今回は信長包囲網に加わり、最後は家臣の裏切りで自害に追い込まれた、朝倉義景について学習していきます。この時代は似たような名前が多く、朝倉家の場合は「景」を付けた名前が多いのも特徴的です。あまり目立つ存在ではない朝倉義景ですが、「影」ではないので間違わないように!

それでは、戦国時代の武将の名前に関心があるライター、すのうと一緒に解説していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回は、家臣に裏切られ無念の自刃をした、朝倉義景の一生をライターすのうが解説していく。

朝倉家最後の当主として誕生

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By 投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 05:40, 16 February 2009 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

朝倉義景は、天文2年(1533年)朝倉家10代当主、朝倉孝景の嫡男として越前国(現在の福井県)に誕生。母は、若狭武田氏の一族である、武田元信、または元信の次男である武田元光と言われています。この時代には珍しく兄弟はいませんでした。幼名は長夜叉(ながやしゃ)元服後は、朝倉延景(あさくらのぶかげ)と名乗ります。

16歳で家督を継承する

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By 土佐光吉か(策彦周良賛) - The Japanese book "Voices from the Past: Historical Sources and Art Treasures (時を超えて語るもの:史料と美術の名宝)", Historiographical Institute The University of Tokyo (東京大学史料編纂所), 2001, パブリック・ドメイン, Link

天文17年(1548年)父、孝景が死去したことにより、嫡男であった長夜叉が16歳で家督を継承朝倉延景(あさくらのぶかげ)となりました。まだ若輩であったことから、名将と言われた朝倉宗滴が補佐役に任命されます。
※朝倉宗滴とは、朝倉一族の中で名将として名を馳せた人物。孝景・祖父の貞景を補佐し、戦上手として知られる。

天文21年(1552年)当時室町幕府の将軍であった、足利義輝(足利義藤)から「義」の字をもらい、朝倉義景と改名。室町幕府管領、細川晴元の娘を正室に迎えます。さらに、一等官である左衛門督の官途を与えられました。それまでの朝倉当主は左衛門尉などの三等官であったことから、衰退する室町幕府が大名家の力を必要として、朝倉家とのパイプを強くしようと優遇したのではないかとも言われています。弘治元年(1555年)に補佐役を務めていた宗滴の死去により、義景自ら、朝倉家の政権を握ることになりました。

上洛のチャンスを逃す!

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By Published by Meguro Shoten (目黒書店) - The Japanese book "Kokushi Shōzō Shūsei (国史肖像集成 将軍篇)", パブリック・ドメイン, Link

永禄8年(1565年)永禄の変(えいろくのへん)が起き、足利義輝が三好義継・三好三人衆らに襲撃され討死。義輝の弟、足利義昭(当時は義秋)は奈良に幽閉されていましたが、義景が画策し、家臣で従兄弟でもある朝倉景彰(あさくらかげあきら)を使者として派遣。義昭を一乗谷の安養寺に招き入れます。義昭の仲介により、加賀一向一揆と和解も成立。朝倉館で元服した義昭は、京に上洛するため戦国大名として有力だった義景を後ろ盾にしようとします。

しかし、当の義景は、嫡男であった最愛の息子、阿君丸(くまぎみまる)が急死。哀しみのあまり上洛できる精神状態ではありませんでした。義昭も義景に対し、管領代(室町幕府の職名)にしたり、朝倉一族との親交を深めるなど手を打ちますが、実現には至りませんでした。こうして、義昭が次に狙いを定めたのが織田信長だったのです。まんまと好機を逃してしまった義景。もし義昭と上洛していれば、朝倉家の進退も変わっていたかもしれませんね。肝心なところで、判断力に欠けるところは、義景があまり評価されない理由の一つかもしれません。

織田信長との対立

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朝倉義景が、足利義昭の上洛に協力しなかったことで、義昭は尾張で勢力を伸ばしていた織田信長に目を付け、上洛を要請します。こうして信長は義昭と共に上洛。天下に一歩近づいたことで信長は、義景に上洛を促しますが義景は拒否。こうして、義景と信長は対立していきました。

