今日は江戸幕府について勉強していきます。1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康、彼が征夷大将軍になった1603年に江戸幕府は開かれ、以後1867年まで江戸幕府は続くことになる。

江戸幕府は実に250年以上も続いたわけですが、その中で重要なポイントをまとめ、また疑問に思うポイントも解消していこう。今回、江戸幕府の歴史を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸幕府をわかりやすくまとめた。

幕藩体制と幕府と朝廷との関係

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江戸幕府の支配体制 幕藩体制の仕組み

江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれており、征夷大将軍が政治を行う体制の幕府、そして征夷大将軍と主従関係を結んだ大名が政治を行う体制のから成り立っていました。分かりやすく言えば、征夷大将軍の「幕府」と大名の「藩」が土地と人民を統治する支配体制です。

藩とは、1万石以上の領地を所有する大名が支配している領域のことで、各藩の上には幕府があるものの、各藩の藩主たる者はある程度の自由な政治や支配が任されていました。藩主は自らの藩においては政治を行う権力を持っているものの、一方で幕府に対してはその権力を行使する力がなかったのです。

つまり、藩はその領地を支配しており、幕府はその強大な力と権力によって藩を支配する……これが幕藩体制における支配体制になります。このため、藩は幕府の命令に従わなければならず、また藩における「石」とは米の生産量を示す単位で、「1石=1人が1年間で食べる量の米を生産できる」という計算です。

朝廷と幕府の関係

これは江戸幕府に限ったことではないですが、征夷大将軍は朝廷の臨時の官職であり、朝廷から日本の政治を任されている立場です。そして幕府は征夷大将軍が作ったものですから、地位的には幕府より朝廷が上ということになりますね。

ただ、この頃は朝廷に力がなく、また幕府には武力という力がありました。このため実質力を持っているのは幕府であり、「朝廷から日本の政治を任されている」というのは形式上のことでしかないでしょう。最も、さすがの幕府も外国との条約などは朝廷の許可なく結ぶことはできません

それがハッキリと分かるのが、江戸時代の1858年に起こった日米修好通商条約で、幕府が天皇の無勅許で調印したことの問題でしょう。この問題から朝廷と幕府の上下関係が分かり、つまり日本で最も偉いのは征夷大将軍ではなく天皇ということも分かります。

参勤交代と鎖国

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藩の軍事力低下 参勤交代

参勤交代とは、第3代征夷大将軍・徳川家光が定めた制度です。これは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めることを定めるもので、自分の藩……つまり国元から江戸に赴くことを「参勤」、そして国元に帰ることを「交代」と表現することが参勤交代の名前の由来になっています。この制度を定めた最大の目的は各藩の軍事力低下でしょう。

長旅となる参勤交代では旅費だけでなく江戸の滞在費までかかってくるため、各藩の財政を圧迫させることになりますね。財政が圧迫すればその藩の軍事力は低下しますから、藩の幕府に対する反乱を抑制する効果があり、幕藩体制を維持させることができるのです。

ちなみに、参勤交代の制度が廃止させるきっかけとなったのは、1854年の文久の改革による規制緩和で、この頃から幕藩の権威は失われつつありました。既に権威の低下した幕府の命令には従わない藩も多く、幕府の終わりである大政奉還と同時参勤交代も廃止されたのです

キリスト教の弾圧 鎖国

鎖国とはスペイン・ポルトガルの人の来航、さらには日本人の東南アジア方面への出入国を禁止、貿易の管理と統制と制限を目的とした対外政策です。鎖国の始まりと終わりは明確に示されていないものの、一般的にはポルトガル船の入港禁止となった1639年から1854年までとされています。

鎖国を行った目的はキリスト教に対しての警戒で、当時スペイン・ポルトガルの国はキリスト教を一般に広めながら領土を拡大していました。このため、幕府は日本にキリスト教が広まることを怖れてスペインとポルトガルとの交流を断ち切ろうとしたのです

事実、日本でもフランシスコ・ザビエルが来日して以来キリスト教が広まっており、そのため1612年には禁教令を出したものの、1637年にはキリシタン弾圧が一因となって島原の乱が起こりました。幕府はキリスト教徒がこうした大きな勢力になることを危惧、そのため徹底的に弾圧しようとしたのです。

