今日は、『赤壁の戦い』で活躍した呉の大督「周瑜」について、勉強していこう。主人「孫策」とは同年であり、その江東平定を支えた。孫策の死後も呉のため戦い続け、『赤壁の戦い』ではその知略で曹操の大軍を退ける奇跡を起こした。そこから「周瑜」の最後の時までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「周瑜」について、わかりやすくまとめた。

生まれは『揚州』。親友「孫策」との関係

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 「周瑜」(しゅうゆ)の生まれは、『揚州』(ようしゅう)『廬江郡』(ろこうぐん)という所で、字は「公瑾」(こうきん)といいます。

 周瑜について勉強する上でまず欠かせないのが『断金の交わり』(熱い金をも絶つ仲の良さ)という故事も生まれた「孫策」(そんさく)です。周瑜と孫策は、出身地も生年も同じ、さらには娶った妻が姉妹であるなど、共通点だらけの二人でした。

 この二人は、三国志には珍しく容姿についての記述が抜きんでて多いのです。孫策と周瑜の二人は男前であったという記述が多く、周瑜にいたっては『美周郎』(びしゅうろう・周家の美男子)という通称がつくほどくらいでした。

 そんな周瑜の家はまさに名家といえるものです。従祖父「周景」(しゅうけい)は後漢王朝の三公の一つ「太尉」(たいい)に任命されており、その息子「周忠」(しゅうちゅう)も優秀な人で、彼もまた太尉に任命されていました。彼らはこの時に荀家や袁家とも交流があったといわれ、まさに周瑜は三国時代においての名家の人間だったのです。

「周家」と「孫家」の交流

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 しかし、周瑜と孫策は、生まれた時から交流があったわけではありませんでした。両家の関係が始まったのは、当時の孫家の当主「孫堅」(そんけん)が反董卓連合軍に参加した時です。孫堅は家族と共に『舒』(じょ)に移り住む事にしました。その時に周家から家を譲り受けたそうです。

 ここから周家と孫家の家族ぐるみの付き合いが始まりました。そして必然的に同い年だった周瑜と孫策は、仲が良くなったのでしょう。

 しかし、何故周家は孫堅に家をまるごと一件も与えるような厚遇をしたのでしょうか。それにはは当時の情勢や、「袁術」(えんじゅつ)が関係していると思われます。

 この時孫堅は袁術の配下であり、その働きによって袁術が『南陽郡太守』(なんようぐんたいしゅ)になっていたのです。さらに遡ると、袁家と周家は密接な主従関係にあったり、周景が大尉に任命された背景には袁家の推挙があったり、董卓によって両家ともに処刑された人物がいるなど、その交流は密接であったと思われます。そこから、袁術配下の孫堅が住居を移す際に、袁術が周家に申し伝えておいた、とは考えられないでしょうか。周家としても、袁家の依頼をこなす事による打算が少なからずあったのではないかと思われます。

 これの論拠としては、孫堅が敗死するや孫策は江東に向かっており、周家の助成が途絶えたように見えるのです。その後、孫策は父同様、袁術に配下に納まっていきました。

「孫策」の『江東平定』

 袁術の指揮下に留まった事で、孫策は何とか拠って立つ地盤を手に入れました。そして、袁術に吸収されていた孫堅時代の配下、「韓当」(かんとう)、「黄蓋」(こうがい)、「朱治」(しゅち)、「程普」(ていふ)のような古参の武将を取り戻す事に成功したのです。

 この時期に周瑜と孫策の交流は再開します。袁術配下として江東方面に進軍していた孫策は、その軍勢を数万に増やしついには、独力で呉を攻略することに成功しました。その時、周瑜は後に呉の重鎮となる「魯粛」(ろしゅく)と親交を結び、呉への亡命にも同行させたのです。

