
生麦事件と薩英戦争
島津斉彬の死後も公武合体の思想を守り続けてきた薩摩藩ですが、その思想を変えるきっかけとなる事件が1862年に起こります。薩摩藩の第12代藩主・島津家茂の父である島津久光一行が、その大名行列に割いて入った4人のイギリス人に斬りかかって殺傷、これが生麦事件と呼ばれるものです。
斬りかかったのは島津久光のお供についていた藩士達で、薩摩藩はこの事件でイギリスの怒りを買ってしまい、翌1863年に薩英戦争が起こります。当時イギリス海軍は世界最強と謳われていましたが、薩摩藩は意外にも善戦して日本の底力を見せつけました。
戦争後、善戦した薩摩藩に対してイギリスは高く評価、また薩摩藩もイギリスの軍事力の高さに感心して、以後薩摩藩とイギリスは講和交渉を通じて関係を深めていったのです。そして、同時に薩摩藩はこの薩英戦争によって外国の強さを実感したのでした。
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薩長同盟と幕府の権威失墜
薩摩藩が公武合体を思想とするのは、幕府と朝廷が協力してまとまらなければ外国に対抗できないと考えたからで、薩英戦争によってより強くそれを感じたに違いありません。ところが、公武合体を実現するための参与会議はわずか数ヶ月で崩壊、島津久光主導で行ったきた幕政改革路線も遂行不可能な状況に陥ったのです。
すなわちそれは公武合体の実現が行き詰ったことを意味しており、薩摩藩はその後長州藩を薩長同盟を結びます。最も、薩摩藩と長州藩は思想が異なる上、禁門の変において両藩が武力衝突したため、お互い犬猿の仲とも言える関係でした。
しかし、坂本竜馬が両藩の間に入ってうまく仲介、関係修復によって同盟を結ぶまでに至ったのです。また、この時朝敵となっていた長州藩は幕府による第二次長州征討の攻撃を受けます。ところが、薩長同盟によって武器が充実した長州藩は幕府との互角以上に戦い、1つの藩に敗北した幕府は完全にその権威を失うことになったのです。
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幕府の終わり 戊辰戦争
公武合体が実現不可能だと悟った薩摩藩は考えを改めます。そして出た結論は倒幕……つまり江戸幕府を倒すことでした。実際、薩長同盟はその基盤となっており、安政の大獄に対する反発なども原因で各地で倒幕ムードが加速していったのです。
既に力を失った幕府もそれを実感しており、第15代将軍・徳川慶喜は武力倒幕実行寸前の1867年11月9日、大政奉還を行って自ら幕府に終止符を打ちました。しかし、徳川慶喜はそれでも政治に関わり続けたため、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が起こります。
倒幕へと考えを切り替えた薩摩藩は、当然新政府軍側について旧幕府軍と戦いました。この戦争で新政府軍は勝利、鎌倉時代より続いていた幕府による政治は終わり、明治政府による新たな政治と時代が始まることになったのです。
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薩摩藩の終わり 廃藩置県
戊辰戦争では多くの薩摩藩の軍人が活躍、また明治政府誕生にあたって政府を支える官僚も薩摩藩の者が多くいました。これは長州藩も同様で、そのため明治政府の重要な職に就いた者の多くが薩摩藩か長州藩の出身であり、そのため薩長政治とも呼ばれています。
さて、明治政府は政治政策として廃藩置県を行いますが、これは文字どおり藩を廃止して県を置くことです。このため廃藩置県を行ったことで薩摩藩はなくなり、改めて鹿児島県と呼ばれるようになりました。しかし、これが薩摩藩の士族に不満を与える結果になってしまいます。
明治政府誕生後、薩摩藩の士族達は政府に反発して各地で暴動を起こしていました。また、西郷隆盛も方針の違いから明治政府を離れます。そして、ついには西郷隆盛が率いる薩摩藩の士族達と明治政府による西南戦争が起こることになるのでした。
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薩摩藩を学ぶ時には藩と藩主の動向のみに注目する
薩摩藩を学ぶ上で注意したいのが脱線です。例えば西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩出身ですが、彼らの歴史を追ってしまうと薩摩藩と全く無関係の事件や戦いが起こります。
そうすると、薩摩藩を学ぶはずがいつの間にか別の事件や戦いを学ぶことになってしまいますね。ですから、薩摩藩を学ぶのであればあくまでも藩と藩主の動きのみを追ってください。