最後の内戦
1876年(明治9年)、政府の出した廃刀令により士族の不満は爆発し『萩の乱』等、各地で反乱が多発しました。そして鎮圧のたびに三菱は汽船を使い、兵員・弾薬を輸送します。そんな中、政府が最も警戒したのは鹿児島でした。野に下った西郷を慕い続々と人が集まり、私学校を開いていたのです。
翌年2月、ついに西郷は挙兵しました。西郷軍は強力でしたが海軍を持っていなかったため、側背攻撃と補給に力を注げば打ち破れると考えた大久保は、弥太郎に協力を要請。国内最後の内戦『西南戦争』が勃発します。想像以上に手ごわい西郷軍は補給も増兵もない状態で、なんと半年以上も抵抗を続けたのでした。
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母より先に
戦争の長期化により沿海航路の休止などの不利益を冒して軍事輸送に尽くした三菱は、結果的に莫大な利益(現代の価値で400億円とも)を手にします。この資産をもとに弥太郎は、造船・鉱山・貿易・金融・保険・鉄道といった発展途上国が必要としている事業に乗り出しました。1880年(明治13年)に開業した三菱為替店は三菱財閥の中核となって発展し、金融業界の先駆者である三井と並ぶ二大財閥に成長していきます。
その後、渋沢栄一や三井財閥らが『共同運輸会社』を設立し、またしても激しい値下げ競争を繰り広げる事となりました。
1885年(明治18年)2月7日、胃ガンが進行し体調が急速に悪化した弥太郎は、長寿で健勝であった母・美和に看取られ51年の生涯を閉じたのです。
立身出世の形
幼い頃からアクの強かった弥太郎は、多くの敵をつくりました。しかし、彼に人間的な魅力を感じ、理解するものは徹底して味方につき長く親交を保ったのです。
少年時代に学塾を何度も追い出され、藩職についても失敗を繰り返し役職を失ってきた岩崎弥太郎。商会運営の権限を与えられた大阪時代から、彼の事業家としての才能が花開いていったのです。企業の将来を左右する分岐点において、選択の道を誤らなかったのは、経営者としての天性の素質を持っていた事の証明ではないでしょうか。

