
貧困と差別の中、強い反骨精神を持ち立身出世を夢見た男の選んだ道を、幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部
歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末期において、志士とは違った形で未来を切り開いた『岩崎弥太郎』について詳しくまとめる。
荒々しき人
1834年(天保5年)土佐国安芸郡(現・安芸市)井ノ口村に産まれました。母・美和の手記によると「生まれし時より夜昼と泣き立て、まことに荒々しき人なり」と書かれています。
土佐藩では関ヶ原以降の山内(やまのうち)配下を上士、以前の長宗我部(ちょうそかべ)は配下を郷士として身分、待遇などに格段の差をつけていました。岩崎家は『地下浪人(ちげろうにん)』と呼ばれる武士の端くれで、元は郷士ですが貧窮などの理由から郷士株を売ってしまった家でした。
少年時代の弥太郎は、手が付けられないほどの腕白だったようです。母の美和は学問でも習えば性格も丸くなるだろうと考え、弥太郎の大叔父にあたる弥助に預けましたが、覚えが悪く、また一緒に習っていた従兄弟の馬之助(うまのすけ)が優秀であった為、見放されてしまいます。仕方なく美和の実兄である小野順吉に教育を依頼しますが、やはりダメでした。
弥太郎自身が勉強する気がなかったので当然、覚えなかったのです。
「いごっそう」は父譲り?
弥太郎が9歳の時、『秉彛館(へいいかん)』で小牧米山(めいざん)のもとで学び、また従兄弟の馬之助と机を並べました。ここで弥太郎は、初めて学問に興味を持ちます。「子いわく…」といった儒学ではなく、詩文のほうでした。また、『史記』や『十八史略』などの歴史書を読みふけっていたようです。しかし気の強さは相変わらずです、しばしば他の塾生たちとトラブルになっています。
弥太郎の詩作を評価していた米山は、他の塾生たちと流血沙汰になるのを恐れ再び弥助のもとへ行くように勧めました。見違えるように向上心に燃える弥太郎を、弥助は熱心に教えたようです。
15歳の時、高知城下にある岡本寧浦(ねいほ)の『紅友舎』に入塾。ここでまた馬之助と一緒に学びます。この塾は自由に学問を論じた塾で、幕末における土佐の俊才たちが多く輩出されました。
入塾から一年後、父・弥次郎は『いごっそう(頑固者)』であった為、地元の庄屋や分家との争いが絶えません。その度に仲裁役となって40キロの道のりを帰る弥太郎に岡本は「身を入れて学問ができるまで、家で自習」を命じます。
江戸は夢に
1854年(安政元年)、奥宮忠次郎という藩士が江戸へ向かうと聞いた弥太郎は、彼の従者へ志願しました。江戸で学問を学びたいと訴える弥太郎の熱意に負け、奥宮は承諾し11月23日、築地の土佐藩邸に到着します。その後、安積艮斎(あさかごんさい)の開く『見山楼』に入塾し、そこで塾頭になっていた馬之助と再び共に学びました。
しかし、またしても弥太郎は塾を去ります。父・弥次郎が庄屋とのトラブルにより大怪我を負わされたと、知らせを聞いた弥太郎は土佐へ戻りました。奉行所の判断は「焼酎の飲みすぎで自分で倒れた」との事、庄屋が賄賂を渡していたのです。
怒った弥太郎は役所の壁に『事以賄賂成獄以愛憎決(役人の仕事は賄賂をもって成り、裁判は個人感情をもって決す)』と落書きし、7ヶ月間牢屋に入りました。服役中、同房の商人から算術や商法を学び後の人生に生かされます。
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