安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

安芸の賢人「小早川隆景」を戦国通のサラリーマンが分かりやすくわかりやすく解説

織田と対立

中国制覇を成し遂げるも、次なる敵が織田信長と羽柴秀吉でした。尼子残党兵が秀吉らの援軍得て勢いが増してきます。そして織田勢力に悩まされていきました。若輩の当主輝元を支えながら両川体制を更に強めていきます。

将軍足利義昭を擁護し織田勢力を攻撃

1571年に元就が亡くなり、幕府を追放された足利義昭を擁護した毛利家と織田家が対立が激化。追放されても将軍としての官職を持っていた義昭は、幕府再興のため各地の大名に書状を出して信長を討伐する指令をあたえます。包囲網の勢力として、上杉氏・武田氏・石山本願寺らが参加。中心的存在だった、石山本願寺は毛利家に援助を求めました。

援助要請を受けた毛利軍は、小早川水軍を中心として木津川口で九鬼水軍と激突するも焙烙玉などのおかげで見事撃退し石山本願寺へ兵糧や武器などの搬入に成功します。しかし、兵糧を送り続けることができていましたが、1578年6月に九鬼水軍が焙烙玉が通じない鉄甲船六隻で木津川口で再び衝突。

大筒の攻撃力には太刀打ちできず小早川水軍は撤退した直後に上杉謙信が病死し、石山本願寺は信長と和睦。包囲網が崩れてしまいました。

次第に追い詰められる

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味方勢が秀吉によって攻め落とれていき、石山本願寺が和睦する前に宇喜多秀家が織田方に寝返り一層困難な状況になります。播磨国の要だった三木城も陥落し吉川一門で武勇に秀でた経家が鳥取城にて籠城するも、秀吉の策で近隣の米が買い荒らされてしまい城内は餓死者が多数となり降伏を申し出て経家は自刃。

その後、備中高松城にて隆景配下の清水宗治が籠城し秀吉らの攻撃に耐え忍んでいました。ここを救援するべく隆景と元春の軍勢三万を高松城に向け進軍。兵は拮抗していましたが、長篠の戦いで武田勝頼を滅ぼした織田主軍が高松城に向けて進軍している情報を得ました。

高松城が水攻めされたことと兵力差で勝てないと踏んだ隆景は、秘密裏に安国寺恵瓊を使者として織田方との和睦を進めていきます。しかし、隆景が提示した要求を呑んでくれない秀吉でした。

窮地を脱する毛利家

隆景が提示した条件は、五ヵ国と城兵の安全でしたが、秀吉からは五ヵ国と高松城主清水宗治の切腹といわれ兵を失いたくない隆景は恵瓊に宗治の説得に向かわせます。内容を聞いた宗治は自分の首一つで兵が安全であるならといい末近信賀ら四人と自分が自刃する旨の手紙を恵瓊に託しました。

時同じころに、明智方から毛利家への密書を持った使者を捕え明智光秀によって信長が討たれたことを知り黒田孝高と話し合いの末に和睦を決断。秀吉の提示した内容は、三カ国と清水宗治の切腹という条件が提示され隆景は止む無く要求を受け入れました。

そして、人質として吉川広家と小早川秀包を出し秀吉からは森重政と高正が送られ和睦が成立します。

秀吉の下に臣従し賢人の最後

信長が天下を取るところまで迫っていましたが、謀反に合い自刃してしまい当主だった信忠も光秀によって討たれてしました。そして、家臣団で一番勢いのあった秀吉が台頭していきます。そこに隆景も元就の三子教訓状に従い毛利家存続のために働いていきました。

独立した一戦国大名となる

1584年に徳川家康と秀吉との間で名目上織田家次期当主を擁護した形で小牧長久手の戦いが起きました。小牧長久手の戦い前に輝元も参陣するよう秀吉からいわれ中国国分が決定し松山城と八橋城を毛利所有となり二年に渡った話し合いも決着します。四国攻めが始まり伊予国で金子元宅を討ち取り武功を挙げ秀吉の政策により伊予国の大名となるも形式上は、毛利家から拝領したことで毛利家の体裁を保ちました。

九州征伐にも参加し神田元忠を先遣隊として使わし小倉城を攻め立てようとするも、伏兵に合い門司城まで引き返します。兵を引き揚げはしたものの、早い援軍により島津方の動きを遅らせることができました。元春も仕方なく参陣するため隆景と共に小倉城攻めに加わり見事陥落させ入城するも化膿性炎症に蝕まれて小倉城で息を引き取ります。

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