今日は池田屋事件について勉強していきます。幕末に活躍した新撰組はドラマとして扱われるほど人気で、そんな彼らが名をとどろかせるきっかけとなったのが1864年の池田屋事件でしょう。

このように、池田屋事件は新撰組の実績の一つとしてしか語られないことが多い。そこで、今回は事件そのものを詳しく知るため、尊王攘夷派の視点に立って池田屋事件を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から池田屋事件をわかりやすくまとめた。

池田屋事件と尊王攘夷

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池田屋事件とは

1864年、京都の旅館・池田屋には20人ほどの尊王攘夷派が密かに集会を行っていました。一方、幕府を補佐する組織として誕生した新撰組は尊王攘夷派を取り締まっており、そのため警備に回っていたのですが、そんな新撰組がある有力な情報を掴みます。

それは「京都に潜伏中の尊王攘夷派の志士達が、公武合体派の大名らを暗殺して反乱を起こす計画を立てている」という情報でした。このため新撰組は計画を企てる尊王攘夷派の志士達を探索するため市中を警備、その結果京都の旅館・池田屋にて集会を行っていた彼らを発見します。

20人ほど集まる尊王攘夷派の志士達に対して新撰組は最初たった4人で踏み込み、戦闘の末に彼らを征伐、暗殺・反乱の計画を事前に食い止めたとして、新撰組はその名をとどろかせることになったのです。一方、有力な志士達を殺害されたことで尊王攘夷派は大ダメージを受けました。

尊王攘夷とは

池田屋事件では新撰組が尊王攘夷派を襲撃して殺害しましたが、そもそも尊王攘夷とは何なのでしょうか。尊王攘夷の「尊王」とは天皇、「攘夷」とは「外国人を追い払う」の意味であり、つまり、尊王攘夷というのは「天皇中心となって外国人を追い払う政治」……すなわち1つの政治的思想です。

1853年のペリーによる黒船来航を皮切りに日本は外国の脅威に脅かされており、同時に外国人を嫌ってもいました。と言うのも、1858年にアメリカとの間に結ばれた日米修好通商条約は日本に不利益なものであったため、物価が上昇して生活が苦しくなった者も多かったのです。

また、日米修好通商条約は幕府が無勅許(天皇の許可を得ないこと)で調印しました。このため幕府に不満を持つ者も多く、幕府ではなく天皇による政治を思想とする声が挙がったのです。つまり、尊王攘夷派とはイコール反幕府派と捉えることができます。

公武合体派の薩摩藩、尊王攘夷派の長州藩

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公武合体の思想を持つ薩摩藩

時は遡って1858年、薩摩藩の藩主・島津久光は兄・島津斉彬の遺志を継いで公武合体の実現に向けて尽力していました。公武合体の「公」とは朝廷、武とは「幕府」を意味しており、公武合体は「朝廷と幕府が協力して政治を行う」という政治的思想です。

元々幕府は朝廷の政治を任されている立場ですが、あくまでそれは形式上のものであり、実際には武力を持つ幕府が政治の主導権を握っていました。そこにきて、日米修好通商条約の無勅許での調印問題により、朝廷と幕府の関係は一層悪くなってしまいます。

「強大な力を持つ外国に対抗するには今のままではダメだ!朝廷と幕府が協力して1つにならなければ日本に未来はない!」……それが薩摩藩の考えでした。より強い幕府にして日本をより強くすることを目標としており、そしてそのための政策が公武合体だったのです。

【過激な】尊王攘夷の思想を持つ長州藩

公武合体を思想とする薩摩藩に対して、鎖国を守って外国人を追い払う天皇中心の政治……つまり尊王攘夷を思想としていたのが長州藩でした。幕府を支持する思想と支持しない思想、真逆の思想を持っていたことで薩摩藩と長州藩は対立していきます

何より天皇である孝明天皇も外国人を嫌っており、そのため尊王攘夷派はどんどん力をつけていきました。ここで問題だったのは、長州藩の尊王攘夷の思想が過激だったことで、外国や外国人を怖れず攻撃する長州藩は同じ尊王攘夷派から見てもついていけない存在だったのです。

孝明天皇は確かに攘夷派でしたが、ただそのために戦争をするつもりは一切なく、例えるなら穏便な攘夷の考えの持ち主でした。このため、例え天皇を尊ぶ尊王攘夷派でも暴走する長州藩は支持できず、むしろ排除すべき存在と考えるようになったのです。

