
いよいよ挙兵の日、日時は184年3月

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蜂起の前に、張角は馬元義を都である『洛陽』(らくよう)に潜入させ、内通者を探させました。これは様々な説があるようですが、役人の中で数人の内通者が見つかったといいます。
決行日は3月5日と定め、内と外から蜂起するよう約束しましたが、なんと張角の弟子の唐周が宦官達に密告したことで、蜂起計画が発覚してしまうのです。これにより洛陽に潜入していた馬元義は、処刑されてしまいました。この騒動でさらなる内通者を疑った霊帝は、洛陽中の衛兵や民衆を調べさせ、千人余りを誅殺してしまうのです。
計画が漏れてしまった張角は、計画を繰り上げ決行は2月末とし、各地の諸侯に通達すると各地の門に『甲子』と書き殴りました。
蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
現代まで残る有名な文句です。各地の門に書き殴った甲子とは、干支の一つ、184年という革命の年月を暗示していました。各地で反乱を起こした信者たちは、頭に黄色い布を巻いていたことから『黄巾党』と呼ばれました。黄巾の乱の『黄巾』はここからきたんですね。
朝廷は、外戚である何進を大将軍に任命する
一方朝廷は、外戚(がいせき・皇帝の妻の親族のこと、何進の妹が皇帝に嫁いでいました)である「何進」(かしん)を大将軍に任命しました。各地の討伐軍へ将兵を出しましたが、中々足並みが揃わず官軍は次々と敗戦してしまうのです。これを見た民衆は、本当に朝廷を滅ぼして世を救う姿が浮かんできたのでしょう、反乱に加わる者も増え、この大反乱は中国全土へと広がっていきます。
しかし、「皇甫嵩」(こうほすう)という武将が入廷を果たすと、霊帝から討伐軍の増強のための資金を獲得するのです。『黄巾党』の事を、世を乱す逆賊として義勇兵を集めていきました。集まった将兵たちの中には、ここから世を動かしていくことになる「曹操」(そうそう)「孫堅」(そんけん)「劉備」(りゅうび)などもいたそうです。
募兵で集まった武将の中から、討伐軍の将軍には、皇甫嵩や「盧植」(ろしゅく)『朱儁」(しゅしゅん)などが任命され、特に蜂起の大きかった『豫州』(よしゅう)へ皇甫嵩と朱儁を派遣し、張角が率いていた『冀州』(きしゅう)へは、盧植が派遣されました。
豫州・潁川黄巾軍の動き
184年4月、朱儁は豫洲の『潁川』(えいせん)から。豫洲とは、当時13ある州の一つで、地図で見ると中央よりやや北に位置しています。潁川はその西端にある地の名称です。波才と激突した朱儁でしたが、黄巾党の勢いは激しく敗走してしまいます。
5月、皇甫嵩が合流した後、朱儁と共に長社に篭城することとなり、それを波才は大軍を持って包囲しました。劣勢のなか、皇甫嵩は軍を鼓舞し火計を用いて波才軍を混乱させると、長社を討ってでて波才軍を敗走させます。そこにちょうど援軍に来た曹操軍と合流し、圧倒的な兵力でさらに打ち破ることが出来たのです。皇甫嵩と曹操軍は、敗走した波才を追撃し『陽翟』(ようたく)において壊滅し、豫州を平定しました。6月の出来事でした。
荊州・南陽黄巾軍の動き

184年3月、『荊州』(けいしゅう)の『南陽』(なんよう)から。荊州とは中国の中央に位置する州で、今後三国時代に重要な役割を担う地です。南陽とは、荊州の北端に位置しています。ここでは、張曼成率いる南陽黄巾軍が蜂起していました。当時の太守を攻め倒す事に成功し、自ら『神上使』を称し駐屯していたのです。
6月、新しく任命された南陽太守が張曼成を攻め、斬り捨てられてしまいます。南陽黄巾軍はすぐさま新たな指揮官として「趙弘」(ちょうこう)を立て、宛城に籠りました。その頃豫州を平定し終えた朱儁が合流し、宛城を包囲したのです。
8月、朱儁は宛城を攻撃し、趙弘を斬りました。趙弘を失った黄巾軍は『韓忠』(かんちゅう)を代わりに立て再び宛城に篭ったのですが、ここで朱儁配下の孫堅が登場します。兵法に優れていた孫堅の活躍であっけなく宛城は落城してしまいました。韓忠は脱出に成功し、降伏しようとしたのですが朱儁は受け入れず、処刑してしまったため、南陽黄巾軍は新たに『孫夏』(そんか)を立て、さらに抵抗を続けたのです。
10月、ここまで激しく抵抗を続けていた孫夏でしたが、朱儁はついにこれを打ち破り、南陽黄巾軍を壊滅させました。
南陽の戦いを見ると『黄巾党』の反撃の意志がいかに強かったか、伺い知ることが出来ますね。指揮官が「張曼成」→「趙弘」→「韓忠」→孫夏』と討たれても討たれても新しく立てられ、反撃を続けたました。これは、この黄巾兵たちがただ指揮官に付き従っているというだけでなく、一人一人自ら放棄の意志を持っていた証拠なのではないでしょうか。朱儁にしてみれば、指揮官を討ったにも関わらず勢いの変わらない黄巾党は、とても恐ろしくもののように思えたはずです。そうして朱儁は、南陽黄巾軍を壊滅させるに至ったのではないでしょうか。
冀州・張角軍の動き

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184年6月、『冀州』(きしゅう)から。冀州から中国の北端にある地です。黄巾党の本拠地である『広宗』(こうそう)もここにありました。黄巾軍の本拠地目指し連戦連勝の快進撃を見せていた盧植軍は、張角が広宗に篭城すると、それを包囲し攻め落とそうとました。盧植軍は終始優勢だったのですが、派遣されてきた宦官に賄賂を贈らなかったため、指揮官の職を罷免されてしまうのです。代わりに派遣されてきたのが董卓ですが、逆に黄巾軍に敗れてしまいます。いくら腐りきった朝廷・官軍といえども戦時中にこのような賄賂を要求するとは考えられませんね。しかも有利な情勢を作っていた指揮官を罷免するなど、宦官は黄巾党の事を見下していたのでしょうか。
8月、朝廷は豫州を平定したあと、各地の黄巾党を討伐していた皇甫嵩を、冀州に派遣するよう命じました。
10月、皇甫嵩は広宗で黄巾党の本拠地を奇襲によって破り、張角の弟である張梁を斬りました。このときすでに張角は病死していたため、黄巾党の指揮をとっていたのは、張角ではなく張梁ではないかと思われます。皇甫嵩は、埋葬されていた張の遺体を引きずり出し都に持ち帰ると、晒してしまいました。さらに、『曲陽』(きょくよう)の地で、もう一人の弟である張宝を打ち破りこれを処刑します。これにより指導者を失った黄巾党は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かっていくのです。
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