戦国乱世には数多くの名将や智将と呼ばれた武将がいたが、賢人とまで呼ばれた武将はいなかったでしょう。

賢人こと毛利元就の三男だった小早川隆景について、今回は戦国ライターであるwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

隆景ほどとは言うこともできないが、自身を智将と自称している。元就からのを三子教訓状を守り毛利家のために尽力してきた隆景を今回わかりやすく紹介する。

兄弟の中で一番早く当主となる

Kobayakawa Takakage (Beisanji Mihara).jpg
By Momoyama-period artist - http://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/4/takakage.html, パブリック・ドメイン, Link

毛利家三男として誕生し、後の豊臣秀吉に西国全てを任せられると高く評価されていた隆景。兄達にも父にも劣らない隆景は若くして小早川家の当主となります。隆景幼少時代から見てきましょう。

謀略家の三男として生を受ける

1533年に元就居城の吉田郡山城にて三男として誕生しました。誕生月は不明で幼名を徳寿丸と命名。この時、元就が三十七歳で大内義隆に従軍していて長男の隆元は義隆の人質とされています。勢力を拡大していくにも隣国に大内氏と尼子氏が一大勢力を築き上げていてどちらかに属さないと家が滅亡してしまいかねない状況でした。

少しづつ領土を拡大していきたかった元就は、自身の子供を他家に養子縁組させ自国強化を図ろうと検討。二度目に起きた佐東銀山城にて、大内方として戦った小早川興景が戦の最中に病を患い病死してしまいました。

佐東銀山城で勝利した大内方だったが、小領主の竹原小早川家は当主不在の状況になります。

元服前に竹原小早川家十四代当主へ

興景は嫡男がおらず、当主が不在となる中で元就から見て興景は義理の甥にあたり血縁関係があったため竹原小早川家の重臣らが隆景を養子にしてくれないかと元就に相談を持ち掛けました。この話を聞いた時に元就は、ゆくゆく小早川家を毛利一門に加えようと考えことと大内義隆の勧めもあり隆景を養子に出すことにします。

十二歳にして、竹原小早川家の当主となり家を発展させていきました。一方で本家だった沼田小早川家は、大内氏と尼子氏のどちらか片方になびいてしましたが大内氏に臣従していた頃に尼子氏に内通していたことが義隆に漏れてしまい居城の高山城を占拠されてしまいます。当主だった小早川正平は、釈免されたものの後に沼田小早川家は義隆と元就によって追い込まれていきました。

1542年1月に義隆が大軍を率いて尼子氏の本拠だった月山富田城を攻め入りましたが、大敗を期し退却最中に正平が討死したため幼弱な小早川繁平が二歳で家督を相続。

始めての戦場

月山富田城の戦いで大内氏側にいた小領主達の一部が尼子氏へと臣従を鞍替えしていて山名理興もその一人でした。尼子氏の強い後ろ盾を持った理興は、当主を失ったばかりで隆景が当主になりましたが家中は慌ただしくなっているところを狙い侵攻してきます。

これに迎え討つため、義隆率いる大内軍と元就の軍で対抗していきました。援軍に到着した大内軍と毛利軍は、理興は神辺城まで追い込まれたものの防衛に成功して戦は長期化していきます。長期化していた戦を進めるために、神辺城を取り囲ようにして城を築き水軍を保有していた小早川軍を主軸に攻め立てようと考えました。

隆景は、神辺城の周りも攻め落としていき出城を見事陥落させその後に元服して徳寿丸から小早川隆景と名乗っていきます。

隆景の活躍で戦に勝利し小早川家の統合へ

残すは神辺城だけとなり総攻撃を仕掛けることになり元就と隆元・吉川元春・隆景らのおおよそ一万の大軍で城を攻撃していきます。対する理興は千から千五百程度しか兵がおらず即座に敗北すると思われていましたが、何度か攻撃を防ぎきることができました。しかし、奮闘虚しく1550年10月13日に理興が城を明け渡す形で決着。

戦いに勝利したことで、大内側が優勢となり隆景の活躍もあり尼子氏の力を削ぐことができました。これ以降、小早川家の水軍が毛利家にとって重宝される形で精強な軍団となっています。また、1552年に沼田小早川家の繁平が若輩ということで尼子氏との支城としての役目を果たせないと判断した元就は、沼田小早川家を乗っ取り竹原小早川家と沼田小早川家は統合させてしまいました。

