
周瑜の死後、その主人である孫権は酷く嘆いた

兄のように慕った周瑜の死に孫権は大いに嘆きました。孫権は建業に戻ってくる周瑜の亡骸を自ら出迎え、手厚く葬ったそうです。そして彼の子女らも孫権の親戚達と婚姻関係を結びました。
周瑜の後は彼と親交が深かった魯粛が、大督の地位につきました。そして荊州攻略は頓挫し、劉備軍との共存戦略がとられたのです。
その呉孫権は、229年呉の国を建国し『呉帝』となります。その際には「周瑜がいなければここまで来られなかった」という言葉を残しているのです。
武将「周瑜」の評価
武将「周瑜」はその才から、各国の英雄たちに畏怖されていました。それに纏わる逸話がたくさん残っています。
曹操は、何度も使者を送り周瑜の引き抜きを図っていました。
劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を仲違いさせようとしています。
周瑜は人心を掴むことに非常に長けていました。それを表す逸話として、唯一彼を邪険にしたのが、孫堅よりの古参武将「程普」(ていふ)です。しかし、周瑜はそんな程普に対しても常に膝を折り譲り続けたため、程普もとうとう感服しました。「周瑜はまるで酒のような男だ、どんな人物でも酔わせてしまう」と残しています。
周瑜は、音楽にも造詣の深い人物でした。宴の席で酒盃が三度回った時でも、音の間違いに即座に気付き指摘していたそうです。そのため『曲に誤りあれば周郎が振り向く』と持てはやされました。
君主である孫権からの信頼も、比肩する者はいなかったそうです。度々周瑜に衣服を送っており、百着を超えていました。諸将でこれほどの厚遇にあった武将はいませんでした。
魅力に溢れた武将「周瑜」
周瑜がいなければ呉の国はあり得ませんでした。戦いでも内政でも、その才を発揮していたようです。36年というあまりにも短い一生、彼が長生きしていれば、呉が天下を治めることも十分あり得たのではないかと思います。
三国志演義では、諸葛亮の当て馬のような扱いをされてしまっているのですが、周瑜の魅力は多岐に渡るのです。
容姿・武勇・知略・芸術・人心掌握・そして先を見通す力など、歴史にもしもはありませんが、もし彼自身が挙兵していたら…などと考えられるのも、歴史を楽しむ上では重要なポイントではないでしょうか。