生涯の友・後藤象二郎
釈放以降、井ノ口村を追放された弥太郎は絵師である河田小龍を介して上士・後藤象二郎(しょうじろう)と出会います。そして、後藤の通う『少林塾』へ入門し乾(板垣)退助・谷干城(たてき)・福岡藤次らと共に学びました。
1858年(安政5年)に『日米修好通商条約』が結ばれると、参政・吉田東洋により外国交易の調査のため長崎に出張を命じられます。しかし、丸山(現・長崎市丸山町)の遊郭で藩の公金を使い込んでしまい無断で帰国。何とか金策に奔走し不足分は補えましたが、無断帰国の廉で官職を失ってしまいました。
また失敗
1862(文久2年)29歳になった弥太郎は喜勢(きせ)と結婚。同年4月、吉田東洋が土佐勤王党により暗殺されます。これにより東洋によって排されていた保守派が政権を握ることとなり、後藤や福岡らは辞任して野に下りました。
暗殺から2か月後、参勤交代で出府する藩主の隊列に『下横目(したよこめ)』として加わり、井上佐一郎と共に東洋暗殺犯を捜索するよう密命を受けます。しかし大阪で必要な届出に不備があり、それを咎められまたしても懲戒処分となってしまいました。
井上に別れを告げ帰国した直後、井上は土佐勤王党メンバーにより暗殺されてしまいました。さらに、下目付・広田章次も同様に殺害。
帰国した弥太郎は、安芸川の両岸に未開墾の地が目立つことに気づき役所へ行って、荒地開墾の許可を得ます。一家総出の上、自家の小作人まで動員し「岩崎開き」とよばれる新田をつくりました。
頭の固い上士たち
京都で起こった8・18の政変により山内容堂が政治に復帰し、江戸に遊学中だった後藤象そ二郎を呼び戻し参政に任命します。そして藩直営の商館『開成館』が開かれ、弥太郎を国産方に命じました。しかし、身分が上である上士たちの無能さと頑迷さに嫌気がさし、大事業を達成出来ないと判断した弥太郎は一か月で辞職してしまいます。
実際、開成館の運営は苦境に陥り領民たちから『阿呆館』と呼ばれる始末だったようです。事態を打開するため大阪と長崎に『土佐商会』を開設しますが、後藤の金銭感覚の緩さから多額の負債を抱えてしまいます。
福岡藤次から開成館の負債が、いかに土佐藩を窮地に追い込んでいるかを切々と聞かされた弥太郎は復職を決意しました。
坂本龍馬と協力し
1867年(慶応3年)、後藤、福岡と共に長崎へ向かいます。土佐藩士・坂本龍馬、中岡慎太郎の二人と面会するためでした。坂本は土佐藩を脱藩し、『亀山社中(かめやましゃちゅう)』という海運会社を開いていた為、彼を利用し土佐の海運業活性化しようとしたのです。清風邸会談と呼ばれた話し合いの末、両者は協力を約束し、亀山社中は名を『海援隊』とします。
その後も弥太郎は長崎で人脈をひろげ、外国商人のグラバーやウォルシュ兄弟らと交流を深めました。
開花する才能
1868年(慶応4年)神戸港が開港したため、これからの交易の中心は関西に移ると判断した弥太郎は後藤に土佐商会大阪支店を提案し、堂島や船場などを視察しました。
同年7月、大阪も開港し弥太郎の予想通り関西地区が賑わい始めるのです。
土佐藩は長崎の商会を閉鎖し、開成館貨殖局大阪出張所(かいせいかんかしょくきょく)を開設します。招かれた弥太郎はここで運営の問題点を調べ、粗利益が薄いことの原因は取引に鴻池や銭屋といった豪商、いわゆる御用商人を介在させているからだと考えました。
彼らを介さず長崎時代の人脈を生かし直接取引を行い、さらに輸送も藩船を使うことによって利益率を上げることに成功します。弥太郎流の成功を見た諸藩は、大阪出張所に外国商との取引斡旋を依頼してくるようになり、取引額に応じて手数料も入ってきました。しかし、このやり方に猛抗議した御用商人たちと後々まで争うこととなるのです。
九十九商会発足
1869年(明治2年)政府は版籍奉還(はんせきほうかん)を実施し大名は華族に、武士は士族となり土佐藩は高知藩となります。封建的制度の廃止を目指す政府は、全国的に金融・流通機関の整備を行い、その方針に従い大阪出張所は廃止されました。