八月十八日の政変からの池田屋事件

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八月十八日の政変の発生

過激な尊王攘夷を思想とする長州藩でしたが、外国の強さは理解しており、自分達の力だけでは攘夷を行っても勝利できないことは知っています。だからこそ日本が1つにならなければならず、そのためには天皇自らが攘夷を行う必要があると考えました。

「天皇自ら攘夷のための戦いを行うこと」……これを攘夷親征と呼び、長州藩はその実現のためにクーデターを企てたのです。一方、公武合体派の薩摩藩や会津藩はそんな長州藩の計画を知り、長州藩に頭を悩ます孝明天皇とともにクーデター返しを計画・実行しました。

つまり、長州藩のクーデターに対するカウンタークーデターで、これによって尊王攘夷派の公家を京都から追放することに成功、長州藩も朝廷警備の任務を解消されて京都から追い出されてしまったのです。このカウンタークーデターは1863年に起こったもので、八月十八日の政変と呼ばれています。

池田屋事件の発生

八月十八日の政変によって勢いを失って京都を追放された長州藩でしたが、政局への復帰を諦めてはいませんでした。それどころか、追放されたことに激怒した長州藩は、尊王攘夷実現のためにまたしても過激な計画を立てます。それは京都の火の海にすることでした。

そして大騒ぎになったところを見計らって八月十八日の政変を起こした中川宮を幽閉、幕府で力を持つ松平容保と一橋慶喜(後の徳川慶喜)を暗殺、さらには天皇を誘拐して長州藩に迎えようと考えていたのです。ただ、この計画に関する情報は捉えられた尊王攘夷派から幕府に漏れていました。

京都を追放されたはずが、一部の尊王攘夷派はまだ京都に潜伏しており、このような恐ろしい計画を立てているという情報です。当然幕府は警戒、そのために警備していたのが新撰組であり、京都の旅館・池田屋で計画を相談するために尊王攘夷派が密会しているところを発見、襲撃したのが池田屋事件でした。

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池田屋事件後の日本

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禁門の変の発生と朝敵となった長州藩

では次に、池田屋事件がその後の日本にもたらした影響を覚えていきましょう。再度政局復帰を狙う長州藩でしたが、実はそのための方法は進発論慎重論の2つに分かれていました。京都を追放され、「この状況を打開するには武力を背景に抗議すべきだ!そのためには兵を挙げて京都に進軍するしかない!」……これが進発論です。

一方、慎重論とは「今は動くべきではない。ヘタに動いて京都に進軍すれば今度は朝敵(天皇・朝廷と敵対する勢力)とみなされてしまうぞ!」という考え方でした。この2つの意見がぶつかり合っている最中、池田屋事件が起こったのです。

池田屋事件によって有能な尊王攘夷派を殺害された長州藩は怒りに任せて進発論を決行、抗議するため朝廷に赴くも相手にされず、それでも長州藩は一向に退こうとしません。そのため京都を抑える会津藩が長州藩を攻撃、京都御所にて起こったこの戦いが1864年の禁門の変でした。

尊王攘夷派の失墜

禁門の変による長州藩と会津藩の戦い、当初有利だったのは会津藩でしたが、戦いの最中に会津藩に援軍が訪れます。それは会津藩と同盟を結んでいた薩摩藩で、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢したことで戦況は一変、結局会津藩と薩摩藩の勝利で終わり、長州藩は朝敵となってしまいました。

朝敵となった長州藩に追い打ちをかけるべく、幕府は正式に天皇の許可を得て長州藩の討伐に乗り出します。またちょうどその時、長州藩は過激な尊王攘夷運動を行った報復を受けてしまい、四国艦隊砲撃事件によって海外の四か国に下関砲台を乗っ取られてしまいました。

これによって大幅に軍事力が低下した長州藩は幕府による長州征討に対抗する術がなく、そのため戦うことなく幕府の要求を受け入れるしかありませんでした。こうして池田屋事件以降、尊王攘夷の思想を持つ長州藩は滅亡の危機に陥るほど失墜公武合体の思想の実現が間近となってきたのです。

公武合体の挫折と尊王攘夷の限界、そして倒幕へ

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薩摩藩の公武合体の挫折と倒幕への切り替え

尊王攘夷の思想を持つ長州藩が失墜したことは、公武合体の思想の実現が近いことを意味しました。そのため朝廷の任命で複数の有力な大名経験者が出席する参与会議が開かれますが、ただこの会議が思ったようにうまくいきません

会議に出席した薩摩藩の藩主・島津久光と幕府の将軍・徳川慶喜の対立が激しく、公武合体への道は早くも行き詰ってしまったのです。結局、公武合体を実現するためのせっかくの参与会議も数ヶ月で崩壊、そのため島津久光は長年思想としてきた公武合体に見切りをつけます。