 孫策は、そんな周瑜を歓迎すると「権威中郎将」(けんいちゅうろうじょう)に任命し、兵士と騎馬を与えました。さらには楽隊や住居までを与えるなど、その待遇は並外れていたといいます。孫策はかつて周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだまだ足りないと述べていました。

 この孫策の代は、周りの豪族たちを制圧するのに戦い続けていた時代です。孫堅時代の猛将たちの活躍が目覚ましかったようですが、その中には未だ二十歳前後だった周瑜の姿もありました。孫策軍の勢いは凄まじくその江東平定はあっという間の出来事だったそうです。

「孫策」の死、悲しみに暮れる周瑜はその弟「孫権」を補佐する

 200年4月、孫策は急死します。破竹の勢いで江東を平定した孫策でしたが、それは武力によるものでした。その過程で数々の恨みを買ってしまい、刺客の手にかかり死亡してしまうのです。

 孫策を失った軍内は、特に周瑜は深く嘆きましたが、その時北では「曹操」(そうそう)と「袁紹」(えんしょう)による『官渡の戦い』が行われていました。この戦いに勝った者は河北の覇者となり、天下の半分を治めます。すぐに軍内を立て直されければと、孫策の弟「孫権」(そんけん)を後継者としました。

 しかし諸将の中には、未だ若い孫権を軽んじる者もいたのです。そんな中周瑜は、率先して臣下としての礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになっていきました。この時、魯粛も孫権の元を離れ母親の元へ戻ろうと考えていたのです。周瑜はそんな魯粛へ、孫権の君主としての才をアピールし、説得に成功しました。これにより魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、改めて孫権に士官しました。

 ここで周瑜がいなければ、魯粛も諸将も従うことはなく、孫家があれほど強大な勢力になることはなかったでしょう。周瑜は外でも内でも呉のために戦い続けた人物なのです。

\次のページで「周瑜を兄のように慕う孫権、一方北より曹操の大軍が迫る」を解説!/

周瑜を兄のように慕う孫権、一方北より曹操の大軍が迫る

 河北の覇権をかけた『官渡の戦い』を制したのは曹操でした。勢い増す曹操は、孫権の元に使者を差し向け、人質を送るよう迫りました。孫権は、配下に議論させ意見を求めましたが、どの配下もはっきりとした答えは出せなかったのです。そうすると孫権は、周瑜を連れ母である呉氏の元を訪れ意見を求めました。呉氏・そして周瑜も人質は送るべきではないと述べ、孫権はその意見に従うことにしたのです。このエピソードから、孫権の周瑜への信頼の厚さが伺えますね。呉氏もまた、周瑜を兄として慕うよう伝えたといいます。

 曹操の使者を跳ね除けた孫権は、周瑜らと共に江東のさらなる地盤の強化に移りました。江夏太守である「黄祖」(こうそ)討伐に臨みます。その最中、黄祖配下の「甘寧」(かんねい)ら有能な武将を引き入れることにも成功しました。そしてこの功績により、周瑜は『前部大督』(前線の総司令)に任命されたのです。

 208年、ついに曹操が動き出しました。『荊州』(けいしゅう・三国の中央地点)に侵攻し「劉琮」(りゅうそう)を降伏させたのです。いよいよ曹操が迫った孫権軍内部では、降伏派と、抗戦派に意見がわかれてしまいます。

 降伏派は、曹操率いる大軍と、荊州の前当主であった「劉表」(りゅうひょう)が保有していた荊州水軍の存在を上げていました。

 抗戦派は、もちろん周瑜が筆頭です。献帝を軟禁している曹操を漢の族と呼び、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の有利を訴えます。

 双方の意見を聞いた孫権が下した決断は、抗戦です。

いよいよ『赤壁の戦い』決戦の時、周瑜の考えとは

赤壁古戦場(赤壁市)
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 孫権は数万の兵士を周瑜に与え、曹操から逃げ延びてきた劉備と共に曹操軍に当たらせます。すると、周瑜の読み通りでした。曹操軍内部は、疫病の蔓延により崩壊しており、たった一度の戦闘で、長江北岸へと撤退を始めました。

