武田信玄が病死・信長との仲は更に悪化
元亀2年(1571年)1月、顕如と和睦した義景は、お互いの子を縁組させ姻戚関係を結びました。元亀3年(1572年)7月、小谷城を包囲した信長は周辺の砦を整備し戦に備えます。9月には砦が完成。信長は義景に決戦を挑みますが、応じようとしません。そして、当時一番の強敵だった甲斐の武田信玄が、西上作戦を開始。
※西上作戦とは、1572年9月から1573年4月の間、武田信玄が行った上洛を目的とした遠征。
信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利。勢いづいた武田軍は徳川軍の城を次々と攻撃します。これを受けて信長は岐阜へと撤退。朝倉・浅井軍はこれを好機と思い討って出ますが、虎御前山砦(とらごぜやまとりで)で羽柴秀吉に敗退。信玄は義景に協力を要請しますが、疲れと積雪を理由に越前に帰ってしまいます。ここで信玄に同行していたら、朝倉の行末もまた違っていたのかもしれません。しかし、西上作戦の最中に信玄が病死すると言うまさかの展開に。信玄が亡くなったことは信長にとっては好都合でした。そして、信長と朝倉・浅井両軍の対立は益々激しくなっていきます。
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家臣の裏切りで義景は自刃・朝倉家は滅亡する
天正元年(1573年)信長は3万の軍を率いて近江に出兵。義景の出兵要請に重臣の朝倉景彰・魚住 景固(うおずみ かげかた)らは「疲れを理由に拒否」。義景の度重なる失態などから、家臣の中では織田側へと寝返ったものも多くいました。信頼をなくしていた義景は、自ら総大将を務め、浅井の援軍に向かい大嶽砦に陣を構えます。ところが信長の率いる軍勢に奇襲をかけられ敗北。その結果、長政と連携して戦うことが不可能となり、越前への撤退を余儀なくされます。
ところが、信長軍の追撃は激しく、義景は疋壇城(ひきだじょう)に逃走。そこからさらに一乗谷(いちじょうだに)を目指しますが、その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、帰還した時は側近が10名ほどになっていました。重臣で従兄弟でもある朝倉景彰は、大野郡で再起を図ろうと提案。一乗谷を逃れ賢松寺に逃れた義景でしたが、この時すでに景彰は信長と内通していたのです。そして、200騎の兵で賢松寺を取り囲み襲撃。義景は自ら自刃し、41歳の生涯を終えました。こうして、大名である朝倉家は滅亡したのです。その後、景彰は義景の首級を信長に差し出し降伏。織田の家臣となりました。景彰のまさかの裏切りに、義景もきっと無念だったことでしょう。
家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉義景
名家であった朝倉家を頼り、上洛要請をしてきた足利義昭。義景はこの好機を生かすことはありませんでした。義景に代わりチャンスをモノにしたのが織田信長です。好奇心旺盛で野心家な信長に比べると、義景は少し物足りなさを感じてしまうかもしれません。義景がもし上洛していたとしても、信長のように義昭を追放し、天下を取るなどの考えはなかったでしょうね。
この辺りが信長と義景の力量の違いかもしれません。しかし義景は、小笠原流弓術の達人で意外と武勇にも長けていました。多くの芸事にも興味を持っており、中でも茶道には人一倍関心があったとか。そのため、一乗谷では唐物茶碗や花瓶などが多く出土しているそうですよ。長年に渡る信長との対立。そして最期は家臣に裏切られ自害に追い込まれた義景。まさに信長に翻弄された生涯と言えるでしょう。