室町時代戦国時代日本史歴史

「朝倉義景」家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉最後の当主を歴女がわかりやすく解説

武田信玄が病死・信長との仲は更に悪化

image by PIXTA / 8953996

元亀2年(1571年)1月、顕如と和睦した義景は、お互いの子を縁組させ姻戚関係を結びました。元亀3年(1572年)7月、小谷城を包囲した信長は周辺の砦を整備し戦に備えます。9月には砦が完成。信長は義景に決戦を挑みますが、応じようとしません。そして、当時一番の強敵だった甲斐の武田信玄が、西上作戦を開始。
※西上作戦とは、1572年9月から1573年4月の間、武田信玄が行った上洛を目的とした遠征。

信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利。勢いづいた武田軍は徳川軍の城を次々と攻撃します。これを受けて信長は岐阜へと撤退。朝倉・浅井軍はこれを好機と思い討って出ますが、虎御前山砦(とらごぜやまとりで)で羽柴秀吉に敗退。信玄は義景に協力を要請しますが、疲れと積雪を理由に越前に帰ってしまいます。ここで信玄に同行していたら、朝倉の行末もまた違っていたのかもしれません。しかし、西上作戦の最中に信玄が病死すると言うまさかの展開に。信玄が亡くなったことは信長にとっては好都合でした。そして、信長と朝倉・浅井両軍の対立は益々激しくなっていきます。

家臣の裏切りで義景は自刃・朝倉家は滅亡する

image by PIXTA / 42768240

天正元年(1573年)信長は3万の軍を率いて近江に出兵。義景の出兵要請に重臣の朝倉景彰・魚住 景固(うおずみ かげかた)らは「疲れを理由に拒否」。義景の度重なる失態などから、家臣の中では織田側へと寝返ったものも多くいました。信頼をなくしていた義景は、自ら総大将を務め、浅井の援軍に向かい大嶽砦に陣を構えます。ところが信長の率いる軍勢に奇襲をかけられ敗北。その結果、長政と連携して戦うことが不可能となり、越前への撤退を余儀なくされます。

ところが、信長軍の追撃は激しく、義景は疋壇城(ひきだじょう)に逃走。そこからさらに一乗谷(いちじょうだに)を目指しますが、その間に家臣の寝返りや逃亡が相次ぎ、帰還した時は側近が10名ほどになっていました。重臣で従兄弟でもある朝倉景彰は、大野郡で再起を図ろうと提案。一乗谷を逃れ賢松寺に逃れた義景でしたが、この時すでに景彰は信長と内通していたのです。そして、200騎の兵で賢松寺を取り囲み襲撃。義景は自ら自刃し、41歳の生涯を終えました。こうして、大名である朝倉家は滅亡したのです。その後、景彰は義景の首級を信長に差し出し降伏。織田の家臣となりました。景彰のまさかの裏切りに、義景もきっと無念だったことでしょう。

家臣の裏切りで自刃に追い込まれた朝倉義景

名家であった朝倉家を頼り、上洛要請をしてきた足利義昭。義景はこの好機を生かすことはありませんでした。義景に代わりチャンスをモノにしたのが織田信長です。好奇心旺盛で野心家な信長に比べると、義景は少し物足りなさを感じてしまうかもしれません。義景がもし上洛していたとしても、信長のように義昭を追放し、天下を取るなどの考えはなかったでしょうね。

この辺りが信長と義景の力量の違いかもしれません。しかし義景は、小笠原流弓術の達人で意外と武勇にも長けていました。多くの芸事にも興味を持っており、中でも茶道には人一倍関心があったとか。そのため、一乗谷では唐物茶碗や花瓶などが多く出土しているそうですよ。長年に渡る信長との対立。そして最期は家臣に裏切られ自害に追い込まれた義景。まさに信長に翻弄された生涯と言えるでしょう。

1 2 3
Share: