
鎖国の終わり 日米和親と日米修好通商条約の締結
1853年にアメリカのペリーが日本に来航、この出来事を黒船来航と呼びます。これまで鎖国体制を維持してきた日本に対してペリーは開国を要求、翌1854年に日米和親条約が締結されたことで日本は下田と箱館の港を開港、これまで200年以上も続いていた日本の鎖国体制は解かれました。
さらに1858年には日米修好通商条約を締結、この時幕府が天皇の許可なく条約に調印したことは大きな問題になります。またこの条約が日本に不利なものであったため、外国人を追い払う攘夷運動が活発化、幕府ではなく朝廷の天皇による政治を望む声も多く、いわゆる尊王攘夷の思想が浸透したのです。
このため、外国人に関係した争いが日本で頻繁に起こるようになります。薩摩藩とイギリスによる薩英戦争、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカによる下関戦争なども起こり、日本は外国の軍事力の高さを思い知ることになりました。
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倒幕ムードの加速 安政の大獄と桜田門外の変
日米修好通商条約における天皇の無勅許での調印問題など、日本では幕府に対する不満は高まっていきました。同時に尊王攘夷の思想から反幕府派となる者も多く、そこで幕府の大老・井伊直弼は1858年に安政の大獄を行って尊王攘夷派を厳しく弾圧します。
しかし、この行き過ぎた弾圧は幕府に対する不満をさらに高めることになりました。その結果、安政の大獄を行った張本人である井伊直弼は桜田門外の変にて暗殺されてしまいます。井伊直弼を暗殺したのは水戸藩を脱藩した浪士……つまり元々は藩の武士でした。
幕府の権力者が1つの藩の武士に暗殺された事実は大きな話題と問題になり、さらに安政の大獄への反発から幕府の信用と権威は失われてしまったのです。以後、日本では打倒幕府……つまり、倒幕ムードが加速していくことになりました。
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