根強い人種差別に対し、元黒人奴隷であったアフリカ系アメリカ人は戦いを挑んできた。

それじゃ、「クー・クラックス・クラン KKK」の思想や活動、同時に展開されたアフリカ系アメリカ人の公民権運動の流れについて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき人種差別の問題を避けて通ることはできない。「クー・クラックス・クラン KKK」は、奴隷制度から派生する人種差別の歴史と密接に結びついている。そこで、「クー・クラックス・クラン KKK」をキーワードに、アメリカの人種差別の歴史と公民権運動の高まりの流れをまとめてみた。

「クー・クラックス・クラン KKK」とはどのような組織?

image by PIXTA / 12213921

日本で耳にすることがほとんどないKKK。南北戦争後、解放された元黒人奴隷に対する人種差別を展開した組織です。とくに20世紀転換期に大きな影響を持ちましたが、現在はアメリカの「負の歴史」のような位置づけとなっています。

奴隷制度の影響が色濃いアメリカ南部で組織化

奴隷制度をめぐりアメリカは2つに分裂した状態となりました。それが1861年から1865年にかけて勃発した南北戦争です。南部に住む人々は広大なプランテーションを維持するために奴隷制度を支持。しかし敗北したことで奴隷は解放されました。

そのような時期につくられたのがKKK。南北戦争を戦った元軍人を中心に組織されました。敗北後の南部の人々は、プランテーションを維持できずに経済的困窮。このような状況の反動から元奴隷の黒人を敵視するようになり、リンチ活動が展開されます。

白人至上主義にもとづく独自の経典と儀式をもつ秘密結社

KKKを特徴づけるのが白い装束。もともとカーテンをかぶったことが起源のようです。メンバーが増えるにしたがい、独自の儀礼や位階を整えて、秘密結社としての規模を拡大させていきます。

KKKの思想は排他的なもの。過剰なまでの白人至上主義がとられ、とくに「北方人種(ノルディック)」の優位性を主張します。一方、元奴隷である黒人は白人の「純血」をおびやかす存在であるとみなして徹底的に排除しました。

「クー・クラックス・クラン KKK」の第1次ブームが沈静化した理由は?

南北戦争における北部の立場は奴隷解放であるため、人種差別は完全に撤廃されたと思われがち。しかし実際は、アメリカ南部を中心に人種差別的な隔離政策が継続。KKKが戦う意味が徐々になくなっていきます。

南部では「ジム・クロウ法」が制定される

南北戦争のあといちど人種隔離政策は廃止されます。しかし北部側である連邦政府の干渉は縮小。アメリカ南部では隔離政策を復活させる州がそくぞくと出てきます。それが「ジム・クロウ法」と呼ばれるものでした。

「ジム・クロウ法」とは公共の場を黒人が使うことを禁止するもの。レストランや公共の乗り物などが「白人専用」と「黒人専用」と区別されました。つまり人種隔離が合法。結果、黒人は脅威ではなくなり、KKKが排除する理由がなくなっていきます。

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