「仏教」と一口で言ったところで、すべて同じわけじゃない。奈良時代に渡来して以来、日本だけでも時代に合わせていろんな宗派が勃興している。

今回は鎌倉時代に生まれた六つの「鎌倉新仏教」を歴史マニアのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経を中心に平安末期を調べるかたわら、日本の歴史と古くから密接な関係を持つ仏教について勉強していた。

平安から鎌倉へ移ろう日本の時代背景

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お釈迦様が亡くなって2000年経つと、仏教の教えは残れども正しく修行し、悟りに到達する人がいなくなる「末法の世」が訪れるとされていました。日本では平安時代中期ごろが末法の世にあたり、末期になると目に見えて都が荒れていきます。朝廷では鳥羽上皇が亡くなり、政権をめぐって崇徳上皇と後白河天皇の争いが始まりました。これはしばらくもしないうちに都の中を戦場にした保元の乱へと発展していきます。その後もわずか四年しか開けずに平治の乱、そして、平清盛による独裁政治が二十年。トドメとばかりに六年にも及ぶ源平合戦が続きます。都近くで起こった血生臭い争いは約350年前の藤原薬子の変(平城太上天皇の変)以来ですから、都の人々は初めて肌で戦争の空気を感じたことでしょう。源平合戦が始まり、木曽義仲が都入りするとますます京の町は荒れていきます。ちょうど芥川龍之介の『羅生門』のような雰囲気ですね。

浄土教の興隆と系譜

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古くから続く浄土教は平安中期から信仰者が増え、浄土宗が確立されました。その勢いは強く、政権が鎌倉幕府へと移った後も鎌倉新仏教に数えられ、現代まで脈々と受け継がれています。

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浄土教から浄土宗へ

民衆から多くの支持を得ていた浄土教は、戦乱続きの世の中で貴族たちの間へも広がっていきました。浄土教の思想では寺院は必要ありませんでしたが、支持層が貴族まで広がるとお寺が建てられ、阿弥陀如来の仏像が彫られるようになります。

平安時代中期ごろから仏像の需要が増え続けた結果、パーツを作って組み立てる寄木造の技術が確立されました。もともとあったのは一本の木を彫り出して作る一木造で、もし一刀でも失敗したら最初からやり直しになりますよね。対して寄木造は一体の像を同時に多数の仏師で効率的に制作できますから、一木造より納品が早く大量生産できたのです。現代だと、プラモデルを組み立てるような感じでしょうか。

このころになると浄土教は法然(ほうねん)上人のもとに浄土宗としてまとまりました。法然は比叡山天台宗の元で学んだ後、阿弥陀如来の誓願を信じ、人々に「南無阿弥陀仏」と念仏すれば死後は西方極楽浄土へ生まれ変われる「専修念仏」を説きます。

法然上人と承元の法難

ところが、元久元年(1204年)、延暦寺や興福寺から浄土宗の布教活動に待ったがかかったのです。専修念仏停止を求めた延暦寺が朝廷へ宛てた奏上には、「浄土宗は神明に背いている」「すぐに布教をやめさせ、従来の護国を祈る宗派を応援すべし」などと書かれていました。しかし、これに対する朝廷の協議はうやむやのうちに終わったため、布教停止とまではいきません。

問題はその後、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている折に、上皇が寵愛していた女房たちが法然の弟子を御所に招いて、出家までさせてしまったことです。その際に弟子と女房の不貞行為が疑われ、激怒した後鳥羽上皇は弟子四人を死罪、法然自身も讃岐(香川県)へ十ヶ月の流罪となったのでした。これを「承元の法難」といいます。

ところで流罪となった法然ですが、めげるどころか讃岐でもばんばん布教していきました。しかも御年75歳。宗教者の鑑ですね。高松市には生福寺(現・法然寺)が建立され、法然が作ったとされる阿弥陀如来立像が残されています。流罪を解かれ都に戻ってから亡くなるまでの間、法然は浄土宗の布教を続けていきました。