 次に周瑜は南岸に布陣し、黄蓋の進言により火計を実行します。投降を偽装した黄蓋が敵船に近づき、火を放つとあっという間に燃え広がり、曹操軍は壊滅してしまうのです。これにより勝負は決しました。曹操は命からがら北方へと撤退していくのです。

 この『赤壁の戦い』の最中、周瑜はとある事に気付きます。それは、劉備軍の軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)の存在です。いち早く諸葛亮の才に気付いた周瑜は、何度も彼を排除しようと動きました。それは戦の最中でも変わりません。しかし、諸葛亮の方が一枚上手だったのでしょう。のらりくらりと交わされ、結局『赤壁の戦い』終結までに決着はつきませんでした。

 周瑜と諸葛亮による軍師同士の探り合い、駆け引きも『赤壁の戦い』と同時に行われていたと考えるとワクワクしますね。

勢いを増した孫権軍は、荊州攻略へと乗り出す

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 『赤壁の戦い』で曹操軍を破った孫権は、その勢いのまま『荊州』に狙いを定めます。荊州は三国の中央に位置する土地であり、荊州攻略は、天下を狙うためには必須だったのです。この『荊州』という土地は、三国志において最もと言えるほどに重要な地点であり、今後も何度も登場する地になります。

 この時点では、荊州は曹操の手中にありました。しかし『赤壁の戦い』で多大な損害を被った曹操軍に、荊州の防衛に割ける兵力は殆どありませんでした。それでも荊州の『江陵』(こうりょう)というところに守戦に長けた武将『曹仁』(そうじん)を布陣させます。

 孫権軍の狙いもまさにこの『江陵』でした。周瑜は呂蒙や甘寧といった武将を引き連れ、曹仁を打ち破りました。この時曹仁は数万の兵士を失ったといわれています。なんとこの時周瑜は、脇腹に矢を受け重症のまま曹仁を退けていたのです。

 周瑜はこの戦いの功績から、偏将軍に任命され『南郡』(なんぐん・江陵よりさらに大きな一帯のこと)太守の職務にあたりました。ここを拠点とし、さらに荊州攻略を推し進めようとしたのです。

 勢い増す孫権軍に、劉備が謁見を申し入れてきました。これを好機と見た周瑜は、劉備の配下である猛将「関羽」(かんう)と「張飛」(ちょうひ)を分断する策を献策します。しかし孫権は、今はまだ曹操に対抗するために多くの勢力が必要だと考え、その策を採用する事はなかったそうです。これもまた諸葛亮の策であったかと思われます。

争乱の最中での周瑜の死

 荊州攻略の最中、周瑜は急死します。

 周瑜は何度も孫権に、劉備の危険性を呼びかけたようです。それは劉備というよりも、その配下であった猛将達や、何より稀代の軍師「諸葛亮」の危険性を訴えていたのでしょう。孫権軍が天下を取るには、曹操よりも諸葛亮がその障壁になると考えていたのではないでしょうか。

 この周瑜の死についてですが、諸説あるのです。江陵に攻め入った時の戦で受けた矢に毒が塗ってあった、孫権との会談の後、何郡に戻る途中『巴丘』(はきゅう)という土地で病を発病した、などがあります。

 また『三国志演義』での脚色ですが、諸葛亮からの手紙を読み、怒りのあまり「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ」と憤死してしまうのです。よほど挑発的な内容だったのでしょうか。

 この時の周瑜は、36歳でした。あまりにも短い一生です。

\次のページで「周瑜の死後、その主人である孫権は酷く嘆いた」を解説!/

周瑜の死後、その主人である孫権は酷く嘆いた

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 兄のように慕った周瑜の死に孫権は大いに嘆きました。孫権は建業に戻ってくる周瑜の亡骸を自ら出迎え、手厚く葬ったそうです。そして彼の子女らも孫権の親戚達と婚姻関係を結びました。