生類憐みの令と江戸時代の三大改革

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蚊も殺せない生類憐みの令

第5代征夷大将軍・徳川綱吉の時代の頃には江戸幕府の政権は安定、そのため武力による武断政治ではなく法や道徳による文治政治を行うようになります。徳川綱吉は生類憐みの令を制定して殺生を禁じますが、これが徳川綱吉の評価を著しく下げてしまいました。

なぜなら、動物の殺生を禁じることは一見平和的に思えますが、その対象が魚類や貝類や昆虫にも及んだため庶民の生活に影響を与えてしまったからです。例えば、蚊を殺したことで島流しになるケースもありますし、金魚の飼育のためにも幕府への届け出が必要でした。

最も、江戸時代の初期には口減らしなどで捨て子が増加する問題が起こっていましたが、生類憐みの令によってこれが減少します。さらに病人は特別に無許可で駕籠に乗れる特例など、福祉にも力を入れていき、この生類憐みの令は徳川綱吉が死去するまで続きました。

享保、寛政、天保、江戸時代の三大改革

第8代征夷大将軍・徳川吉宗は、幕府の財政難への対処として1716年に享保の改革を行います。庶民の意見を聞くための目安箱の設置、贅沢を控える倹約令を出すなどの政策を行い、一時は幕府の経済にプラス効果をもたらしたものの、享保の大飢饉などが原因で改革は行き詰ってしまいました。

さらに1787年には幕府の老中・松平定信が寛政の改革を行います。飢饉の対策として米を倉に蓄える囲米の制など独自の政策を行い、享保の改革にならって倹約令も出しています。この改革は6年余りに及びましたが思ったほどの成果はなく、また庶民の反発も招いてしまいました。

そして1830年、諸藩で藩政改革が行われたこの年に幕府の老中・水野忠邦が天保の改革が行います。この改革では株仲間の解散などが行われ、享保の改革、寛政の改革、そしてこの天保の改革の3つの改革は江戸時代の三大改革と呼ばれているのです。

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外交問題、安政の大獄、桜田門外の変

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鎖国の終わり 日米和親と日米修好通商条約の締結

1853年にアメリカのペリーが日本に来航、この出来事を黒船来航と呼びます。これまで鎖国体制を維持してきた日本に対してペリーは開国を要求、翌1854年に日米和親条約が締結されたことで日本は下田と箱館の港を開港、これまで200年以上も続いていた日本の鎖国体制は解かれました。

さらに1858年には日米修好通商条約を締結、この時幕府が天皇の許可なく条約に調印したことは大きな問題になります。またこの条約が日本に不利なものであったため、外国人を追い払う攘夷運動が活発化、幕府ではなく朝廷の天皇による政治を望む声も多く、いわゆる尊王攘夷の思想が浸透したのです。

このため、外国人に関係した争いが日本で頻繁に起こるようになります。薩摩藩とイギリスによる薩英戦争、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカによる下関戦争なども起こり、日本は外国の軍事力の高さを思い知ることになりました。

倒幕ムードの加速 安政の大獄と桜田門外の変 

日米修好通商条約における天皇の無勅許での調印問題など、日本では幕府に対する不満は高まっていきました。同時に尊王攘夷の思想から反幕府派となる者も多く、そこで幕府の大老・井伊直弼は1858年に安政の大獄を行って尊王攘夷派を厳しく弾圧します。

しかし、この行き過ぎた弾圧は幕府に対する不満をさらに高めることになりました。その結果、安政の大獄を行った張本人である井伊直弼は桜田門外の変にて暗殺されてしまいます。井伊直弼を暗殺したのは水戸藩を脱藩した浪士……つまり元々は藩の武士でした。

幕府の権力者が1つの藩の武士に暗殺された事実は大きな話題と問題になり、さらに安政の大獄への反発から幕府の信用と権威は失われてしまったのです。以後、日本では打倒幕府……つまり、倒幕ムードが加速していくことになりました。

\次のページで「江戸幕府の終わり 大政奉還と戊辰戦争」を解説!/

江戸幕府の終わり 大政奉還と戊辰戦争

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武力倒幕を回避した大政奉還

250年以上続いた江戸幕府は、実にあっけなく唐突な終わり方を迎えます。1867年、第15代征夷大将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って政権を天皇へと返上したのです。この大政奉還は朝廷に受け入れられ、これで江戸幕府の歴史は幕を閉じることになりました。