といっても表面上で、翌年『九十九商会』として組織改編します。弥太郎は土佐屋善兵衛と名を変え、肩書を『商会掛』としていましたが事実上は経営責任者でした。
1872年(明治4年)7月14日、廃藩置県(はいはんちけん)の勅令により藩は解されます。国益のために海運業を育てたい政府は、諸藩に献納させた汽船を利用し郵便物輸送も民間に委託しようとしました。政府の意向に財界が応え『日本国郵便蒸気船会社』が設立、寄与したのは渋沢栄一や三井、鴻池といった御用商人たちでした。
三菱の戦い
1873年(明治6年)汽船の旗印に岩崎家の家紋『三階菱』を、山内家の『三柏紋』にアレンジしたものを使用していた事もあり、社名を『三菱商会』と改称します。
政府の保護下にある日本国郵便蒸気船会社と対抗するのは至難の業でした。直接取引の件で恨みを持つ連中は、三菱商会が開いた地方航路を潰しにかかってきたのです。そこで弥太郎は大口の取引先を奪うことを計画します。
荷積問屋の大手『東京積合店(つみあい)』に目をつけ、船賃の安さと船足の速さを売り込み猛烈な営業をかけました。対する日本郵便は、国に保護されているという意識から横柄な態度が目立っていたようで東京九店、さらには大阪九点の顧客を奪うことに成功します。
同年、岡山県の吉岡鉱山を購入。ここも利益を生み創業間もない三菱を支える収入源となりました。
台湾出兵を経て
三菱商会を立ち上げた年、中央政府は『征韓論』に敗れた西郷隆盛が下野し、それに同調し後藤・板垣・江藤らも辞職。実権は大久保利通が握ります。
さかのぼる事2年前、琉球・宮古島の住民が台湾に漂流した際『高砂族』に虐殺される事件が起こっていました。軍事制裁を決定した政府は軍隊輸送を日本郵便に依頼(当初はアメリカ、イギリスに依頼予定だったが中立を意思)。が、これを断り三菱に依頼がきました。
「国家有事の際、私利を顧みず公用を弁ずる」
三菱商会をフル稼働し軍隊と軍需物資を台湾に運び、大久保利通の信頼を得ます。そして海運業の育成に力を入れる事を決意した大久保は、『海運三策』を議会に提案し三菱を強く推薦しました。対する財界のリーダー・渋沢栄一は日本郵便を推し対抗しますが、頑固者であった大久保の押しにより『郵便汽船三菱会社』が誕生しました。
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外国汽船社との死闘
アメリカのPM社(パシフィック・メール社)は、サンフランシスコ~横浜~神戸~上海の航路を開いていました。三菱は対抗のため横浜~上海航路を開きます。PM社は運賃値下げで潰しにかかり三菱は更に下値をつける、といった値下げ競争が泥沼化。
半年後、白旗を挙げたPM社との交渉に臨んだ弥太郎は、汽船と航路を買収し今後30年は日清航路から撤収し三菱の商業を阻害しない事の誓約書を提出させたのです。
その4か月後、今度はイギリスのPO社(ペニンシュラー・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション・カンパニー)が上海~阪神間~東京の航路を開通してきます。しかも抜かりないことに、PO社は反三菱の拠点であった大阪の荷積組合の貨物輸送を一手に取り扱う約束を、素早く結んでいました。
またしても値下げ競争が勃発しますが、PM社買収のために多額の負債を背負った同社には、PO社と競争する余力が無いことは誰の目から見ても明らかでした。しかし、弥太郎は発奮します。
先に購入した吉岡鉱山の利益を軍資金に回しますが、いずれは尽きてしまいました。「大阪の荷積組合の貨物を取り返すしかない」と考えた弥太郎は、ある特典を思いつきます。荷主に対して、荷物を担保に資金を融資する『荷為替金融(にかわせ)』を提案、返済は商品代金を回収してからという融資条件は、荷主に歓迎される大成功を収めたのでした。
半年後、荷主を奪われたPO社は撤退し三菱は航路を独占したのです。
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