今日は、三国志最大の反乱「黄巾の乱」について、勉強していこう。官軍に鎮圧されたその乱は、何故起きたのか。何故最大といわれるほど大きいものとなったのか。三国時代はまさにこの乱から始まったんです。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は『黄巾の乱』について、わかりやすくまとめた。

当時の民の暮らしとは、朝廷の政策とは

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 この乱の原因を探っていくと、先代の13第皇帝である「桓帝」(かんてい)に行き当たります。桓帝には子がおらず、跡継ぎは桓帝(の妻たちによって擁立された第14第皇帝の「霊帝」(れいてい)になりました。しかし、霊帝は帝としてはあまりにも富を持たない人物でした。それでも国庫に蓄えがあれば良かったのですが、先代皇帝の桓帝は宦官を重用していたため、この時点で国庫は空になっていたいました。

 そこで霊帝は、売官という制度を実施するのです。政治から公正性は失われ、全ての官位はお金で売買されました。役人は出世の為に重税を課し、民は酷く苦しめられたのです。さらにこの政策は別の争いも生みました。

 朝廷内では、霊帝(を擁立した皇后一派と、桓帝健在の頃に重用された宦官たちとの間に権力争いが行われていました。この頃の朝廷内での権力と言えばお金そのもの、つまり財力です。財力を得るために官位の売買が激しくなる、高い官位が欲しい地方役人たちなどが、民に重税を課して資金を得ようとする、まさに民にとっては朝廷によってもたらされた最悪の時代なのでした。

 奇しくもこの頃、地方では飢饉が続発しており、それも相まって民の暮らしは想像を絶するものに違いありませんね。

黄巾党の首謀者「張角」とは

清代の書物に描かれた張角
By Unknown author - Taken from Gongjin's Campaign Memorials: a Three Kingdoms Wiki

 そんな中「頂角」(ちょうかく)という人物が、奇跡の力を持って『太平道』という宗教を興しました。頂角の持つ奇跡の力とは、祈祷によって病を治すというもの、当時医師に診てもらえるのは高位の身分の、ほんの一部の人間だけでした。

 はじめは、怪しいと民たちに受け入れられなかった頂角でしたが、その巧みな話術とプラシーボ効果で信者の獲得に成功していきました。民たちも、もはや何も信じられない朝廷よりは、マシだと思ったのでしょう。つまり『黄巾の乱』を起こした者達は、『太平道』(たいへいどう)の信者を中心とした民たちです。ここから黄巾の乱とは『乱』というにはやや違和感を覚えます。ただの反乱ではなく、黄巾党の蜂起といった方が正しいのではないでしょうか。

 『黄巾党』を率いていた張角は、若い頃から政治に興味があったのか、一度は役人の試験を受けているのです。残念ながら落ちてしまうのですが、太平道という宗教を立ち上げてからは、数十年という時をかけて何十万という信者の獲得に成功したのでした。

「黄巾党」にはどんな人物がいた?

 ここで、張角以外にも黄巾党として蜂起に参加した武将たちについても、勉強していきましょう。

 「張宝」(ちょうほう)とは張角のすぐ下の弟です。太平道の立ち上げの時から、張角の補佐をしていました。『地公将軍』(ちこうしょうぐん)を自称し、黄巾党の蜂起が起こった時には、張角は病を患っていたため、実質的な指揮は彼がとっていたのではないかと思います。

 「張梁」(ちょうりょう)とは張角・張宝の弟です。張宝と同じく、太平道立ち上げの頃から張角に従っていました。蜂起の時には『人公将軍』(じんこうしょうぐん)と名乗り、討伐軍と戦いました。

 「張曼成」(ちょう まんせい)とは『南陽』(なんよう)で民衆を集め挙兵した指導者の一人です。

 「波才」(はさい)とは『潁川』(えいせん)で民衆を集め挙兵した指導者の一人ですが、波才は『三国志演義』には登場しません。

 「唐周」(とうしゅう)とは、黄巾党の蜂起に参加した張角の腹心でしたが、どうやら二心を抱いていたようでした。

 「張燕」(ちょうえん)とは『黄巾の乱』発生時、それに呼応するように各地の盗賊を率いて暴れまわった人物です。『黒山衆』という100万を超える山賊や罪人などを率いた頭領でした。

 黄巾党の代表的な武将といえば、こういった人物たちでした。それぞれ腕が立ったり、優れた兵法を駆使したりと、討伐軍を苦戦させた武将たちでした。

\次のページで「いよいよ挙兵の日、日時は184年3月」を解説!/

いよいよ挙兵の日、日時は184年3月

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 蜂起の前に、張角は馬元義を都である『洛陽』(らくよう)に潜入させ、内通者を探させました。これは様々な説があるようですが、役人の中で数人の内通者が見つかったといいます。