織田信長が足利義昭と上洛する

永禄11年(1568年)8月、義景は若狭に侵攻し、当主の武田元明を一乗谷城に軟禁します。若狭を支配した義景ですが、武田家臣の粟屋勝久(あわやかつひさ)らは反発。完全に支配している状況とは言えませんでした。そして、この頃から義景は遊興にふけるようになり、家臣の朝倉景彰・朝倉景健(あさくらかげたけ)らに政務を任せるようになります。

明智光秀の仲介で尾張国(現在の愛知県西部)に渡った足利義昭から上洛の要請を受けた織田信長は、永禄11年(1568年)9月、義昭を伴い京都に上洛。義昭は室町幕府第15代将軍となります。信長は、義景に対し上洛するように促しますが、義景はこれを拒否。将軍の元で権力を拡大した信長は、二度に渡り上洛命令を出しますが、義景は信長に服従する気はありませんでした。信長からしてみても、美濃と京都の中間に位置する越前国を、早く支配下に置きたかったのでしょう。こうして義景は信長と対立していきます。

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金ヶ崎の戦いで、織田信長が撤退

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By 不明 - File:Azai nagamasa.jpg 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

元亀元年(1570年)朝倉義景が上洛を拒んだとし、織田信長・徳川家康連合軍は、3万の兵を率いて越前国へ向け出陣。敦賀郡にある朝倉の城攻めにかかります。まずは、天筒山城を落城。金ヶ崎城を守る敦賀郡司家の朝倉景健(あさくらかげたけ)は、援軍が遅れ城を開城して降伏。織田軍優勢で進軍していましたが、義弟でもあり、同盟を結んでいた浅井長政の裏切りが発覚。長政の裏切りを最初は信じようとしなかった信長でしたが、次々と入ってくる情報網に、事実だと認めるしかなかったそうです。

こうして、朝倉・浅井両軍に攻撃される前に逃げることを決意。松永久秀に説得された、朽木 元綱(くつき もとつな)の協力を得て、僅か10名程の家臣を引き連れて京に向け撤退。これが有名な、金ヶ崎の退き口と呼ばれました。この時、朝倉軍は信長軍を追撃しましたが、取り逃がすと言う失態を犯しています。少数の信長軍を攻める絶好の好機を、またしても逃してしまったわけですね。

姉川の戦いで織田信長に敗北

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元亀元年(1570年)浅井・朝倉軍VS織田・徳川軍による姉川の戦いが始まります。元々、信長を裏切り、朝倉側に味方した浅井軍を攻めるために奮起した戦いでありました。しかし、裏切り行為を行ったのは信長も同様だったのです。長政が信長と同盟を結ぶ際、「朝倉を攻めない」と言う条件だったにも関わらず、信長がこれを無視。長政が信長との同盟を破棄し、朝倉側に味方したのも、信長の裏切り行為があったからでした。

姉川を挟んで陣を構えた両軍。浅井・朝倉の陣形が縦に伸びていることに気付いた家康は、家臣の榊原康政に側面から攻めるよう指示。その結果、朝倉軍が敗走し、浅井軍もこれに続きました。姉川は真っ赤に染まり、朝倉・浅井軍は1100もの尊い命を奪われてしまいます。義景も猛将と呼ばれた家臣、真柄直隆・真柄 直澄兄弟を失いました。結果、姉川の戦いは、織田・徳川家康連合軍の勝利で終結。しかし、この後も4年間に渡り、信長との対立は続いていくのです。

志賀の陣で織田信長と対立

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元亀元年(1570年)織田信長は、野田城・福島城の戦いで三好三人衆と争っていました。当時信長の周囲は敵だらけだったのです。今まで中立の立場をとっていた石山本願寺の層・顕如が突如、三好三人衆に加担。顕如は、信長と敵対する本願寺門徒衆・朝倉義景・浅井長政らに密書を送り、反信長勢力を拡大しようとします。こうして朝倉・浅井の連合軍は、信長が三好三人衆と戦っている隙を狙い、京に向け進軍。手薄となっていた琵琶湖西軍から南下し、織田の重要拠点となっていた宇佐山城の攻撃を開始します。城を守っていたのは、森可成(もりよしなり)と千人程の兵でした。