そして、天皇へと政権を返上したことから、江戸幕府だけでなく幕府の存在そのものを終わらせることになったのです。もちろんこれには理由があり、当時倒幕ムードの加速によって武力倒幕が計画されており、計画実行が間近に迫っていたことが理由の1つでしょう。

また、徳川慶喜は大政奉還後も政治に携わる計画を画策しており、武力倒幕を回避してなおかつ今後も政治を行うことを企んでいたのです。その計画は半ば成功するものの、結果的に武力倒幕を煽ることになってしまい、戦争は起こってしまいました。

旧幕府軍最後の戦い 戊辰戦争

1867年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が起こります。この時点で幕府は既に終わっていたものの、徳川慶喜の側についた勢力を旧幕府軍、明治政府側についた勢力を新政府軍と呼びました。最も、江戸幕府が開かれた時点の勢力なら全国の藩を統治する旧幕府軍が圧倒的に有利だったでしょう。

しかし幕府への不満から新政府軍につく藩は多く、薩摩藩や長州藩などの大きな藩も新政府軍として戦っていたのです。1年に渡って続いた戊辰戦争でしたが、緒戦となる鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利、この時点で徳川慶喜は退却して旧幕府軍は出ばなをくじかれました。

最終的に新政府軍が勝利、これで幕府のみならず徳川家が支配する時代も正真正銘終わりとなり、以後明治政府による新しい政治が行われていきます。幕藩体制の要であった藩も、明治政府の政治政策となる廃藩置県によって藩は廃止されて県が設置れることになりました。

一言で説明することも大切

江戸幕府の流れをまとめましたが、どの出来事も簡単に解説してあるだけなので、知識として覚えるにはいずれも不充分でしょう。しかし、本番のテストではこうした出来事の説明や意味を求められることがあります。

その場合は一言でまとめる必要があるため、このように一言で説明できるようにしておくことも大切です。そのため、江戸幕府をマスターした後は、こうしてそれぞれの出来事を簡単に説明できるか試してみましょう。

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日本史歴史江戸時代

250年以上の歴史を振り返る!「江戸幕府」について元塾講師が5分でわかりやすく解説

今日は江戸幕府について勉強していきます。1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康、彼が征夷大将軍になった1603年に江戸幕府は開かれ、以後1867年まで江戸幕府は続くことになる。

江戸幕府は実に250年以上も続いたわけですが、その中で重要なポイントをまとめ、また疑問に思うポイントも解消していこう。今回、江戸幕府の歴史を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸幕府をわかりやすくまとめた。

幕藩体制と幕府と朝廷との関係

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江戸幕府の支配体制 幕藩体制の仕組み

江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれており、征夷大将軍が政治を行う体制の幕府、そして征夷大将軍と主従関係を結んだ大名が政治を行う体制のから成り立っていました。分かりやすく言えば、征夷大将軍の「幕府」と大名の「藩」が土地と人民を統治する支配体制です。

藩とは、1万石以上の領地を所有する大名が支配している領域のことで、各藩の上には幕府があるものの、各藩の藩主たる者はある程度の自由な政治や支配が任されていました。藩主は自らの藩においては政治を行う権力を持っているものの、一方で幕府に対してはその権力を行使する力がなかったのです。

つまり、藩はその領地を支配しており、幕府はその強大な力と権力によって藩を支配する……これが幕藩体制における支配体制になります。このため、藩は幕府の命令に従わなければならず、また藩における「石」とは米の生産量を示す単位で、「1石=1人が1年間で食べる量の米を生産できる」という計算です。

朝廷と幕府の関係

これは江戸幕府に限ったことではないですが、征夷大将軍は朝廷の臨時の官職であり、朝廷から日本の政治を任されている立場です。そして幕府は征夷大将軍が作ったものですから、地位的には幕府より朝廷が上ということになりますね。

ただ、この頃は朝廷に力がなく、また幕府には武力という力がありました。このため実質力を持っているのは幕府であり、「朝廷から日本の政治を任されている」というのは形式上のことでしかないでしょう。最も、さすがの幕府も外国との条約などは朝廷の許可なく結ぶことはできません