 

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毛利両川体制で毛利家を支えていく

1551年に義隆が家臣の陶隆房に討ち取られてしまいこれがきっかけとなり元就は大きく勢力を拡大していくことになりました。次第に領土が多くなっていき危機を感じた隆房は元就を討つため挙兵します。そして、厳島の戦いの後に元就教訓状を書き記し家の存続を第一としました。

この直後に、毛利家を支える毛利宗家を中心とした吉川家と小早川家の両川体制を築いていきます。

毛利家の勢力が拡大

義隆が討たれたことで隆房が大内氏の実権を握ったものの、尼子氏と一戦交えるまでの力はない状況でした。元就と協調していく隆房だったが、瞬く間に旧大内領を元就に所有され気づけば大内氏よりも強大な存在になります。このことに危機と思った隆房は元就に対して、領地返納をするよう願いでるも断られ毛利家と相対することになりました。

厳島の戦いまでの間に元就は、調略と外交に力を入れていきます。まず、尼子氏の牽制として三村氏と福屋氏を支援する形で尼子氏の動きを防ぎつつ大内氏の兵分散させる目的で小弐氏に密書を送りました。また、村上水軍を味方にするべく宍戸氏から小早川隆景に養女出して婚姻関係も結んでいます。

村上水軍との交渉

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前哨戦があったものの、優位に戦を進めていた毛利軍。しかし、大軍を率いている隆房には兵力の少ない毛利軍を甘く見ており特に水軍は圧倒的に優位ということもあり慢心していました。当然ながら元就もそこを突いてくることは分かっていたので隆景に村上水軍の村上武吉や村上通康ら援軍依頼をしてくるよう命じます。

村上水軍といえども一枚岩ではなく内部でも三つに分かれていて、因島衆・来島衆・能島衆の最大勢力で瀬戸内海を支配しておりました。因島衆は元就に加担すると形になっていましたが、残る来島・能島衆は中立的な立ち位置となり何とか味方に引き入れようと隆景が交渉していきます。

この時に、隆景家臣の乃美宗勝が村上武吉らと血縁関係があるということで交渉役に任命されました。

援軍の到着と陶軍へ奇襲開始

宗勝は、村上武吉らに交渉にあたり一日だけでいいので味方していくれないかと交渉しますが中々返事をいただけていない状態でした。一方の隆房も同様に村上水軍へ援軍要請をしています。宗勝も根気よく交渉するも良い返事をいただけず厳島の要所となっている宮ノ城も陥落寸前な状態ありました。

1555年9月26日に隆景宛に催促の手紙を出して村上水軍の援軍ついて確認していたものの、宮ノ城の堀も埋められ陥落間近で援軍を待つことができない元就は草津城から出陣。同じころ隆景は援軍が来ると確信しており密かに宮ノ城まで行き士気を上げたとされています。

その翌日に、村上水軍の援軍が到着。二百以上の船団が、毛利軍の味方となり隆房軍の後方に位置する包ヶ浦に上陸するべく進軍していきます。

厳島の戦い

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荒れ狂う暴風雨の中で兵を進めていき運よく上陸しました。先鋒として元春の軍勢を博奕尾まで進め山越えし明朝に奇襲を開始。裏をかかれた隆房の兵達は混乱してしまい兵の収束が難しい状況となります。

混乱に陥ってところに隆景部隊も挟撃する形で隆房方を追い詰めていき、村上水軍は隆房の水軍を撃退していきました。隆房重臣の弘中隆包らは防戦するために、元春部隊と衝突するもとても兵を立て直すこともできず敗走していきます。大将隆房は大敗を期したため島から脱出しようと考えました。

隆房は大元浦から船で脱出することを決意し少数の兵を引き連れ移動していきます。ところが、大元浦に脱出する船が無く更に隆景の部隊が追撃してきたことで隆房は遂に自刃する形で毛利軍が勝利することになりました。

