日本史歴史鎌倉時代

3分で簡単「鎌倉新仏教」!各特徴を歴史マニアがわかりやすく解説

浄土教から浄土宗へ

民衆から多くの支持を得ていた浄土教は、戦乱続きの世の中で貴族たちの間へも広がっていきました。浄土教の思想では寺院は必要ありませんでしたが、支持層が貴族まで広がるとお寺が建てられ、阿弥陀如来の仏像が彫られるようになります。

平安時代中期ごろから仏像の需要が増え続けた結果、パーツを作って組み立てる寄木造の技術が確立されました。もともとあったのは一本の木を彫り出して作る一木造で、もし一刀でも失敗したら最初からやり直しになりますよね。対して寄木造は一体の像を同時に多数の仏師で効率的に制作できますから、一木造より納品が早く大量生産できたのです。現代だと、プラモデルを組み立てるような感じでしょうか。

このころになると浄土教は法然(ほうねん)上人のもとに浄土宗としてまとまりました。法然は比叡山天台宗の元で学んだ後、阿弥陀如来の誓願を信じ、人々に「南無阿弥陀仏」と念仏すれば死後は西方極楽浄土へ生まれ変われる「専修念仏」を説きます。

法然上人と承元の法難

ところが、元久元年(1204年)、延暦寺や興福寺から浄土宗の布教活動に待ったがかかったのです。専修念仏停止を求めた延暦寺が朝廷へ宛てた奏上には、「浄土宗は神明に背いている」「すぐに布教をやめさせ、従来の護国を祈る宗派を応援すべし」などと書かれていました。しかし、これに対する朝廷の協議はうやむやのうちに終わったため、布教停止とまではいきません。

問題はその後、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている折に、上皇が寵愛していた女房たちが法然の弟子を御所に招いて、出家までさせてしまったことです。その際に弟子と女房の不貞行為が疑われ、激怒した後鳥羽上皇は弟子四人を死罪、法然自身も讃岐(香川県)へ十ヶ月の流罪となったのでした。これを「承元の法難」といいます。

ところで流罪となった法然ですが、めげるどころか讃岐でもばんばん布教していきました。しかも御年75歳。宗教者の鑑ですね。高松市には生福寺(現・法然寺)が建立され、法然が作ったとされる阿弥陀如来立像が残されています。流罪を解かれ都に戻ってから亡くなるまでの間、法然は浄土宗の布教を続けていきました。

法然の弟子・親鸞の浄土真宗

法然の讃岐配流の際、怒りの収まらない後鳥羽上皇によってさらに七人の弟子が流罪にされてしまいます。その弟子の中のひとりが親鸞(しんらん)聖人です。連座で流刑にされるくらいですから、法然から親鸞への評価はとても高いものでした。しかし、びっくりするかもしれませんが、親鸞には奥さんがいたのです。あと肉食もしました。もちろん、この時代の僧侶の妻帯と肉食は社会的に許されていません。さらに、流刑先の越後国(新潟県)で恵信尼(えしんに)という女性と再婚し、四男三女をもうけています。流罪が許されたのちは、この家族や弟子と一緒に東国への布教活動へ二十年もの間尽力しました。

なぜ時代の常識に逆らって妻帯を続けながらも、親鸞は僧侶たりえたのか。その答えは、親鸞の教えのひとつ「悪人正機」にありました。

親鸞聖人が説いた「悪人正機」

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

これは「悪人正機」の一説です。意味は「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」。ちょっとややこしいのですが、引用の中の「悪人」とはいわゆる「罪を犯した人」でありません。「悪」とは、人間をはじめ欲を持つすべての生命のことで、「道徳的な意味での悪」ではなく、「生命の根源的にある悪」なのです。なので、「悪人」には画面の前にいるあなたや、これを書いている私も含まれます。そして、「善人」とはこの「根源にある悪」に対して無自覚で、自分の本当の姿が見えていない人間です。総合すると、「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、悪人だと自覚した人ならなおさら阿弥陀如来によって救われる」という解釈になりますね。

ただし、これは「欲望に忠実になりなさい」というメッセージではありません。親鸞は一般の人々と同じように肉食妻帯することで、煩悩に支配されたありのままの生命でも阿弥陀如来は見捨てずに必ず救い上げるのだと身をもって実践したのでした。

このようにして法然の教えを受け継いで発展させた親鸞。彼の死後、弟子たちは親鸞を開祖とした浄土真宗を開きます。親鸞自身が開いたのではありませんので、ここはお間違いなく。

踊って念仏、賦算を配布した時宗

藤沢市・清浄光寺の一遍像
By Utudanuki投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

浄土宗、浄土真宗の成立からしばらく経った鎌倉時代末期、一遍(いっぺん)上人もまた念仏による救済を唱えます。教義の真核は浄土宗とそう変わらないのに、なぜ一遍の時宗は区別されるのか?実は、同じように念仏を唱えていても、その信仰のあり方や思想に大きな違いがありました。

浄土宗では阿弥陀如来への信仰心の表れとして念仏を唱えます。たくさん唱える努力をした分だけ西方極楽浄土へ転生できる、という考え方。要は、どれだけ強い信心を持っているかを念仏で証明するんですね。一方、時宗は阿弥陀如来を信じていなくても、ともかく念仏を唱えれば西方極楽浄土へ行ける、と説きました。比べてみるとかなり違うでしょう?

一遍はこの教えを広めるべく、教団を率いて布教の旅に出ます。このとき一遍が行ったのが、太鼓や鉦を鳴らして踊りながら唱える踊念仏と、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた札「賦算」の配布でした。庶民が信仰しやすい浄土教系の中でもさらに易しい教義であり、一遍自身が全国を練り歩いたことで時宗は首都や地方関係なく多くの人々の間に浸透していきます。

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