 決行日は3月5日と定め、内と外から蜂起するよう約束しましたが、なんと張角の弟子の唐周が宦官達に密告したことで、蜂起計画が発覚してしまうのです。これにより洛陽に潜入していた馬元義は、処刑されてしまいました。この騒動でさらなる内通者を疑った霊帝は、洛陽中の衛兵や民衆を調べさせ、千人余りを誅殺してしまうのです。

 計画が漏れてしまった張角は、計画を繰り上げ決行は2月末とし、各地の諸侯に通達すると各地の門に『甲子』と書き殴りました。

 蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉

 現代まで残る有名な文句です。各地の門に書き殴った甲子とは、干支の一つ、184年という革命の年月を暗示していました。各地で反乱を起こした信者たちは、頭に黄色い布を巻いていたことから『黄巾党』と呼ばれました。黄巾の乱の『黄巾』はここからきたんですね。

朝廷は、外戚である何進を大将軍に任命する

 一方朝廷は、外戚(がいせき・皇帝の妻の親族のこと、何進の妹が皇帝に嫁いでいました)である「何進」(かしん)を大将軍に任命しました。各地の討伐軍へ将兵を出しましたが、中々足並みが揃わず官軍は次々と敗戦してしまうのです。これを見た民衆は、本当に朝廷を滅ぼして世を救う姿が浮かんできたのでしょう、反乱に加わる者も増え、この大反乱は中国全土へと広がっていきます。

 しかし、「皇甫嵩」(こうほすう)という武将が入廷を果たすと、霊帝から討伐軍の増強のための資金を獲得するのです。『黄巾党』の事を、世を乱す逆賊として義勇兵を集めていきました。集まった将兵たちの中には、ここから世を動かしていくことになる「曹操」(そうそう)「孫堅」(そんけん)「劉備」(りゅうび)などもいたそうです。

 募兵で集まった武将の中から、討伐軍の将軍には、皇甫嵩や「盧植」(ろしゅく)『朱儁」(しゅしゅん)などが任命され、特に蜂起の大きかった『豫州』(よしゅう)へ皇甫嵩と朱儁を派遣し、張角が率いていた『冀州』(きしゅう)へは、盧植が派遣されました。

豫州・潁川黄巾軍の動き

 184年4月、朱儁は豫洲の『潁川』(えいせん)から。豫洲とは、当時13ある州の一つで、地図で見ると中央よりやや北に位置しています。潁川はその西端にある地の名称です。波才と激突した朱儁でしたが、黄巾党の勢いは激しく敗走してしまいます。

 5月、皇甫嵩が合流した後、朱儁と共に長社に篭城することとなり、それを波才は大軍を持って包囲しました。劣勢のなか、皇甫嵩は軍を鼓舞し火計を用いて波才軍を混乱させると、長社を討ってでて波才軍を敗走させます。そこにちょうど援軍に来た曹操軍と合流し、圧倒的な兵力でさらに打ち破ることが出来たのです。皇甫嵩と曹操軍は、敗走した波才を追撃し『陽翟』(ようたく)において壊滅し、豫州を平定しました。6月の出来事でした。

荊州・南陽黄巾軍の動き

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 184年3月、『荊州』(けいしゅう)の『南陽』(なんよう)から。荊州とは中国の中央に位置する州で、今後三国時代に重要な役割を担う地です。南陽とは、荊州の北端に位置しています。ここでは、張曼成率いる南陽黄巾軍が蜂起していました。当時の太守を攻め倒す事に成功し、自ら『神上使』を称し駐屯していたのです。

 6月、新しく任命された南陽太守が張曼成を攻め、斬り捨てられてしまいます。南陽黄巾軍はすぐさま新たな指揮官として「趙弘」(ちょうこう)を立て、宛城に籠りました。その頃豫州を平定し終えた朱儁が合流し、宛城を包囲したのです。

 8月、朱儁は宛城を攻撃し、趙弘を斬りました。趙弘を失った黄巾軍は『韓忠』(かんちゅう)を代わりに立て再び宛城に篭ったのですが、ここで朱儁配下の孫堅が登場します。兵法に優れていた孫堅の活躍であっけなく宛城は落城してしまいました。韓忠は脱出に成功し、降伏しようとしたのですが朱儁は受け入れず、処刑してしまったため、南陽黄巾軍は新たに『孫夏』(そんか)を立て、さらに抵抗を続けたのです。