元就らはこれ以降、大内氏は弱体化し安芸の大名から尼子氏と渡り合うことができる一大勢力となります。

元就の隠居し隆元が家督相続

厳島で勝利し、元就が隠居して隆元が家督を相続。1557年11月頃に正室の三人に書き留めた三子教訓状を隆元らに送りました。このような手紙を宛てた背景には、毛利家の兄弟仲が決して良いわけでもなかったことや元春と隆景が自分の家を優先して本家を蔑ろにすると思っていたからだといわれています。本書を読んだ三人は今まで以上に団結するようになり隆元の補佐役として元春と隆景が選任され両川体制を強めていきました。

しかし、両川体制で毛利家が盤石となる中で隆元が急死してしまい嫡男の輝元が家督を相続。元就は隠居したとはいえ毛利家の実権を握っていた状態で、尼子氏を追い詰めていき第二次月山富田城の戦いで勝利を収め中国地方を制圧しました。

滅ぼされた尼子氏を再興させるべく尼子勝久と山中幸盛らが織田の力を借りて攻撃を仕掛けてくるも布部山の戦いで元春・隆景の活躍により勝利するも元就が危篤となり兵を引き揚げ安芸へ戻ります。

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織田と対立

中国制覇を成し遂げるも、次なる敵が織田信長と羽柴秀吉でした。尼子残党兵が秀吉らの援軍得て勢いが増してきます。そして織田勢力に悩まされていきました。若輩の当主輝元を支えながら両川体制を更に強めていきます。

将軍足利義昭を擁護し織田勢力を攻撃

1571年に元就が亡くなり、幕府を追放された足利義昭を擁護した毛利家と織田家が対立が激化。追放されても将軍としての官職を持っていた義昭は、幕府再興のため各地の大名に書状を出して信長を討伐する指令をあたえます。包囲網の勢力として、上杉氏・武田氏・石山本願寺らが参加。中心的存在だった、石山本願寺は毛利家に援助を求めました。

援助要請を受けた毛利軍は、小早川水軍を中心として木津川口で九鬼水軍と激突するも焙烙玉などのおかげで見事撃退し石山本願寺へ兵糧や武器などの搬入に成功します。しかし、兵糧を送り続けることができていましたが、1578年6月に九鬼水軍が焙烙玉が通じない鉄甲船六隻で木津川口で再び衝突。

大筒の攻撃力には太刀打ちできず小早川水軍は撤退した直後に上杉謙信が病死し、石山本願寺は信長と和睦。包囲網が崩れてしまいました。

次第に追い詰められる

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味方勢が秀吉によって攻め落とれていき、石山本願寺が和睦する前に宇喜多秀家が織田方に寝返り一層困難な状況になります。播磨国の要だった三木城も陥落し吉川一門で武勇に秀でた経家が鳥取城にて籠城するも、秀吉の策で近隣の米が買い荒らされてしまい城内は餓死者が多数となり降伏を申し出て経家は自刃。

その後、備中高松城にて隆景配下の清水宗治が籠城し秀吉らの攻撃に耐え忍んでいました。ここを救援するべく隆景と元春の軍勢三万を高松城に向け進軍。兵は拮抗していましたが、長篠の戦いで武田勝頼を滅ぼした織田主軍が高松城に向けて進軍している情報を得ました。

高松城が水攻めされたことと兵力差で勝てないと踏んだ隆景は、秘密裏に安国寺恵瓊を使者として織田方との和睦を進めていきます。しかし、隆景が提示した要求を呑んでくれない秀吉でした。

窮地を脱する毛利家

隆景が提示した条件は、五ヵ国と城兵の安全でしたが、秀吉からは五ヵ国と高松城主清水宗治の切腹といわれ兵を失いたくない隆景は恵瓊に宗治の説得に向かわせます。内容を聞いた宗治は自分の首一つで兵が安全であるならといい末近信賀ら四人と自分が自刃する旨の手紙を恵瓊に託しました。

時同じころに、明智方から毛利家への密書を持った使者を捕え明智光秀によって信長が討たれたことを知り黒田孝高と話し合いの末に和睦を決断。秀吉の提示した内容は、三カ国と清水宗治の切腹という条件が提示され隆景は止む無く要求を受け入れました。

