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【三国志】孫呉の大督であり美周郎と謳われた「周瑜」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は、『赤壁の戦い』で活躍した呉の大督「周瑜」について、勉強していこう。主人「孫策」とは同年であり、その江東平定を支えた。孫策の死後も呉のため戦い続け、『赤壁の戦い』ではその知略で曹操の大軍を退ける奇跡を起こした。そこから「周瑜」の最後の時までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「周瑜」について、わかりやすくまとめた。

生まれは『揚州』。親友「孫策」との関係

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By 不明http://members.shaw.ca/jiuwan4/ZhouYu.jpg, パブリック・ドメイン, Link

 「周瑜」(しゅうゆ)の生まれは、『揚州』(ようしゅう)『廬江郡』(ろこうぐん)という所で、字は「公瑾」(こうきん)といいます。

 周瑜について勉強する上でまず欠かせないのが『断金の交わり』(熱い金をも絶つ仲の良さ)という故事も生まれた「孫策」(そんさく)です。周瑜と孫策は、出身地も生年も同じ、さらには娶った妻が姉妹であるなど、共通点だらけの二人でした。

 この二人は、三国志には珍しく容姿についての記述が抜きんでて多いのです。孫策と周瑜の二人は男前であったという記述が多く、周瑜にいたっては『美周郎』(びしゅうろう・周家の美男子)という通称がつくほどくらいでした。

 そんな周瑜の家はまさに名家といえるものです。従祖父「周景」(しゅうけい)は後漢王朝の三公の一つ「太尉」(たいい)に任命されており、その息子「周忠」(しゅうちゅう)も優秀な人で、彼もまた太尉に任命されていました。彼らはこの時に荀家や袁家とも交流があったといわれ、まさに周瑜は三国時代においての名家の人間だったのです。

「周家」と「孫家」の交流

image by PIXTA / 34292294

 しかし、周瑜と孫策は、生まれた時から交流があったわけではありませんでした。両家の関係が始まったのは、当時の孫家の当主「孫堅」(そんけん)が反董卓連合軍に参加した時です。孫堅は家族と共に『舒』(じょ)に移り住む事にしました。その時に周家から家を譲り受けたそうです。

 ここから周家と孫家の家族ぐるみの付き合いが始まりました。そして必然的に同い年だった周瑜と孫策は、仲が良くなったのでしょう。

 しかし、何故周家は孫堅に家をまるごと一件も与えるような厚遇をしたのでしょうか。それにはは当時の情勢や、「袁術」(えんじゅつ)が関係していると思われます。

 この時孫堅は袁術の配下であり、その働きによって袁術が『南陽郡太守』(なんようぐんたいしゅ)になっていたのです。さらに遡ると、袁家と周家は密接な主従関係にあったり、周景が大尉に任命された背景には袁家の推挙があったり、董卓によって両家ともに処刑された人物がいるなど、その交流は密接であったと思われます。そこから、袁術配下の孫堅が住居を移す際に、袁術が周家に申し伝えておいた、とは考えられないでしょうか。周家としても、袁家の依頼をこなす事による打算が少なからずあったのではないかと思われます。

 これの論拠としては、孫堅が敗死するや孫策は江東に向かっており、周家の助成が途絶えたように見えるのです。その後、孫策は父同様、袁術に配下に納まっていきました。

「孫策」の『江東平定』

 袁術の指揮下に留まった事で、孫策は何とか拠って立つ地盤を手に入れました。そして、袁術に吸収されていた孫堅時代の配下、「韓当」(かんとう)、「黄蓋」(こうがい)、「朱治」(しゅち)、「程普」(ていふ)のような古参の武将を取り戻す事に成功したのです。

 この時期に周瑜と孫策の交流は再開します。袁術配下として江東方面に進軍していた孫策は、その軍勢を数万に増やしついには、独力で呉を攻略することに成功しました。その時、周瑜は後に呉の重鎮となる「魯粛」(ろしゅく)と親交を結び、呉への亡命にも同行させたのです。

 孫策は、そんな周瑜を歓迎すると「権威中郎将」(けんいちゅうろうじょう)に任命し、兵士と騎馬を与えました。さらには楽隊や住居までを与えるなど、その待遇は並外れていたといいます。孫策はかつて周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだまだ足りないと述べていました。

 この孫策の代は、周りの豪族たちを制圧するのに戦い続けていた時代です。孫堅時代の猛将たちの活躍が目覚ましかったようですが、その中には未だ二十歳前後だった周瑜の姿もありました。孫策軍の勢いは凄まじくその江東平定はあっという間の出来事だったそうです。

「孫策」の死、悲しみに暮れる周瑜はその弟「孫権」を補佐する

 200年4月、孫策は急死します。破竹の勢いで江東を平定した孫策でしたが、それは武力によるものでした。その過程で数々の恨みを買ってしまい、刺客の手にかかり死亡してしまうのです。

 孫策を失った軍内は、特に周瑜は深く嘆きましたが、その時北では「曹操」(そうそう)と「袁紹」(えんしょう)による『官渡の戦い』が行われていました。この戦いに勝った者は河北の覇者となり、天下の半分を治めます。すぐに軍内を立て直されければと、孫策の弟「孫権」(そんけん)を後継者としました。

 しかし諸将の中には、未だ若い孫権を軽んじる者もいたのです。そんな中周瑜は、率先して臣下としての礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになっていきました。この時、魯粛も孫権の元を離れ母親の元へ戻ろうと考えていたのです。周瑜はそんな魯粛へ、孫権の君主としての才をアピールし、説得に成功しました。これにより魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、改めて孫権に士官しました。

 ここで周瑜がいなければ、魯粛も諸将も従うことはなく、孫家があれほど強大な勢力になることはなかったでしょう。周瑜は外でも内でも呉のために戦い続けた人物なのです。

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周瑜を語るうえで外せない「孫策」との絆から始まった縁は、孫家・呉を築き支えたものとなっていったんだ。

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