それがハッキリと分かるのが、江戸時代の1858年に起こった日米修好通商条約で、幕府が天皇の無勅許で調印したことの問題でしょう。この問題から朝廷と幕府の上下関係が分かり、つまり日本で最も偉いのは征夷大将軍ではなく天皇ということも分かります。

参勤交代と鎖国

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藩の軍事力低下 参勤交代

参勤交代とは、第3代征夷大将軍・徳川家光が定めた制度です。これは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めることを定めるもので、自分の藩……つまり国元から江戸に赴くことを「参勤」、そして国元に帰ることを「交代」と表現することが参勤交代の名前の由来になっています。この制度を定めた最大の目的は各藩の軍事力低下でしょう。

長旅となる参勤交代では旅費だけでなく江戸の滞在費までかかってくるため、各藩の財政を圧迫させることになりますね。財政が圧迫すればその藩の軍事力は低下しますから、藩の幕府に対する反乱を抑制する効果があり、幕藩体制を維持させることができるのです。

ちなみに、参勤交代の制度が廃止させるきっかけとなったのは、1854年の文久の改革による規制緩和で、この頃から幕藩の権威は失われつつありました。既に権威の低下した幕府の命令には従わない藩も多く、幕府の終わりである大政奉還と同時参勤交代も廃止されたのです

キリスト教の弾圧 鎖国

鎖国とはスペイン・ポルトガルの人の来航、さらには日本人の東南アジア方面への出入国を禁止、貿易の管理と統制と制限を目的とした対外政策です。鎖国の始まりと終わりは明確に示されていないものの、一般的にはポルトガル船の入港禁止となった1639年から1854年までとされています。

鎖国を行った目的はキリスト教に対しての警戒で、当時スペイン・ポルトガルの国はキリスト教を一般に広めながら領土を拡大していました。このため、幕府は日本にキリスト教が広まることを怖れてスペインとポルトガルとの交流を断ち切ろうとしたのです

事実、日本でもフランシスコ・ザビエルが来日して以来キリスト教が広まっており、そのため1612年には禁教令を出したものの、1637年にはキリシタン弾圧が一因となって島原の乱が起こりました。幕府はキリスト教徒がこうした大きな勢力になることを危惧、そのため徹底的に弾圧しようとしたのです。

生類憐みの令と江戸時代の三大改革

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蚊も殺せない生類憐みの令

第5代征夷大将軍・徳川綱吉の時代の頃には江戸幕府の政権は安定、そのため武力による武断政治ではなく法や道徳による文治政治を行うようになります。徳川綱吉は生類憐みの令を制定して殺生を禁じますが、これが徳川綱吉の評価を著しく下げてしまいました。

なぜなら、動物の殺生を禁じることは一見平和的に思えますが、その対象が魚類や貝類や昆虫にも及んだため庶民の生活に影響を与えてしまったからです。例えば、蚊を殺したことで島流しになるケースもありますし、金魚の飼育のためにも幕府への届け出が必要でした。

最も、江戸時代の初期には口減らしなどで捨て子が増加する問題が起こっていましたが、生類憐みの令によってこれが減少します。さらに病人は特別に無許可で駕籠に乗れる特例など、福祉にも力を入れていき、この生類憐みの令は徳川綱吉が死去するまで続きました。

享保、寛政、天保、江戸時代の三大改革

第8代征夷大将軍・徳川吉宗は、幕府の財政難への対処として1716年に享保の改革を行います。庶民の意見を聞くための目安箱の設置、贅沢を控える倹約令を出すなどの政策を行い、一時は幕府の経済にプラス効果をもたらしたものの、享保の大飢饉などが原因で改革は行き詰ってしまいました。

さらに1787年には幕府の老中・松平定信が寛政の改革を行います。飢饉の対策として米を倉に蓄える囲米の制など独自の政策を行い、享保の改革にならって倹約令も出しています。この改革は6年余りに及びましたが思ったほどの成果はなく、また庶民の反発も招いてしまいました。

そして1830年、諸藩で藩政改革が行われたこの年に幕府の老中・水野忠邦が天保の改革が行います。この改革では株仲間の解散などが行われ、享保の改革、寛政の改革、そしてこの天保の改革の3つの改革は江戸時代の三大改革と呼ばれているのです。

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