そして、人質として吉川広家と小早川秀包を出し秀吉からは森重政と高正が送られ和睦が成立します。

秀吉の下に臣従し賢人の最後

信長が天下を取るところまで迫っていましたが、謀反に合い自刃してしまい当主だった信忠も光秀によって討たれてしました。そして、家臣団で一番勢いのあった秀吉が台頭していきます。そこに隆景も元就の三子教訓状に従い毛利家存続のために働いていきました。

独立した一戦国大名となる

1584年に徳川家康と秀吉との間で名目上織田家次期当主を擁護した形で小牧長久手の戦いが起きました。小牧長久手の戦い前に輝元も参陣するよう秀吉からいわれ中国国分が決定し松山城と八橋城を毛利所有となり二年に渡った話し合いも決着します。四国攻めが始まり伊予国で金子元宅を討ち取り武功を挙げ秀吉の政策により伊予国の大名となるも形式上は、毛利家から拝領したことで毛利家の体裁を保ちました。

九州征伐にも参加し神田元忠を先遣隊として使わし小倉城を攻め立てようとするも、伏兵に合い門司城まで引き返します。兵を引き揚げはしたものの、早い援軍により島津方の動きを遅らせることができました。元春も仕方なく参陣するため隆景と共に小倉城攻めに加わり見事陥落させ入城するも化膿性炎症に蝕まれて小倉城で息を引き取ります。

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九州を平定し小田原から朝鮮出兵へ

根白坂の戦いで黒田孝高と共に後詰にあたり激戦の後、秀吉が九州を平定しました。この時の戦功で三十七万一千三百石を与えるといわれたもののこれ以上増石すると公役が果たせなくなるといい辞退します。それでも秀吉は、代官にしようとするも辞退し元春亡き後の輝元を一人にできないといい代官も断っていました。

小田原征伐にも従軍し水軍部隊を派遣し北條氏を滅ぼした後に、秀吉が明を手中に収めるため朝鮮出兵が決行されます。隆景は六番隊として立花宗茂らと全羅道へ進軍し敵を撃退。偽造文書で文禄の役が終わるも秀吉の要求が明側に通らず再度出兵することになります。

本家を守るために小早川家に養子を迎え幕を閉じる

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文禄の役に参陣中に秀吉の甥にあたる羽柴秀俊を小早川家の養子に向かえます。本来は、秀吉が輝元に対して秀俊を養子にさせるつもりでしたが秀吉の血が入ることを嫌い隆景にも嫡男がいないことを理由に自身の養子にしてくれないかと秀吉に願いでるとそれならばといい小早川家に入り小早川秀秋と名を改めました。

その後、家督を秀秋に譲り三原へと隠居する際に秀吉から知行録として約五万石を与えらます。そして、五大老まで務めた後に三原城を毛利家東の要として大改修し完成させた直後に病で亡くなりました。

秀吉に独立大名として認められるも毛利本家のために働いた賢人

中国大返しにて黒田孝高と和睦を結び高松城主の清水宗治の子景治が秀吉に家臣として召し抱えられる際、隆景と共に孝高も協力してくれ毛利家に残っています。この後から孝高と交友が始まり良好関係を築いていきました。やはり、知勇が高い将同士は互いに惹かれ合うものを持っているからこそ直ぐにられるような気がしますね。

また隆景は、孝高に対して頭が良すぎるから瞬時にものを見極め判断するが自分はそこまで頭が良くないのでしっかりと考えたうえで決断するから後悔することが少ないといったとされています。相手と比較し、尊重する部分をしっかりと伝えつつも弱点になりそうなところを助言するという優しい一面も見受けられました。

隆景が亡くなった時には、孝高は日本に賢人が居なくなったといい悲しんだとされています。秀吉からも才を惚れこまれ西国を預けられるといわしめたこともあり本家のことを考えず自身のためだけを考えている将であれば家康に対抗できる将にまで成り上がってもおかしくなかったでしょう。

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安芸の賢人「小早川隆景」を戦国通のサラリーマンが分かりやすくわかりやすく解説

戦国乱世には数多くの名将や智将と呼ばれた武将がいたが、賢人とまで呼ばれた武将はいなかったでしょう。

賢人こと毛利元就の三男だった小早川隆景について、今回は戦国ライターであるwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

