国際連盟と日本の関わり
By 不明 – インターネット, パブリック・ドメイン, Link
国際連盟での日本の活躍
日本は国際連盟の原加盟国であり、理事会の常任理事国としても一定の影響力を持っていました。地理的な距離があることから、ヨーロッパの問題に対して中立的な介入も可能で、そうした立ち位置も期待されていたようです。
国際連盟設立に際し、日本は人種的差別の撤廃を明記することを提案しています。このような場で人種平等が主張されたのは、歴史上初めてのことでした。日本は当時、非白人が治める唯一の列強です。人種的差別撤廃案の提出には、自国が平等な利益を得られるようにという意図があったことは事実でしょう。しかしこの案は、欧米諸国において人種差別に苦しむ人々から大きな支持を得ました。採決ではイギリスやアメリカの反対により残念ながら可決に至らなかったものの、過半数の国の支持を得たとの記録が残っています。
なお旧五千円札の肖像だった新渡戸稲造は、国際連盟の設立当初の事務次長の一人でした。『武士道』の著者としてよく知られていますが、国際連盟においても重要な地位で活躍していたのですね。
日本の国際連盟脱退
日本は1933年に国際連盟からの脱退を決めます。これは、満州事変の影響でした。
1932年の満州国建国に抗議して、中華民国が国際連盟に提訴。国際連盟が満州に派遣したリットン調査団は、満州国の建国を認めないという結論を出しました。審議の結果、これは42票の賛成のもと可決されます。タイが棄権したものの、反対したのは日本のみという圧倒的な敗北でした。
リットン調査団は日本の立場にも配慮し、満州における日本の特殊権益を認める旨を表明していました。しかし日本政府はこの結果に納得せず、全権を担っていた松岡洋右が国際連盟からの脱退を表明。そのまま会場を後にしたのです。その後、日本は国際連盟の離脱を正式に通告。猶予期間を経て、1935年3月に脱退するに至りました。
ただし正式な脱退に至るまでの猶予期間中、日本政府は分担金の支払いを続けています。また、国際連盟の関連活動へも協力は続けていました。いよいよ戦争の気配が濃厚となるまで、国際社会での一定の役割は果たしていたのです。
時代は変わり、国際連合へ
世界大戦の被害を再び繰り返さないようにと、国際協調を目指して設立された国際連盟。しかし、結果として国際連盟はさらなる世界大戦を防ぐことができませんでした。1930年代後半、第二次世界大戦が勃発。世界はより厳しい惨劇に巻き込まれていくのです。
実は戦争中も、規模を縮小しながら総会が継続されていました。それと同時に新しい国際平和機構の構想も議論されていて、これが国際連合へとつながっていきます。第二次世界大戦終戦後の1945年10月、戦争を引き起こした国際連盟の反省を踏まえつつ51か国を原加盟国として国際連合が設立。国際連盟と国際連合は異なる機関であり、国際連盟がそのまま名称だけを変えて国際連合になったというわけではありません。
国際連合の設立からほどなくして、国際連盟の最後の総会が開かれました。1946年4月のことでした。このとき、国際連盟の解散が決議されたのです。資産やその機能の一部が国際連合に引き継がれ、国際連盟はその役割を終えました。
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国際連盟から国際連合へ、平和な世の中への努力は続く
第一次世界大戦が終わった後、もっと協調した国際社会を築くことができるようにとの期待を込めて設立されたのが国際連盟です。しかし、国際連盟は第二次世界大戦の勃発を防ぐことができず、世界は再び悲惨な戦争に巻き込まれていきました。平和を希求する初めての国際機関として、国際連盟にはまだまだ成熟していなかった部分がたくさんあったのです。大国を中心とした世界の国々が、力を武器に、自国の利益ばかりを求めて動いていたこともまた事実でしょう。
第二次世界大戦後、国際連盟は解散されました。今では新たに国際連合が活動を行っていますね。国際連合にも様々な問題点はありますが、国際連盟の反省を取り入れて改善された面も数多くあります。それは、秩序ある国際社会を願う人々の努力の結果かもしれません。
国際連盟の創始者の1人であるイギリスの政治家ロバート・セシルは、最後の総会に出席してこんな言葉を残しました。「国際連盟は終わった。国際連合よ、長寿であれ」。戦争を引き起こすのは人間ですが、安定した世界を求めるのも同じ人間なのでしょうね。