 10月、ここまで激しく抵抗を続けていた孫夏でしたが、朱儁はついにこれを打ち破り、南陽黄巾軍を壊滅させました。

 南陽の戦いを見ると『黄巾党』の反撃の意志がいかに強かったか、伺い知ることが出来ますね。指揮官が「張曼成」→「趙弘」→「韓忠」→孫夏』と討たれても討たれても新しく立てられ、反撃を続けたました。これは、この黄巾兵たちがただ指揮官に付き従っているというだけでなく、一人一人自ら放棄の意志を持っていた証拠なのではないでしょうか。朱儁にしてみれば、指揮官を討ったにも関わらず勢いの変わらない黄巾党は、とても恐ろしくもののように思えたはずです。そうして朱儁は、南陽黄巾軍を壊滅させるに至ったのではないでしょうか。

冀州・張角軍の動き

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 184年6月、『冀州』(きしゅう)から。冀州から中国の北端にある地です。黄巾党の本拠地である『広宗』(こうそう)もここにありました。黄巾軍の本拠地目指し連戦連勝の快進撃を見せていた盧植軍は、張角が広宗に篭城すると、それを包囲し攻め落とそうとました。盧植軍は終始優勢だったのですが、派遣されてきた宦官に賄賂を贈らなかったため、指揮官の職を罷免されてしまうのです。代わりに派遣されてきたのが董卓ですが、逆に黄巾軍に敗れてしまいます。いくら腐りきった朝廷・官軍といえども戦時中にこのような賄賂を要求するとは考えられませんね。しかも有利な情勢を作っていた指揮官を罷免するなど、宦官は黄巾党の事を見下していたのでしょうか。

 8月、朝廷は豫州を平定したあと、各地の黄巾党を討伐していた皇甫嵩を、冀州に派遣するよう命じました。

 10月、皇甫嵩は広宗で黄巾党の本拠地を奇襲によって破り、張角の弟である張梁を斬りました。このときすでに張角は病死していたため、黄巾党の指揮をとっていたのは、張角ではなく張梁ではないかと思われます。皇甫嵩は、埋葬されていた張の遺体を引きずり出し都に持ち帰ると、晒してしまいました。さらに、『曲陽』(きょくよう)の地で、もう一人の弟である張宝を打ち破りこれを処刑します。これにより指導者を失った黄巾党は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かっていくのです。

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184年10月、反乱の終結

 184年10月、黄巾党による民衆蜂起は、指導者を失い終結しました。

 しかし、乱が終結しようとも乱の根本的原因である、政治腐敗による民衆の不満が改善されることはなく、黄巾軍の残党はこののちも中国全土で、反乱を繰り返したり山賊行為や盗賊行為を行っていました。この中で、白波谷に集まった残党は『白波賊』と称されており、後の盗賊のことを『白波』と呼ぶようになりました。

 また、北の地では反乱に合わせ挙兵していた張燕は、100万を超える兵を持っていたといい、それらは『黒山衆』と呼ばれました。この黒山衆は、もはや精強な軍隊と呼べるほどになり、後に河北一帯の覇者となる『袁紹』(えんしょう)を最後まで苦しめていったのです。

 中国全土で同時期に発生した乱は、もはや張角がおらずとも納まるものでは無くなっていました。朝廷の威信というものもあり、乱の終結は10月となっており、たった8ヶ月の反乱のようにいわれていますが、実際はこれら小規模の反乱は、20年余りも続いたそうです。

 朝廷の討伐、太平の世を夢見ていた張角ですが、この当時の中国は荒れに荒れていました。難を逃れるため、中央付近にいた大量の知識人たちは、黄巾党の勢い少ない地方へと移っていきました。ですが、この動きは地方の文化水準の向上と開発に繋がり、以後の三国時代を支えることとなっていったのです。

『黄巾の乱』は三国時代の基盤となった

『黄巾の乱』は中国史史上、最大・最長の民衆蜂起です。政治の腐敗に端を発したこの乱ですが、皇帝の威信が弱まっていたことも事実なのでしょう。この乱をきっかけに乱世は深まっていくのですが、様々な武将たちが皇帝をまるで政治の道具のように利用してしまうさまは、少し悲しくも感じられます。

ここから始まる三国時代ですが、この時の中国の人口は5,500万人あまり。そして三国時代終焉の280年の人口は1,500万人ほど。たった100年で4,000万人もの命が失われていったのです。

