それでは、戦国時代の武将の名前に関心があるライター、すのうと一緒に解説していこう。
ライター/すのう
大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回は、家臣に裏切られ無念の自刃をした、朝倉義景の一生をライターすのうが解説していく。
朝倉家最後の当主として誕生
朝倉義景は、天文2年(1533年)朝倉家10代当主、朝倉孝景の嫡男として越前国(現在の福井県)に誕生。母は、若狭武田氏の一族である、武田元信、または元信の次男である武田元光と言われています。この時代には珍しく兄弟はいませんでした。幼名は長夜叉(ながやしゃ)元服後は、朝倉延景(あさくらのぶかげ)と名乗ります。
16歳で家督を継承する
By 土佐光吉か(策彦周良賛) – The Japanese book “Voices from the Past: Historical Sources and Art Treasures (時を超えて語るもの:史料と美術の名宝)”, Historiographical Institute The University of Tokyo (東京大学史料編纂所), 2001, パブリック・ドメイン, Link
天文17年(1548年)父、孝景が死去したことにより、嫡男であった長夜叉が16歳で家督を継承。朝倉延景(あさくらのぶかげ)となりました。まだ若輩であったことから、名将と言われた朝倉宗滴が補佐役に任命されます。
※朝倉宗滴とは、朝倉一族の中で名将として名を馳せた人物。孝景・祖父の貞景を補佐し、戦上手として知られる。
天文21年(1552年)当時室町幕府の将軍であった、足利義輝(足利義藤)から「義」の字をもらい、朝倉義景と改名。室町幕府管領、細川晴元の娘を正室に迎えます。さらに、一等官である左衛門督の官途を与えられました。それまでの朝倉当主は左衛門尉などの三等官であったことから、衰退する室町幕府が大名家の力を必要として、朝倉家とのパイプを強くしようと優遇したのではないかとも言われています。弘治元年(1555年)に補佐役を務めていた宗滴の死去により、義景自ら、朝倉家の政権を握ることになりました。
上洛のチャンスを逃す!
By Published by Meguro Shoten (目黒書店) – The Japanese book “Kokushi Shōzō Shūsei (国史肖像集成 将軍篇)”, パブリック・ドメイン, Link
永禄8年(1565年)永禄の変(えいろくのへん)が起き、足利義輝が三好義継・三好三人衆らに襲撃され討死。義輝の弟、足利義昭(当時は義秋)は奈良に幽閉されていましたが、義景が画策し、家臣で従兄弟でもある朝倉景彰(あさくらかげあきら)を使者として派遣。義昭を一乗谷の安養寺に招き入れます。義昭の仲介により、加賀一向一揆と和解も成立。朝倉館で元服した義昭は、京に上洛するため戦国大名として有力だった義景を後ろ盾にしようとします。
しかし、当の義景は、嫡男であった最愛の息子、阿君丸(くまぎみまる)が急死。哀しみのあまり上洛できる精神状態ではありませんでした。義昭も義景に対し、管領代(室町幕府の職名)にしたり、朝倉一族との親交を深めるなど手を打ちますが、実現には至りませんでした。こうして、義昭が次に狙いを定めたのが織田信長だったのです。まんまと好機を逃してしまった義景。もし義昭と上洛していれば、朝倉家の進退も変わっていたかもしれませんね。肝心なところで、判断力に欠けるところは、義景があまり評価されない理由の一つかもしれません。
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織田信長との対立
朝倉義景が、足利義昭の上洛に協力しなかったことで、義昭は尾張で勢力を伸ばしていた織田信長に目を付け、上洛を要請します。こうして信長は義昭と共に上洛。天下に一歩近づいたことで信長は、義景に上洛を促しますが義景は拒否。こうして、義景と信長は対立していきました。
織田信長が足利義昭と上洛する
永禄11年(1568年)8月、義景は若狭に侵攻し、当主の武田元明を一乗谷城に軟禁します。若狭を支配した義景ですが、武田家臣の粟屋勝久(あわやかつひさ)らは反発。完全に支配している状況とは言えませんでした。そして、この頃から義景は遊興にふけるようになり、家臣の朝倉景彰・朝倉景健(あさくらかげたけ)らに政務を任せるようになります。
明智光秀の仲介で尾張国(現在の愛知県西部)に渡った足利義昭から上洛の要請を受けた織田信長は、永禄11年(1568年)9月、義昭を伴い京都に上洛。義昭は室町幕府第15代将軍となります。信長は、義景に対し上洛するように促しますが、義景はこれを拒否。将軍の元で権力を拡大した信長は、二度に渡り上洛命令を出しますが、義景は信長に服従する気はありませんでした。信長からしてみても、美濃と京都の中間に位置する越前国を、早く支配下に置きたかったのでしょう。こうして義景は信長と対立していきます。
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