幕府の将軍・徳川慶喜との度重なる衝突から島津久光のたどり着いた結論は幕末を倒すこと……つまり公武合体から倒幕へと考え方を変えたのです。一方、滅亡の危機に陥った長州藩もまた尊王攘夷の思想に限界を感じていました。

長州藩の尊王攘夷の限界と倒幕への切り替え

尊王攘夷運動の報復である四国艦隊砲撃事件によって、長州藩は外国の軍事力の高さを思い知りました。外国人を追い払う尊王攘夷を思想としていたものの、今の日本の力では攘夷は不可能だと悟り、そのため尊王攘夷の考えを改めるようになります。

そして辿り着いた結論は幕府を倒すこと……つまり倒幕で、元々尊王攘夷は反幕府の思想だったため、幕府を倒してしまおうという考えに変えたのです。これまで幾度となく衝突して敵対していた薩摩藩と長州藩の考えが一致した瞬間でした。

その後、坂本竜馬の活躍もあって1866年に長州藩と薩摩藩は薩長同盟と呼ばれる同盟を結び、これを皮切りにして世間でも倒幕ムードが加速していきます。やがて起こる戊辰戦争で幕府は完全に滅亡、池田屋事件で活躍した新撰組は幕府のために戦い続けるものの、箱館戦争にて最期を迎えたのでした。

池田屋事件は尊王攘夷派の視点で覚えよう

池田屋事件は新撰組が名をとどろかせたきっかけでもありますから、そのため新撰組の視点で語られることが多く、事件が起こったいきさつなどはあまり詳しく説明されていないことが多いですね。

そこでアドバイスすると、池田屋事件は攻撃した新撰組ではなく攻撃された尊王攘夷派の視点で覚えるようにしましょう。そうすると尊王攘夷派が追い詰められていた理由など、池田屋事件の背景が理解しやすくなりますよ。

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幕末日本史歴史江戸時代

新撰組の名をとどろかせた「池田屋事件」はなぜ起こった?!元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は池田屋事件について勉強していきます。幕末に活躍した新撰組はドラマとして扱われるほど人気で、そんな彼らが名をとどろかせるきっかけとなったのが1864年の池田屋事件でしょう。

このように、池田屋事件は新撰組の実績の一つとしてしか語られないことが多い。そこで、今回は事件そのものを詳しく知るため、尊王攘夷派の視点に立って池田屋事件を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から池田屋事件をわかりやすくまとめた。

池田屋事件と尊王攘夷

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池田屋事件とは

1864年、京都の旅館・池田屋には20人ほどの尊王攘夷派が密かに集会を行っていました。一方、幕府を補佐する組織として誕生した新撰組は尊王攘夷派を取り締まっており、そのため警備に回っていたのですが、そんな新撰組がある有力な情報を掴みます。

それは「京都に潜伏中の尊王攘夷派の志士達が、公武合体派の大名らを暗殺して反乱を起こす計画を立てている」という情報でした。このため新撰組は計画を企てる尊王攘夷派の志士達を探索するため市中を警備、その結果京都の旅館・池田屋にて集会を行っていた彼らを発見します。

20人ほど集まる尊王攘夷派の志士達に対して新撰組は最初たった4人で踏み込み、戦闘の末に彼らを征伐、暗殺・反乱の計画を事前に食い止めたとして、新撰組はその名をとどろかせることになったのです。一方、有力な志士達を殺害されたことで尊王攘夷派は大ダメージを受けました。

尊王攘夷とは

池田屋事件では新撰組が尊王攘夷派を襲撃して殺害しましたが、そもそも尊王攘夷とは何なのでしょうか。尊王攘夷の「尊王」とは天皇、「攘夷」とは「外国人を追い払う」の意味であり、つまり、尊王攘夷というのは「天皇中心となって外国人を追い払う政治」……すなわち1つの政治的思想です。

1853年のペリーによる黒船来航を皮切りに日本は外国の脅威に脅かされており、同時に外国人を嫌ってもいました。と言うのも、1858年にアメリカとの間に結ばれた日米修好通商条約は日本に不利益なものであったため、物価が上昇して生活が苦しくなった者も多かったのです。

また、日米修好通商条約は幕府が無勅許(天皇の許可を得ないこと)で調印しました。このため幕府に不満を持つ者も多く、幕府ではなく天皇による政治を思想とする声が挙がったのです。つまり、尊王攘夷派とはイコール反幕府派と捉えることができます。

公武合体派の薩摩藩、尊王攘夷派の長州藩

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