幕末日本史歴史江戸時代

新撰組の名をとどろかせた「池田屋事件」はなぜ起こった?!元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は池田屋事件について勉強していくぞ。幕末に活躍した新撰組はドラマとして扱われるほど人気で、そんな彼らが名をとどろかせるきっかけとなったのが1864年の池田屋事件だろう。

このように、池田屋事件は新撰組の実績の一つとしてしか語られないことが多い。そこで、今回は事件そのものを詳しく知るため、尊王攘夷派の視点に立って池田屋事件を日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から池田屋事件をわかりやすくまとめた。

池田屋事件と尊王攘夷

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池田屋事件とは

1864年、京都の旅館・池田屋には20人ほどの尊王攘夷派が密かに集会を行っていました。一方、幕府を補佐する組織として誕生した新撰組は尊王攘夷派を取り締まっており、そのため警備に回っていたのですが、そんな新撰組がある有力な情報を掴みます。

それは「京都に潜伏中の尊王攘夷派の志士達が、公武合体派の大名らを暗殺して反乱を起こす計画を立てている」という情報でした。このため新撰組は計画を企てる尊王攘夷派の志士達を探索するため市中を警備、その結果京都の旅館・池田屋にて集会を行っていた彼らを発見します。

20人ほど集まる尊王攘夷派の志士達に対して新撰組は最初たった4人で踏み込み、戦闘の末に彼らを征伐、暗殺・反乱の計画を事前に食い止めたとして、新撰組はその名をとどろかせることになったのです。一方、有力な志士達を殺害されたことで尊王攘夷派は大ダメージを受けました。

尊王攘夷とは

池田屋事件では新撰組が尊王攘夷派を襲撃して殺害しましたが、そもそも尊王攘夷とは何なのでしょうか。尊王攘夷の「尊王」とは天皇、「攘夷」とは「外国人を追い払う」の意味であり、つまり、尊王攘夷というのは「天皇中心となって外国人を追い払う政治」……すなわち1つの政治的思想です。

1853年のペリーによる黒船来航を皮切りに日本は外国の脅威に脅かされており、同時に外国人を嫌ってもいました。と言うのも、1858年にアメリカとの間に結ばれた日米修好通商条約は日本に不利益なものであったため、物価が上昇して生活が苦しくなった者も多かったのです。

また、日米修好通商条約は幕府が無勅許(天皇の許可を得ないこと)で調印しました。このため幕府に不満を持つ者も多く、幕府ではなく天皇による政治を思想とする声が挙がったのです。つまり、尊王攘夷派とはイコール反幕府派と捉えることができます。

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池田屋事件とは、京都の旅館・池田屋にて新撰組が尊王攘夷派を襲撃した末に殺害した事件であり、尊王攘夷派とは反幕府派のことだ。では、なぜこのような事件が起こったのだろうか?……ここからは時間をさかのぼって解説していくぞ。

公武合体派の薩摩藩、尊王攘夷派の長州藩

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\次のページで「公武合体の思想を持つ薩摩藩」を解説!/

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