隆景ほどとは言うこともできないが、自身を智将と自称している。元就からのを三子教訓状を守り毛利家のために尽力してきた隆景を今回わかりやすく紹介する。

兄弟の中で一番早く当主となる

Kobayakawa Takakage (Beisanji Mihara).jpg
By Momoyama-period artist – http://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/4/takakage.html, パブリック・ドメイン, Link

毛利家三男として誕生し、後の豊臣秀吉に西国全てを任せられると高く評価されていた隆景。兄達にも父にも劣らない隆景は若くして小早川家の当主となります。隆景幼少時代から見てきましょう。

謀略家の三男として生を受ける

1533年に元就居城の吉田郡山城にて三男として誕生しました。誕生月は不明で幼名を徳寿丸と命名。この時、元就が三十七歳で大内義隆に従軍していて長男の隆元は義隆の人質とされています。勢力を拡大していくにも隣国に大内氏と尼子氏が一大勢力を築き上げていてどちらかに属さないと家が滅亡してしまいかねない状況でした。

少しづつ領土を拡大していきたかった元就は、自身の子供を他家に養子縁組させ自国強化を図ろうと検討。二度目に起きた佐東銀山城にて、大内方として戦った小早川興景が戦の最中に病を患い病死してしまいました。

佐東銀山城で勝利した大内方だったが、小領主の竹原小早川家は当主不在の状況になります。

元服前に竹原小早川家十四代当主へ

興景は嫡男がおらず、当主が不在となる中で元就から見て興景は義理の甥にあたり血縁関係があったため竹原小早川家の重臣らが隆景を養子にしてくれないかと元就に相談を持ち掛けました。この話を聞いた時に元就は、ゆくゆく小早川家を毛利一門に加えようと考えことと大内義隆の勧めもあり隆景を養子に出すことにします。

十二歳にして、竹原小早川家の当主となり家を発展させていきました。一方で本家だった沼田小早川家は、大内氏と尼子氏のどちらか片方になびいてしましたが大内氏に臣従していた頃に尼子氏に内通していたことが義隆に漏れてしまい居城の高山城を占拠されてしまいます。当主だった小早川正平は、釈免されたものの後に沼田小早川家は義隆と元就によって追い込まれていきました。

1542年1月に義隆が大軍を率いて尼子氏の本拠だった月山富田城を攻め入りましたが、大敗を期し退却最中に正平が討死したため幼弱な小早川繁平が二歳で家督を相続。

始めての戦場

月山富田城の戦いで大内氏側にいた小領主達の一部が尼子氏へと臣従を鞍替えしていて山名理興もその一人でした。尼子氏の強い後ろ盾を持った理興は、当主を失ったばかりで隆景が当主になりましたが家中は慌ただしくなっているところを狙い侵攻してきます。

これに迎え討つため、義隆率いる大内軍と元就の軍で対抗していきました。援軍に到着した大内軍と毛利軍は、理興は神辺城まで追い込まれたものの防衛に成功して戦は長期化していきます。長期化していた戦を進めるために、神辺城を取り囲ようにして城を築き水軍を保有していた小早川軍を主軸に攻め立てようと考えました。

隆景は、神辺城の周りも攻め落としていき出城を見事陥落させその後に元服して徳寿丸から小早川隆景と名乗っていきます。

隆景の活躍で戦に勝利し小早川家の統合へ

残すは神辺城だけとなり総攻撃を仕掛けることになり元就と隆元・吉川元春・隆景らのおおよそ一万の大軍で城を攻撃していきます。対する理興は千から千五百程度しか兵がおらず即座に敗北すると思われていましたが、何度か攻撃を防ぎきることができました。しかし、奮闘虚しく1550年10月13日に理興が城を明け渡す形で決着。

戦いに勝利したことで、大内側が優勢となり隆景の活躍もあり尼子氏の力を削ぐことができました。これ以降、小早川家の水軍が毛利家にとって重宝される形で精強な軍団となっています。また、1552年に沼田小早川家の繁平が若輩ということで尼子氏との支城としての役目を果たせないと判断した元就は、沼田小早川家を乗っ取り竹原小早川家と沼田小早川家は統合させてしまいました。

 

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