

江戸幕府は実に250年以上も続いたわけだが、その中で重要なポイントをまとめ、また疑問に思うポイントも解消していこう。今回、江戸幕府の歴史を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から江戸幕府をわかりやすくまとめた。
江戸幕府の支配体制 幕藩体制の仕組み
江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれており、征夷大将軍が政治を行う体制の幕府、そして征夷大将軍と主従関係を結んだ大名が政治を行う体制の藩から成り立っていました。分かりやすく言えば、征夷大将軍の「幕府」と大名の「藩」が土地と人民を統治する支配体制です。
藩とは、1万石以上の領地を所有する大名が支配している領域のことで、各藩の上には幕府があるものの、各藩の藩主たる者はある程度の自由な政治や支配が任されていました。藩主は自らの藩においては政治を行う権力を持っているものの、一方で幕府に対してはその権力を行使する力がなかったのです。
つまり、藩はその領地を支配しており、幕府はその強大な力と権力によって藩を支配する……これが幕藩体制における支配体制になります。このため、藩は幕府の命令に従わなければならず、また藩における「石」とは米の生産量を示す単位で、「1石=1人が1年間で食べる量の米を生産できる」という計算です。
朝廷と幕府の関係
これは江戸幕府に限ったことではないですが、征夷大将軍は朝廷の臨時の官職であり、朝廷から日本の政治を任されている立場です。そして幕府は征夷大将軍が作ったものですから、地位的には幕府より朝廷が上ということになりますね。
ただ、この頃は朝廷に力がなく、また幕府には武力という力がありました。このため実質力を持っているのは幕府であり、「朝廷から日本の政治を任されている」というのは形式上のことでしかないでしょう。最も、さすがの幕府も外国との条約などは朝廷の許可なく結ぶことはできません。
それがハッキリと分かるのが、江戸時代の1858年に起こった日米修好通商条約で、幕府が天皇の無勅許で調印したことの問題でしょう。この問題から朝廷と幕府の上下関係が分かり、つまり日本で最も偉いのは征夷大将軍ではなく天皇ということも分かります。

江戸幕府は、藩が領地を支配して幕府が藩を支配する幕藩体制をとっていた。そして、藩は1万石以上の領地を持つ大名が支配する領域のことだ。また、江戸時代では朝廷も動きを見せるため、朝廷と幕府の関係も改めて覚えておくと江戸時代を理解しやすくなるぞ。
藩の軍事力低下 参勤交代
参勤交代とは、第3代征夷大将軍・徳川家光が定めた制度です。これは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めることを定めるもので、自分の藩……つまり国元から江戸に赴くことを「参勤」、そして国元に帰ることを「交代」と表現することが参勤交代の名前の由来になっています。この制度を定めた最大の目的は各藩の軍事力低下でしょう。
長旅となる参勤交代では旅費だけでなく江戸の滞在費までかかってくるため、各藩の財政を圧迫させることになりますね。財政が圧迫すればその藩の軍事力は低下しますから、藩の幕府に対する反乱を抑制する効果があり、幕藩体制を維持させることができるのです。
ちなみに、参勤交代の制度が廃止させるきっかけとなったのは、1854年の文久の改革による規制緩和で、この頃から幕藩の権威は失われつつありました。既に権威の低下した幕府の命令には従わない藩も多く、幕府の終わりである大政奉還と同時参勤交代も廃止されたのです。
こちらの記事もおすすめ

江戸の歴史を学ぶなら必須「参勤交代」を元塾講師が分かりやすく解説! – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
キリスト教の弾圧 鎖国
鎖国とはスペイン・ポルトガルの人の来航、さらには日本人の東南アジア方面への出入国を禁止、貿易の管理と統制と制限を目的とした対外政策です。鎖国の始まりと終わりは明確に示されていないものの、一般的にはポルトガル船の入港禁止となった1639年から1854年までとされています。
鎖国を行った目的はキリスト教に対しての警戒で、当時スペイン・ポルトガルの国はキリスト教を一般に広めながら領土を拡大していました。このため、幕府は日本にキリスト教が広まることを怖れてスペインとポルトガルとの交流を断ち切ろうとしたのです。
事実、日本でもフランシスコ・ザビエルが来日して以来キリスト教が広まっており、そのため1612年には禁教令を出したものの、1637年にはキリシタン弾圧が一因となって島原の乱が起こりました。幕府はキリスト教徒がこうした大きな勢力になることを危惧、そのため徹底的に弾圧しようとしたのです。

参勤交代の影響で街道の宿場町は賑わうようになり、また旅をスムーズに行えるよう橋の建設など交通インフラも整備されたぞ。鎖国は1854年まで行われるが、開国のきっかけとなったのはペリーの黒船来航で、これを機に幕府の権威は失われていった。
蚊も殺せない生類憐みの令
第5代征夷大将軍・徳川綱吉の時代の頃には江戸幕府の政権は安定、そのため武力による武断政治ではなく法や道徳による文治政治を行うようになります。徳川綱吉は生類憐みの令を制定して殺生を禁じますが、これが徳川綱吉の評価を著しく下げてしまいました。
なぜなら、動物の殺生を禁じることは一見平和的に思えますが、その対象が魚類や貝類や昆虫にも及んだため庶民の生活に影響を与えてしまったからです。例えば、蚊を殺したことで島流しになるケースもありますし、金魚の飼育のためにも幕府への届け出が必要でした。
最も、江戸時代の初期には口減らしなどで捨て子が増加する問題が起こっていましたが、生類憐みの令によってこれが減少します。さらに病人は特別に無許可で駕籠に乗れる特例など、福祉にも力を入れていき、この生類憐みの令は徳川綱吉が死去するまで続きました。
享保、寛政、天保、江戸時代の三大改革
第8代征夷大将軍・徳川吉宗は、幕府の財政難への対処として1716年に享保の改革を行います。庶民の意見を聞くための目安箱の設置、贅沢を控える倹約令を出すなどの政策を行い、一時は幕府の経済にプラス効果をもたらしたものの、享保の大飢饉などが原因で改革は行き詰ってしまいました。
さらに1787年には幕府の老中・松平定信が寛政の改革を行います。飢饉の対策として米を倉に蓄える囲米の制など独自の政策を行い、享保の改革にならって倹約令も出しています。この改革は6年余りに及びましたが思ったほどの成果はなく、また庶民の反発も招いてしまいました。
そして1830年、諸藩で藩政改革が行われたこの年に幕府の老中・水野忠邦が天保の改革が行います。この改革では株仲間の解散などが行われ、享保の改革、寛政の改革、そしてこの天保の改革の3つの改革は江戸時代の三大改革と呼ばれているのです。

享保の改革と寛政の改革と天保の改革は区別しにくいだろう。区別するコツは年号の暗記はもちろん、改革を行った人物と独自の政策を覚えることだ。注意すべきなのは倹約令で、これは全ての改革で出されているため、区別する参考にはならないぞ。
\次のページで「外交問題、安政の大獄、桜田門外の変」を解説!/