『黄巾の乱』を勉強していくと、朝廷の腐敗などが目についてまるで張角が英雄のように感じられることも事実ですが、ここから乱世が深まり多くの人々の命が失われたことも一緒に覚えてほしいなと思います。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

三国時代の幕開け!三国志最大の反乱「黄巾の乱」を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、三国志最大の反乱「黄巾の乱」について、勉強していこう。官軍に鎮圧されたその乱は、何故起きたのか。何故最大といわれるほど大きいものとなったのか。三国時代はまさにこの乱から始まったんです。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は『黄巾の乱』について、わかりやすくまとめた。

当時の民の暮らしとは、朝廷の政策とは

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 この乱の原因を探っていくと、先代の13第皇帝である「桓帝」(かんてい)に行き当たります。桓帝には子がおらず、跡継ぎは桓帝(の妻たちによって擁立された第14第皇帝の「霊帝」(れいてい)になりました。しかし、霊帝は帝としてはあまりにも富を持たない人物でした。それでも国庫に蓄えがあれば良かったのですが、先代皇帝の桓帝は宦官を重用していたため、この時点で国庫は空になっていたいました。

 そこで霊帝は、売官という制度を実施するのです。政治から公正性は失われ、全ての官位はお金で売買されました。役人は出世の為に重税を課し、民は酷く苦しめられたのです。さらにこの政策は別の争いも生みました。

 朝廷内では、霊帝(を擁立した皇后一派と、桓帝健在の頃に重用された宦官たちとの間に権力争いが行われていました。この頃の朝廷内での権力と言えばお金そのもの、つまり財力です。財力を得るために官位の売買が激しくなる、高い官位が欲しい地方役人たちなどが、民に重税を課して資金を得ようとする、まさに民にとっては朝廷によってもたらされた最悪の時代なのでした。

 奇しくもこの頃、地方では飢饉が続発しており、それも相まって民の暮らしは想像を絶するものに違いありませんね。

黄巾党の首謀者「張角」とは

 そんな中「頂角」(ちょうかく)という人物が、奇跡の力を持って『太平道』という宗教を興しました。頂角の持つ奇跡の力とは、祈祷によって病を治すというもの、当時医師に診てもらえるのは高位の身分の、ほんの一部の人間だけでした。

 はじめは、怪しいと民たちに受け入れられなかった頂角でしたが、その巧みな話術とプラシーボ効果で信者の獲得に成功していきました。民たちも、もはや何も信じられない朝廷よりは、マシだと思ったのでしょう。つまり『黄巾の乱』を起こした者達は、『太平道』(たいへいどう)の信者を中心とした民たちです。ここから黄巾の乱とは『乱』というにはやや違和感を覚えます。ただの反乱ではなく、黄巾党の蜂起といった方が正しいのではないでしょうか。

 『黄巾党』を率いていた張角は、若い頃から政治に興味があったのか、一度は役人の試験を受けているのです。残念ながら落ちてしまうのですが、太平道という宗教を立ち上げてからは、数十年という時をかけて何十万という信者の獲得に成功したのでした。

「黄巾党」にはどんな人物がいた?

 ここで、張角以外にも黄巾党として蜂起に参加した武将たちについても、勉強していきましょう。

 「張宝」(ちょうほう)とは張角のすぐ下の弟です。太平道の立ち上げの時から、張角の補佐をしていました。『地公将軍』(ちこうしょうぐん)を自称し、黄巾党の蜂起が起こった時には、張角は病を患っていたため、実質的な指揮は彼がとっていたのではないかと思います。

 「張梁」(ちょうりょう)とは張角・張宝の弟です。張宝と同じく、太平道立ち上げの頃から張角に従っていました。蜂起の時には『人公将軍』(じんこうしょうぐん)と名乗り、討伐軍と戦いました。

 「張曼成」(ちょう まんせい)とは『南陽』(なんよう)で民衆を集め挙兵した指導者の一人です。

 「波才」(はさい)とは『潁川』(えいせん)で民衆を集め挙兵した指導者の一人ですが、波才は『三国志演義』には登場しません。

 「唐周」(とうしゅう)とは、黄巾党の蜂起に参加した張角の腹心でしたが、どうやら二心を抱いていたようでした。

 「張燕」(ちょうえん)とは『黄巾の乱』発生時、それに呼応するように各地の盗賊を率いて暴れまわった人物です。『黒山衆』という100万を超える山賊や罪人などを率いた頭領でした。

 黄巾党の代表的な武将といえば、こういった人物たちでした。それぞれ腕が立ったり、優れた兵法を駆使したりと、討伐軍を苦戦させた武将たちでした。

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