織田信治(信長の弟)、青地 茂綱(あおちしげつな)ら2千の援軍が到着しますが、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵など3万の大軍は、挟み討ちで攻撃。その結果、城の落城は免れましたが、可成・信治・茂綱は討死してしまいます。信長は、朝倉・浅井軍が京に迫ってくると、三好三人衆との戦いを中断し撤退。信長が帰京した事を知り、朝倉・浅井両軍は比叡山に籠城します。比叡山を包囲した信長軍は、延暦寺に対し、「織田側につけば所領回復」できなければ中立の立場であってほしいと懇願。朝倉・浅井に味方すれば、延暦寺を焼き討ちすると通告しますが、この要請に応じることはありませんでした。延暦寺を味方に付けた朝倉・浅井両軍は籠城を開始します。

3ヵ月の籠城戦は和睦で決着

長引く籠城戦を不利と感じた信長は、側近の菅屋 長頼(すがや ながより)を使者に送り、決戦を促しますが義景はこれを無視。長期戦ともなれば、籠城する朝倉・浅井軍の兵糧は尽き、信長は国の情勢も気になるところ。そこで将軍と朝廷に働きかけ、関白・二条晴良(にじょうはれよし)と将軍・足利義昭が仲介に入り、義景に和睦を提案。晴良は延暦寺領の安堵を条件とする、綸旨(りんじ)を出してもらい、延暦寺側も和睦に応じました。

※綸旨とは天皇や側近が発行する奉書形式の文書のこと。こうして3ヵ月続いた志賀の陣がようやく終結。しかし、この翌年信長によって、比叡山延暦寺は焼き討ちされてしまうのです。

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武田信玄が病死・信長との仲は更に悪化

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元亀2年(1571年)1月、顕如と和睦した義景は、お互いの子を縁組させ姻戚関係を結びました。元亀3年(1572年)7月、小谷城を包囲した信長は周辺の砦を整備し戦に備えます。9月には砦が完成。信長は義景に決戦を挑みますが、応じようとしません。そして、当時一番の強敵だった甲斐の武田信玄が、西上作戦を開始。
※西上作戦とは、1572年9月から1573年4月の間、武田信玄が行った上洛を目的とした遠征。

信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利。勢いづいた武田軍は徳川軍の城を次々と攻撃します。これを受けて信長は岐阜へと撤退。朝倉・浅井軍はこれを好機と思い討って出ますが、虎御前山砦(とらごぜやまとりで)で羽柴秀吉に敗退。信玄は義景に協力を要請しますが、疲れと積雪を理由に越前に帰ってしまいます。ここで信玄に同行していたら、朝倉の行末もまた違っていたのかもしれません。しかし、西上作戦の最中に信玄が病死すると言うまさかの展開に。信玄が亡くなったことは信長にとっては好都合でした。そして、信長と朝倉・浅井両軍の対立は益々激しくなっていきます。

家臣の裏切りで義景は自刃・朝倉家は滅亡する

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天正元年(1573年)信長は3万の軍を率いて近江に出兵。義景の出兵要請に重臣の朝倉景彰・魚住 景固(うおずみ かげかた)らは「疲れを理由に拒否」。義景の度重なる失態などから、家臣の中では織田側へと寝返ったものも多くいました。信頼をなくしていた義景は、自ら総大将を務め、浅井の援軍に向かい大嶽砦に陣を構えます。ところが信長の率いる軍勢に奇襲をかけられ敗北。その結果、長政と連携して戦うことが不可能となり、越前への撤退を余儀なくされます。

ところが、信長軍の追撃は激しく、義景は疋壇城(ひきだじょう)に逃走。そこからさらに一乗谷(いちじょうだに)を目指しますが、その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、帰還した時は側近が10名ほどになっていました。重臣で従兄弟でもある朝倉景彰は、大野郡で再起を図ろうと提案。一乗谷を逃れ賢松寺に逃れた義景でしたが、この時すでに景彰は信長と内通していたのです。そして、200騎の兵で賢松寺を取り囲み襲撃。義景は自ら自刃し、41歳の生涯を終えました。こうして、大名である朝倉家は滅亡したのです。その後、景彰は義景の首級を信長に差し出し降伏。織田の家臣となりました。景彰のまさかの裏切りに、義景もきっと無念だったことでしょう。

家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉義景

名家であった朝倉家を頼り、上洛要請をしてきた足利義昭。義景はこの好機を生かすことはありませんでした。義景に代わりチャンスをモノにしたのが織田信長です。好奇心旺盛で野心家な信長に比べると、義景は少し物足りなさを感じてしまうかもしれません。義景がもし上洛していたとしても、信長のように義昭を追放し、天下を取るなどの考えはなかったでしょうね。

