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これが無ければ三国時代じゃなかった!?「赤壁の戦い」を中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今回は、映画『レッドクリフ』の題材にもなった『赤壁の戦い』について、勉強していこう。『赤壁の戦い』は大軍で攻め込んできた曹操軍を、劉備・孫権同盟軍がその兵力差にも屈さず、長江の赤壁の地で勝利を掴み取った戦いだ。この戦いの起きた理由から、何故劉備と孫権は同盟を結んだのか、圧倒的な兵力差にも関わらず曹操は何故敗走してしまったのか、この戦いの結末がどう三国時代に結びついていくのか、をわかりやすくまとめた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は『赤壁の戦い』について、わかりやすくまとめた。

戦いが起きる前の「曹操」「劉備」「孫権」は?

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By User Jie on en.wikipedia – Originally from en.wikipedia; description page is (was) here 08:26, 29 August 2004 Jie 416×350 (24,260 bytes) (Photo of the traditional site of Chibi, north of Wulin, taken in 2003.), CC BY-SA 3.0, Link

 曹操は、『宦渡の戦い』で袁紹を降すと、中国の北側半分を平定しました。その勢いのまま、次の標的は「劉表」(りゅうひょう)が治める『荊州』と定めます。しかし、この当時の荊州には、「劉備」(りゅうび)が客将として迎えられていたのです。劉備の配下には、武勇に優れる「関羽」(かんう)や「張飛」(ちょうひ)がいたので、曹操の荊州攻略は遅々として進みませんでした。

 しかし劉表が病没し、後継者である「劉琮」(りゅうそう)がその後を継ぐと、情勢は変わります。はじめは曹操に交戦の意を示していた劉琮ですが、配下の勧めもあり曹操に降伏してしまうのです。荊州が曹操の手中に納まると、劉備も荊州にいることは出来ません。配下の将兵や慕う民たちを連れて、南下を始めます。張飛や趙雲などの働きもあり、劉備は曹操の手から逃れることが出来ました。

 一方「孫権」(そんけん)ですが、当時は巨大な勢力でもなく、ただ一つの勢力、程度の大きさでした。しかし、残った勢力の中では、唯一曹操に敵対していたのです。当然、荊州を手に入れた曹操の目は、最後の敵対勢力である『呉』(ご)に向かいます。曹操の大軍勢が攻めるなか、呉軍内部でも、降伏派・抗戦派と分裂していました。

劉備と孫権が同盟に至るまで

 曹操軍の追撃から逃げ切った劉備軍は『揚州』(ようしゅう)へと足を踏み入れます。そこで、当時曹操と敵対していた孫権軍に同盟を持ち掛けたのです。これを献策したのは、稀代の軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)でした。病死した劉表の弔問に訪れていた孫権軍の重鎮である「魯粛」(ろしゅく)に話を持ち掛け、諸葛亮自ら孫権との謁見に向かいます。

 諸葛亮を迎え入れた孫権の思惑は、こうでしょう。迫る曹操軍に対し抗戦するか、降伏するか、軍内部でも意見の割れていた議論に、名軍師である諸葛亮の意見も聞いてみたい、そんな思惑があったのではないでしょうか。実際に、劉備との同盟は案外あっさりと成り、その後の降伏派への説得の描写が多く見られるのです。

手を組んだ劉備と孫権だが、呉軍内部の降伏派の説得

 降伏派の主張はこうです。「曹操は、漢の皇帝である『献帝』を擁している、いかな理由があろうとも、その時点で、曹操の軍は皇帝の軍である、これに逆らえば逆賊の誹りを受けることとなる、ここは降伏しかない」曹操の本拠地には、董卓から救い出した献帝がいました。そのため、孫権軍の文官達は降伏を主張していたのです。

 一方、抗戦派の主張は「曹操の軍は、北からの長い遠征で疲弊している、この南の地に慣れておらず、普段の精強さは発揮出来ないはず。さらに、長江が戦場になるため、水軍の練度において我が軍は圧倒的に有利だ」抗戦派の筆頭は「周瑜」(しゅうゆ)と「魯粛」(ろしゅく)でした。彼らは歴代の当主であった「孫堅」(そんけん)や「孫策」(そんさく)の頃から呉に従う武将であり、彼らにとってこの戦の結末は手に取るように見えていたのでしょう。

 このような議論の最中、諸葛亮の提案が孫権の背中を押します。それは孫家と劉家の同盟です。しかも、主君である劉備の縁談をもった同盟でした。こうして曹操軍との徹底抗戦を決断した孫権は、赤壁に軍を布陣させたのです。

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赤壁の戦いに至る経緯は、このような事があったのだな。世の情勢は殆ど曹操に傾いているようだ。劉備・孫権軍には勝ち目は薄いように見えるが、知略に優れた周瑜と魯粛には抗戦に乗り出す理由があったのだろうな。

とうとう迫った曹操軍は20万の大軍!しかし軍内部では…

image by iStockphoto

 大軍で押し寄せた曹操軍は、赤壁の対岸である『鳥林』(うりん)に布陣させます。実は曹操は、ここまでに揚州攻略のための水軍の訓練を数年かけていたのでした。こうして、曹操軍と劉備・孫権軍は長江でにらみ合うこととなったのです。

 しかし、曹操軍内部では、曹操も予想しえなかった出来事が起こります。それは、疫病の蔓延でした。長い遠征で兵士達の疲労も限界だったのでしょう、慣れない土地で免疫力の下がった兵士たちの間で、あっという間に病は広がったのです。実はこの当時、病の蔓延といえば北方よりも南方での発症が多かったようでした。西暦にすると196年・199年・208年・217年・219年とに蔓延したとの記録があります。赤壁の戦いは208年ですので、まさに曹操軍内部での蔓延が、記録として残っているのでしょう。

 この疫病の蔓延により、曹操軍の受けた被害は甚大なものでした。孫権へ降伏を求めた曹操の書状によると、布陣した時は20万の大軍勢だったそうですが、実際に戦に望めたのはその中の何人でしょうか。劉備・孫権軍は5万ほどの兵力であったことから、実際はそこまでの兵力差ではなかったのかもしれません。

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