法然の弟子・親鸞の浄土真宗

法然の讃岐配流の際、怒りの収まらない後鳥羽上皇によってさらに七人の弟子が流罪にされてしまいます。その弟子の中のひとりが親鸞(しんらん)聖人です。連座で流刑にされるくらいですから、法然から親鸞への評価はとても高いものでした。しかし、びっくりするかもしれませんが、親鸞には奥さんがいたのです。あと肉食もしました。もちろん、この時代の僧侶の妻帯と肉食は社会的に許されていません。さらに、流刑先の越後国(新潟県)で恵信尼(えしんに)という女性と再婚し、四男三女をもうけています。流罪が許されたのちは、この家族や弟子と一緒に東国への布教活動へ二十年もの間尽力しました。

なぜ時代の常識に逆らって妻帯を続けながらも、親鸞は僧侶たりえたのか。その答えは、親鸞の教えのひとつ「悪人正機」にありました。

親鸞聖人が説いた「悪人正機」

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

これは「悪人正機」の一説です。意味は「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」。ちょっとややこしいのですが、引用の中の「悪人」とはいわゆる「罪を犯した人」でありません。「悪」とは、人間をはじめ欲を持つすべての生命のことで、「道徳的な意味での悪」ではなく、「生命の根源的にある悪」なのです。なので、「悪人」には画面の前にいるあなたや、これを書いている私も含まれます。そして、「善人」とはこの「根源にある悪」に対して無自覚で、自分の本当の姿が見えていない人間です。総合すると、「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、悪人だと自覚した人ならなおさら阿弥陀如来によって救われる」という解釈になりますね。

ただし、これは「欲望に忠実になりなさい」というメッセージではありません。親鸞は一般の人々と同じように肉食妻帯することで、煩悩に支配されたありのままの生命でも阿弥陀如来は見捨てずに必ず救い上げるのだと身をもって実践したのでした。

このようにして法然の教えを受け継いで発展させた親鸞。彼の死後、弟子たちは親鸞を開祖とした浄土真宗を開きます。親鸞自身が開いたのではありませんので、ここはお間違いなく。

踊って念仏、賦算を配布した時宗

藤沢市・清浄光寺の一遍像
By Utudanuki - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

浄土宗、浄土真宗の成立からしばらく経った鎌倉時代末期、一遍(いっぺん)上人もまた念仏による救済を唱えます。教義の真核は浄土宗とそう変わらないのに、なぜ一遍の時宗は区別されるのか?実は、同じように念仏を唱えていても、その信仰のあり方や思想に大きな違いがありました。

浄土宗では阿弥陀如来への信仰心の表れとして念仏を唱えます。たくさん唱える努力をした分だけ西方極楽浄土へ転生できる、という考え方。要は、どれだけ強い信心を持っているかを念仏で証明するんですね。一方、時宗は阿弥陀如来を信じていなくても、ともかく念仏を唱えれば西方極楽浄土へ行ける、と説きました。比べてみるとかなり違うでしょう?

一遍はこの教えを広めるべく、教団を率いて布教の旅に出ます。このとき一遍が行ったのが、太鼓や鉦を鳴らして踊りながら唱える踊念仏と、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた札「賦算」の配布でした。庶民が信仰しやすい浄土教系の中でもさらに易しい教義であり、一遍自身が全国を練り歩いたことで時宗は首都や地方関係なく多くの人々の間に浸透していきます。

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独創的な日蓮宗

法華宗は、かつて最澄が日本に伝来した「天台法華宗」と、日蓮上人を開祖とする「日蓮法華宗」のふたつが存在します。前者は平安二宗、後者が今回解説する鎌倉新仏教です。

お題目を唱えて即身成仏

「諸経の王」と呼ばれる「法華経」。日蓮宗では、お釈迦様に心から帰依して「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることで、今世で悟りを開いて仏になれるとされています。

ここでひとつワンポイントなのが、浄土宗系の「念仏」と法華宗系の「題目」は別物ということ。簡単に区別すると「念仏」は仏の名前を、「題目」は経典「法華経」の名称を唱えています。「南無~」は「~に帰依(信仰)しています」という意味なので、「~」の部分が「阿弥陀仏」か「妙法蓮華経」かで大きな違いになってくるんですね。