この辺りが信長と義景の力量の違いかもしれません。しかし義景は、小笠原流弓術の達人で意外と武勇にも長けていました。多くの芸事にも興味を持っており、中でも茶道には人一倍関心があったとか。そのため、一乗谷では唐物茶碗や花瓶などが多く出土しているそうですよ。長年に渡る信長との対立。そして最期は家臣に裏切られ自害に追い込まれた義景。まさに信長に翻弄された生涯と言えるでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

「朝倉義景」家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉最後の当主を歴女がわかりやすく解説

武田信玄が病死・信長との仲は更に悪化

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元亀2年(1571年)1月、顕如と和睦した義景は、お互いの子を縁組させ姻戚関係を結びました。元亀3年(1572年)7月、小谷城を包囲した信長は周辺の砦を整備し戦に備えます。9月には砦が完成。信長は義景に決戦を挑みますが、応じようとしません。そして、当時一番の強敵だった甲斐の武田信玄が、西上作戦を開始。
※西上作戦とは、1572年9月から1573年4月の間、武田信玄が行った上洛を目的とした遠征。

信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利。勢いづいた武田軍は徳川軍の城を次々と攻撃します。これを受けて信長は岐阜へと撤退。朝倉・浅井軍はこれを好機と思い討って出ますが、虎御前山砦(とらごぜやまとりで)で羽柴秀吉に敗退。信玄は義景に協力を要請しますが、疲れと積雪を理由に越前に帰ってしまいます。ここで信玄に同行していたら、朝倉の行末もまた違っていたのかもしれません。しかし、西上作戦の最中に信玄が病死すると言うまさかの展開に。信玄が亡くなったことは信長にとっては好都合でした。そして、信長と朝倉・浅井両軍の対立は益々激しくなっていきます。

家臣の裏切りで義景は自刃・朝倉家は滅亡する

image by PIXTA / 42768240

天正元年(1573年)信長は3万の軍を率いて近江に出兵。義景の出兵要請に重臣の朝倉景彰・魚住 景固(うおずみ かげかた)らは「疲れを理由に拒否」。義景の度重なる失態などから、家臣の中では織田側へと寝返ったものも多くいました。信頼をなくしていた義景は、自ら総大将を務め、浅井の援軍に向かい大嶽砦に陣を構えます。ところが信長の率いる軍勢に奇襲をかけられ敗北。その結果、長政と連携して戦うことが不可能となり、越前への撤退を余儀なくされます。

ところが、信長軍の追撃は激しく、義景は疋壇城(ひきだじょう)に逃走。そこからさらに一乗谷(いちじょうだに)を目指しますが、その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、帰還した時は側近が10名ほどになっていました。重臣で従兄弟でもある朝倉景彰は、大野郡で再起を図ろうと提案。一乗谷を逃れ賢松寺に逃れた義景でしたが、この時すでに景彰は信長と内通していたのです。そして、200騎の兵で賢松寺を取り囲み襲撃。義景は自ら自刃し、41歳の生涯を終えました。こうして、大名である朝倉家は滅亡したのです。その後、景彰は義景の首級を信長に差し出し降伏。織田の家臣となりました。景彰のまさかの裏切りに、義景もきっと無念だったことでしょう。

家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉義景

名家であった朝倉家を頼り、上洛要請をしてきた足利義昭。義景はこの好機を生かすことはありませんでした。義景に代わりチャンスをモノにしたのが織田信長です。好奇心旺盛で野心家な信長に比べると、義景は少し物足りなさを感じてしまうかもしれません。義景がもし上洛していたとしても、信長のように義昭を追放し、天下を取るなどの考えはなかったでしょうね。

この辺りが信長と義景の力量の違いかもしれません。しかし義景は、小笠原流弓術の達人で意外と武勇にも長けていました。多くの芸事にも興味を持っており、中でも茶道には人一倍関心があったとか。そのため、一乗谷では唐物茶碗や花瓶などが多く出土しているそうですよ。長年に渡る信長との対立。そして最期は家臣に裏切られ自害に追い込まれた義景。まさに信長に翻弄された生涯と言えるでしょう。

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