
また、歴史が少々苦手な人だと「藩」というもの自体が分かりづらいかもしれませんね。そこでだ、薩摩藩と覚えると同時に藩とは何かも基本から覚えておこう。今回も日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩摩藩をわかりやすくまとめた。
藩についての説明
藩とは、江戸時代から明治時代の初期にかけて大名(地位の高い武士)に与えられた領地です。正確には1万石以上の領地を支配する大名が治めていた自治領的な区域であり、現代の「県」に置き換えてイメージすると分かりやすいでしょう。
ただしそれはあくまでイメージ、藩と県はその基本が異なっており、藩は県のようにシンプルに地理的な区分として考えてはいけません。なぜなら、藩は大名が自分のものとして所有する領地であって、国が定めた行政区分ではないのです。このため、藩主の功績次第で藩の領域が変更されることもあります。
これを現代の愛知県で例えた場合、愛知県の区分は国が定めたものであり、そのためこの先愛知県が広くなることも狭くなることもないでしょう。しかしこれが愛知藩となった場合、その持ち主は国ではなく大名であり、その大名の功績次第でこの先愛知藩は広くも狭くもなるということです。
石高についての説明
藩の規模を表現する時に「石」という単位がつけられていますが、これは藩の生産力を示したもので、「1石=1人が1年間に食べる米の量」を意味します。つまり、石高が50万石の藩の場合は50万人が1年間食べる量の米を生産できるということになるわけです。
最も、実際には天候や災害の影響で米の生産は豊作にも凶作にもなるでしょう。また、鹿児島に位置する薩摩藩に至っては、火山があることでそもそも米の生産に向いた土地ではありません。このため、数値上の石高と実際の石高には大きな差があったとされています。
ちなみに、石高は計算式によって出されたもので、面積が広ければ単純に石高も高くなるようになっていました。ですから、幕府は石高に注目することで大名の土地……すなわち藩の規模を把握しやすく、そのため土地を与える、減らすなどを容易に行えて幕藩体制の安定にもつながったのです。
1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が戦いました。この戦いで勝利したのは東軍で、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くのですが、薩摩藩は関ヶ原の戦いにおいて石田三成を味方しており西軍として戦っていました。
つまり薩摩藩は関ヶ原の戦いにおいての敗者であり、同時に徳川家康の敵でもあったのです。しかし、江戸幕府を開くにあたって功績をあげた徳川四天王の1人、井伊直弼の取りなしによって本領を承認され、島津義弘の三男である島津家久が当主として認められました。
これが薩摩藩成立の正式な瞬間とされており、江戸時代の幕末まで続く薩摩藩の領土が確定します。また、薩摩藩の場所は現在の鹿児島全域で、領土の広さはこれに加えて宮崎県の都城市、小林市、宮崎市の一部に奄美諸島を加えた広さでした。
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日本全国を統治しているのは幕府ですが、各藩の政治はある程度藩主に任されています。特に、薩摩藩の場合は鎌倉自体から島津氏が代々領主であったため、内部では独自の社会が築かれており、青少年の教育方法においても薩摩藩の独自の郷中教育を行っていました。
薩摩藩は代々島津氏が領主であり交代を行っていないため、藩主の居城の城下に上層武士を集めて住まわせる必要がありません。ですから上層武士達は領内の各地にまとまった形で住まわせており、そのエリアを郷と呼び、郷の中で行われた教育を郷中教育と呼んでいたのです。
この薩摩藩の郷中教育が独自だったのは教育において教師がいなかった点で、先輩が後輩に教えて同輩は助け合う……つまり学びながら教えて教えながら学ぶを教育の方針としていました。薩摩藩出身の歴史上の人物には西郷隆盛や大久保利通らがいますが、いずれもこの郷中教育を学んでいるのです。
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第11代藩主・島津斉彬の功績
1851年、島津斉彬が第11代・薩摩藩主になります。藩主に就任した島津斉彬は、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策である富国強兵に尽力、日本初となる西洋軍艦の建造やガラス、ガス灯の製造など日本の産業の発展にも貢献しました。
これを集成館事業と呼び、島津斉彬は日本で初の洋式産業群を起こしたのです。さらに島津斉彬は幕政にも積極的に口を挟んでおり、例えば幕府の老中・阿部正弘は1853年に安政の改革と呼ばれる幕政改革を行っていますが、元々これを阿部正弘に訴えたのは島津斉彬でした。
ちなみに、安政の改革は同年のペリーによる黒船来航による混乱が原因で行われたものです。この時に島津斉彬はこうした外交問題を打開するには公武合体(幕府と朝廷が協力して政治を行う)しかないと強く主張、以後薩摩藩は公武合体を思想としました。
第11第藩主・島津斉彬の死
当時、公武合体と対をなす思想だったのが尊王攘夷(外国人を追い払って天皇を中心とした政治を行う)で、公武合体を思想とする島津斉彬は日本の政治には幕府が必要と考えていました。そんな島津斉彬が幕府に不満を持つきっかけとなったのが、将軍継嗣問題やそれに反対する者に対する弾圧です。
島津斉彬は幕府の13代将軍の後継を巡って井伊直弼らと対立しますが、この将軍継嗣問題は井伊直弼が幕府の大老へと就任したことで決着がつきました。こうして島津斉彬は将軍継嗣問題で敗北、さらに井伊直弼はその地位を利用して反対する者を弾圧、これが1858年の安政の大獄です。
島津斉彬はこれに対して激しく抗議、藩の兵士5000人を率いて上洛(京都に入ること)を決意しますが、この大規模な抗議は島津斉彬が病死したことで結局行われませんでした。まさに出兵のための訓練を観覧している最中に発病、その約1週間後に死去してしまったのです。
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