ところで、「お釈迦様に帰依して題目を唱えれば悟りを開ける」とは、どの経典にも書かれていません。阿弥陀如来に関してはたくさん書かれているんですけどね。これに対して開祖・日蓮は法華経の文章に隠されていると「文底秘沈」を主張しています。ここが日蓮宗の独創的なところのひとつです。

他のお経どころか、法華経すら否定する

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By 不明 - Daily Yomiuri, July 16, 2009 issue, パブリック・ドメイン, Link

もうひとつ独特なのが、日蓮は仏教の宗派を否定しているところ。けれど、ただただ他の宗派がダメと言っているのではありませんし、日蓮宗に勧誘しているわけでもないのです。

日蓮は「上野殿御返事」という手紙で「今は末法の世なので法華経も他のお経も無益で無意味。ただ南無妙法蓮華経だけなのです」と主張しています。自分たちの法華経さえも否定するなんて、他の宗派ではなかなか見ない主張ですね。

排他的な意見を主張する日蓮は、ただ口で言うだけに留まりません。『立正安国論』を書き上げると、それを鎌倉幕府の執権・北条時頼に提出します。そこで日蓮は他の宗派を名指しで邪宗と非難しました。そして「このまま放置し続けると内乱や他国からの侵略を受けるだろう。だから、法華経を国家の中心に据えなさい」と予言交じりに書かれていたのです。

「松葉ヶ谷法難」に遭うも日蓮の予言的中

ボロボロに言われた他の宗派だって黙っているわけがありません。『立正安国論』の内容はすぐに幕府の外へ伝わってしまい、激怒した他宗派の信徒に襲撃される「松葉ヶ谷法難」が起こります。しかも、禅宗を信仰していた北条時頼からも『立正安国論』が政治批判と見なされ、日蓮は伊豆へ流罪となりました。

しかし、北条時頼が亡くなった五年後、モンゴル帝国からの侵略が始まり(元寇)、北条家内の家督争い、朝廷内でも上皇と天皇の対立が続いて内乱の兆しが深まります。『立正安国論』の予言が当たったんですね。それ見たことかと日蓮はさらに改訂した『立正安国論』を再提出し、権力に屈しない構えを見せます。が、それで今度は佐渡国に流罪です。

その後は日蓮は許されて鎌倉に戻りますが、深く信心を抱いたものの寄進によって山梨県の久遠寺に移りました。

禅を組む禅宗から臨済宗と曹洞宗

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座禅を組むことを修行の基本とする禅宗はインドから中国へ渡った達磨(だるま)大師を祖とします。「だるま」は皆さんご存知、何かを祈願するときに目を書き入れるあの赤くて丸いダルマ人形です。ダルマ人形に手足がないのは、達磨大師が壁に向かって九年もの間座禅を行い、手足が腐り落ちるという壮絶な修行の証でした。

禅宗で悟りを得るためには必ず出家しなければなりませんし、経典よりも座禅を重要視しています。そして、師匠から弟子へ悟りの伝達が行われました。最初に解説した浄土宗とは真逆の考え方にあたりますね。

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臨済宗はソモサンセッパで考える

臨済宗の開祖・栄西(えいさい)は宋で禅を学び、臨済禅を日本に持ち帰りました。このとき、お茶の種を持ち帰り、お茶は健康に良いと広めたのも栄西です。

ところで、「禅を組む」と一口に言っても、「禅を組んで何をするか」は宗派によって違います。臨済宗では座禅を組みながら師匠の与える問題に弟子が答えていき、問答をしていくうちにやがて弟子は悟りへ至るのです。この対話形式の禅を「看話禅」と呼びます。

アニメ「一休さん」の元となった一休宗純は室町時代の臨済宗の僧侶でした。アニメで一休さんは和尚に問題を出されるとき、和尚は「ソモサン」と言い一休さんが「セッパ」と返しますよね。ともに宋の俗語で、「ソモサン(什麼生)」は「さあどうだ、答えてみろ」。「セッパ(説破)」は「答えてやる」。これで一休さんはとんちの利いた答えを導き出すのですが、このような問答こそが臨済宗の座禅なのです。