 周瑜の後は彼と親交が深かった魯粛が、大督の地位につきました。そして荊州攻略は頓挫し、劉備軍との共存戦略がとられたのです。

 その呉孫権は、229年呉の国を建国し『呉帝』となります。その際には「周瑜がいなければここまで来られなかった」という言葉を残しているのです。

武将「周瑜」の評価

 武将「周瑜」はその才から、各国の英雄たちに畏怖されていました。それに纏わる逸話がたくさん残っています。

 曹操は、何度も使者を送り周瑜の引き抜きを図っていました。

 劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を仲違いさせようとしています。

 周瑜は人心を掴むことに非常に長けていました。それを表す逸話として、唯一彼を邪険にしたのが、孫堅よりの古参武将「程普」(ていふ)です。しかし、周瑜はそんな程普に対しても常に膝を折り譲り続けたため、程普もとうとう感服しました。「周瑜はまるで酒のような男だ、どんな人物でも酔わせてしまう」と残しています。

 周瑜は、音楽にも造詣の深い人物でした。宴の席で酒盃が三度回った時でも、音の間違いに即座に気付き指摘していたそうです。そのため『曲に誤りあれば周郎が振り向く』と持てはやされました。

 君主である孫権からの信頼も、比肩する者はいなかったそうです。度々周瑜に衣服を送っており、百着を超えていました。諸将でこれほどの厚遇にあった武将はいませんでした。

魅力に溢れた武将「周瑜」

周瑜がいなければ呉の国はあり得ませんでした。戦いでも内政でも、その才を発揮していたようです。36年というあまりにも短い一生、彼が長生きしていれば、呉が天下を治めることも十分あり得たのではないかと思います。

三国志演義では、諸葛亮の当て馬のような扱いをされてしまっているのですが、周瑜の魅力は多岐に渡るのです。

容姿・武勇・知略・芸術・人心掌握・そして先を見通す力など、歴史にもしもはありませんが、もし彼自身が挙兵していたら…などと考えられるのも、歴史を楽しむ上では重要なポイントではないでしょうか。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

【三国志】孫呉の大督であり美周郎と謳われた「周瑜」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、『赤壁の戦い』で活躍した呉の大督「周瑜」について、勉強していこう。主人「孫策」とは同年であり、その江東平定を支えた。孫策の死後も呉のため戦い続け、『赤壁の戦い』ではその知略で曹操の大軍を退ける奇跡を起こした。そこから「周瑜」の最後の時までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「周瑜」について、わかりやすくまとめた。

生まれは『揚州』。親友「孫策」との関係

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 「周瑜」(しゅうゆ)の生まれは、『揚州』(ようしゅう)『廬江郡』(ろこうぐん)という所で、字は「公瑾」(こうきん)といいます。

 周瑜について勉強する上でまず欠かせないのが『断金の交わり』(熱い金をも絶つ仲の良さ)という故事も生まれた「孫策」(そんさく)です。周瑜と孫策は、出身地も生年も同じ、さらには娶った妻が姉妹であるなど、共通点だらけの二人でした。

 この二人は、三国志には珍しく容姿についての記述が抜きんでて多いのです。孫策と周瑜の二人は男前であったという記述が多く、周瑜にいたっては『美周郎』(びしゅうろう・周家の美男子)という通称がつくほどくらいでした。

 そんな周瑜の家はまさに名家といえるものです。従祖父「周景」(しゅうけい)は後漢王朝の三公の一つ「太尉」(たいい)に任命されており、その息子「周忠」(しゅうちゅう)も優秀な人で、彼もまた太尉に任命されていました。彼らはこの時に荀家や袁家とも交流があったといわれ、まさに周瑜は三国時代においての名家の人間だったのです。

