
周瑜を兄のように慕う孫権、一方北より曹操の大軍が迫る
河北の覇権をかけた『官渡の戦い』を制したのは曹操でした。勢い増す曹操は、孫権の元に使者を差し向け、人質を送るよう迫りました。孫権は、配下に議論させ意見を求めましたが、どの配下もはっきりとした答えは出せなかったのです。そうすると孫権は、周瑜を連れ母である呉氏の元を訪れ意見を求めました。呉氏・そして周瑜も人質は送るべきではないと述べ、孫権はその意見に従うことにしたのです。このエピソードから、孫権の周瑜への信頼の厚さが伺えますね。呉氏もまた、周瑜を兄として慕うよう伝えたといいます。
曹操の使者を跳ね除けた孫権は、周瑜らと共に江東のさらなる地盤の強化に移りました。江夏太守である「黄祖」(こうそ)討伐に臨みます。その最中、黄祖配下の「甘寧」(かんねい)ら有能な武将を引き入れることにも成功しました。そしてこの功績により、周瑜は『前部大督』(前線の総司令)に任命されたのです。
208年、ついに曹操が動き出しました。『荊州』(けいしゅう・三国の中央地点)に侵攻し「劉琮」(りゅうそう)を降伏させたのです。いよいよ曹操が迫った孫権軍内部では、降伏派と、抗戦派に意見がわかれてしまいます。
降伏派は、曹操率いる大軍と、荊州の前当主であった「劉表」(りゅうひょう)が保有していた荊州水軍の存在を上げていました。
抗戦派は、もちろん周瑜が筆頭です。献帝を軟禁している曹操を漢の族と呼び、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の有利を訴えます。
双方の意見を聞いた孫権が下した決断は、抗戦です。
いよいよ『赤壁の戦い』決戦の時、周瑜の考えとは
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孫権は数万の兵士を周瑜に与え、曹操から逃げ延びてきた劉備と共に曹操軍に当たらせます。すると、周瑜の読み通りでした。曹操軍内部は、疫病の蔓延により崩壊しており、たった一度の戦闘で、長江北岸へと撤退を始めました。
次に周瑜は南岸に布陣し、黄蓋の進言により火計を実行します。投降を偽装した黄蓋が敵船に近づき、火を放つとあっという間に燃え広がり、曹操軍は壊滅してしまうのです。これにより勝負は決しました。曹操は命からがら北方へと撤退していくのです。
この『赤壁の戦い』の最中、周瑜はとある事に気付きます。それは、劉備軍の軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)の存在です。いち早く諸葛亮の才に気付いた周瑜は、何度も彼を排除しようと動きました。それは戦の最中でも変わりません。しかし、諸葛亮の方が一枚上手だったのでしょう。のらりくらりと交わされ、結局『赤壁の戦い』終結までに決着はつきませんでした。
周瑜と諸葛亮による軍師同士の探り合い、駆け引きも『赤壁の戦い』と同時に行われていたと考えるとワクワクしますね。
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勢いを増した孫権軍は、荊州攻略へと乗り出す

『赤壁の戦い』で曹操軍を破った孫権は、その勢いのまま『荊州』に狙いを定めます。荊州は三国の中央に位置する土地であり、荊州攻略は、天下を狙うためには必須だったのです。この『荊州』という土地は、三国志において最もと言えるほどに重要な地点であり、今後も何度も登場する地になります。
この時点では、荊州は曹操の手中にありました。しかし『赤壁の戦い』で多大な損害を被った曹操軍に、荊州の防衛に割ける兵力は殆どありませんでした。それでも荊州の『江陵』(こうりょう)というところに守戦に長けた武将『曹仁』(そうじん)を布陣させます。
孫権軍の狙いもまさにこの『江陵』でした。周瑜は呂蒙や甘寧といった武将を引き連れ、曹仁を打ち破りました。この時曹仁は数万の兵士を失ったといわれています。なんとこの時周瑜は、脇腹に矢を受け重症のまま曹仁を退けていたのです。
周瑜はこの戦いの功績から、偏将軍に任命され『南郡』(なんぐん・江陵よりさらに大きな一帯のこと)太守の職務にあたりました。ここを拠点とし、さらに荊州攻略を推し進めようとしたのです。
勢い増す孫権軍に、劉備が謁見を申し入れてきました。これを好機と見た周瑜は、劉備の配下である猛将「関羽」(かんう)と「張飛」(ちょうひ)を分断する策を献策します。しかし孫権は、今はまだ曹操に対抗するために多くの勢力が必要だと考え、その策を採用する事はなかったそうです。これもまた諸葛亮の策であったかと思われます。
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争乱の最中での周瑜の死
荊州攻略の最中、周瑜は急死します。
周瑜は何度も孫権に、劉備の危険性を呼びかけたようです。それは劉備というよりも、その配下であった猛将達や、何より稀代の軍師「諸葛亮」の危険性を訴えていたのでしょう。孫権軍が天下を取るには、曹操よりも諸葛亮がその障壁になると考えていたのではないでしょうか。
この周瑜の死についてですが、諸説あるのです。江陵に攻め入った時の戦で受けた矢に毒が塗ってあった、孫権との会談の後、何郡に戻る途中『巴丘』(はきゅう)という土地で病を発病した、などがあります。
また『三国志演義』での脚色ですが、諸葛亮からの手紙を読み、怒りのあまり「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ」と憤死してしまうのです。よほど挑発的な内容だったのでしょうか。
この時の周瑜は、36歳でした。あまりにも短い一生です。
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