厳しいスタイルが武士たちと結びつく

九州で臨済宗の布教に努めていた栄西は1194年の夏、関白・九条兼実に呼び出され京の都に赴いたことがあります。浄土宗の時と同じように延暦寺からの訴えで、朝廷は栄西に布教をやめさせようとしていたのです。ところが、栄西は法然と違い、臨済宗は従来の仏教に背くものではなく、天皇を上にして禅を以て国を護ると答えました。そうして、栄西は臨済宗が都で受け入れられないことを察すると、鎌倉の将軍・源頼家に禅を説いて幕府からの庇護を得たのです。

手足を失った達磨大師や、入門時に覚悟の表れとして左腕を切り落とした弟子の慧可(えか)など、禅宗にはかなり刺激の強い話が残されています。しかし、このストイックさが当時の厳しい武士社会に受け入れられ、武士たちは座禅を大切にするようになりました。

粛々と座禅を組む曹洞宗

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日本における曹洞宗の開祖・道元は、もともとは臨済宗の僧でした。しかし、彼は師匠と共に宋へ渡り、曹洞宗の天道如浄の許で真理を悟ると、帰国後に日本で曹洞宗を開きます。そして、道元は自分の曹洞宗こそが唯一正しい教えなのだと排他的な考えを示しました。 

また、座禅を組むところは臨済宗と同じように思えますが、そこからは真反対の方法で悟りを目指します。臨済宗の看話禅に対し、曹洞宗はただ黙々と座すことで、人間にもともと備わっている悟りを得る力「仏性」が現れるというのです。黙して座禅を組むので「黙照禅」と呼ばれます。

鎌倉幕府の上級武士たちに指示された臨済宗に対し、曹洞宗は地方の武家や豪族、一般市民に広がりました。

目指すところは「悟り」だけど……

浄土教から生まれた浄土宗、浄土真宗、時宗は阿弥陀如来の力で西方極楽浄土へ生まれ変わって仏になります。誰でも念仏を唱えれば往生できる、というところが特徴ですね。日蓮宗はちょっと独特で、お題目を唱えます。禅宗系統の臨済宗と曹洞宗は座禅を組みますが、師匠と弟子が対話する臨済宗と、黙々とひとり座す曹洞宗。

まとめてみると、同じ系譜にあっても心の在り方、方法などがまったく違いますね。それまで政治の中心であった朝廷と対峙する鎌倉幕府の宗教の変革でもありました。

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日本史歴史鎌倉時代

3分で簡単「鎌倉新仏教」!各特徴を歴史マニアがわかりやすく解説

「仏教」と一口で言ったところで、すべて同じわけじゃない。奈良時代に渡来して以来、日本だけでも時代に合わせていろんな宗派が勃興している。

今回は鎌倉時代に生まれた六つの「鎌倉新仏教」を歴史マニアのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経を中心に平安末期を調べるかたわら、日本の歴史と古くから密接な関係を持つ仏教について勉強していた。

平安から鎌倉へ移ろう日本の時代背景

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お釈迦様が亡くなって2000年経つと、仏教の教えは残れども正しく修行し、悟りに到達する人がいなくなる「末法の世」が訪れるとされていました。日本では平安時代中期ごろが末法の世にあたり、末期になると目に見えて都が荒れていきます。朝廷では鳥羽上皇が亡くなり、政権をめぐって崇徳上皇と後白河天皇の争いが始まりました。これはしばらくもしないうちに都の中を戦場にした保元の乱へと発展していきます。その後もわずか四年しか開けずに平治の乱、そして、平清盛による独裁政治が二十年。トドメとばかりに六年にも及ぶ源平合戦が続きます。都近くで起こった血生臭い争いは約350年前の藤原薬子の変(平城太上天皇の変)以来ですから、都の人々は初めて肌で戦争の空気を感じたことでしょう。源平合戦が始まり、木曽義仲が都入りするとますます京の町は荒れていきます。ちょうど芥川龍之介の『羅生門』のような雰囲気ですね。

浄土教の興隆と系譜

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古くから続く浄土教は平安中期から信仰者が増え、浄土宗が確立されました。その勢いは強く、政権が鎌倉幕府へと移った後も鎌倉新仏教に数えられ、現代まで脈々と受け継がれています。

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