「周家」と「孫家」の交流

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 しかし、周瑜と孫策は、生まれた時から交流があったわけではありませんでした。両家の関係が始まったのは、当時の孫家の当主「孫堅」(そんけん)が反董卓連合軍に参加した時です。孫堅は家族と共に『舒』(じょ)に移り住む事にしました。その時に周家から家を譲り受けたそうです。

 ここから周家と孫家の家族ぐるみの付き合いが始まりました。そして必然的に同い年だった周瑜と孫策は、仲が良くなったのでしょう。

 しかし、何故周家は孫堅に家をまるごと一件も与えるような厚遇をしたのでしょうか。それにはは当時の情勢や、「袁術」(えんじゅつ)が関係していると思われます。

 この時孫堅は袁術の配下であり、その働きによって袁術が『南陽郡太守』(なんようぐんたいしゅ)になっていたのです。さらに遡ると、袁家と周家は密接な主従関係にあったり、周景が大尉に任命された背景には袁家の推挙があったり、董卓によって両家ともに処刑された人物がいるなど、その交流は密接であったと思われます。そこから、袁術配下の孫堅が住居を移す際に、袁術が周家に申し伝えておいた、とは考えられないでしょうか。周家としても、袁家の依頼をこなす事による打算が少なからずあったのではないかと思われます。

 これの論拠としては、孫堅が敗死するや孫策は江東に向かっており、周家の助成が途絶えたように見えるのです。その後、孫策は父同様、袁術に配下に納まっていきました。

「孫策」の『江東平定』

 袁術の指揮下に留まった事で、孫策は何とか拠って立つ地盤を手に入れました。そして、袁術に吸収されていた孫堅時代の配下、「韓当」(かんとう)、「黄蓋」(こうがい)、「朱治」(しゅち)、「程普」(ていふ)のような古参の武将を取り戻す事に成功したのです。

 この時期に周瑜と孫策の交流は再開します。袁術配下として江東方面に進軍していた孫策は、その軍勢を数万に増やしついには、独力で呉を攻略することに成功しました。その時、周瑜は後に呉の重鎮となる「魯粛」(ろしゅく)と親交を結び、呉への亡命にも同行させたのです。

 孫策は、そんな周瑜を歓迎すると「権威中郎将」(けんいちゅうろうじょう)に任命し、兵士と騎馬を与えました。さらには楽隊や住居までを与えるなど、その待遇は並外れていたといいます。孫策はかつて周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだまだ足りないと述べていました。

 この孫策の代は、周りの豪族たちを制圧するのに戦い続けていた時代です。孫堅時代の猛将たちの活躍が目覚ましかったようですが、その中には未だ二十歳前後だった周瑜の姿もありました。孫策軍の勢いは凄まじくその江東平定はあっという間の出来事だったそうです。

「孫策」の死、悲しみに暮れる周瑜はその弟「孫権」を補佐する

 200年4月、孫策は急死します。破竹の勢いで江東を平定した孫策でしたが、それは武力によるものでした。その過程で数々の恨みを買ってしまい、刺客の手にかかり死亡してしまうのです。

 孫策を失った軍内は、特に周瑜は深く嘆きましたが、その時北では「曹操」(そうそう)と「袁紹」(えんしょう)による『官渡の戦い』が行われていました。この戦いに勝った者は河北の覇者となり、天下の半分を治めます。すぐに軍内を立て直されければと、孫策の弟「孫権」(そんけん)を後継者としました。

 しかし諸将の中には、未だ若い孫権を軽んじる者もいたのです。そんな中周瑜は、率先して臣下としての礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになっていきました。この時、魯粛も孫権の元を離れ母親の元へ戻ろうと考えていたのです。周瑜はそんな魯粛へ、孫権の君主としての才をアピールし、説得に成功しました。これにより魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、改めて孫権に士官しました。

 ここで周瑜がいなければ、魯粛も諸将も従うことはなく、孫家があれほど強大な勢力になることはなかったでしょう。周瑜は外でも内でも呉のために戦い続けた人物なのです。

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