今回は、フランスのブルボン朝を開いたアンリ4世についてです。アンリ4世はユグノー戦争と呼ばれる宗教戦争をナントの王令で終結させ、フランスをまとめた君主です。今でもフランス国民の中で高い人気を誇っている王です。

それじゃあフランスのアンリ4世について詳しい歴史大好きまぁこと一緒にアンリ4世について紹介していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁り、歴女ライフを満喫。ここ最近はブルボン家に関する本を愛読中!そんなまぁこがアンリ4世の知られざる生涯と愛妾ガブリエルの死について紹介していく。

1 「宙返りのアンリ」と呼ばれたアンリ4世

image by iStockphoto

アンリ4世ブルボン朝を開いた人物です。彼はフランス歴代の王の中でも人気があります。それはナントの王令によってユグノーと呼ばれるプロテスタントの信仰を保護したため。しかし彼の周りでは不審な死を遂げた人物がいました。それはアンリ4世の愛妾だったガブリエル。今回はアンリ4世の治世について紹介しつつ、寵姫ガブリエルの死の真相について見ていきたいと思います。

1-1 ユグノー戦争

Francois Dubois 001.jpg
By François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, Link

まずユグノーについてですが、これはカトリック信者から見たカルヴァン派のプロテスタントの呼び名です。もともとフランスはカトリックを信仰していた国。ですが宗教改革がフランスにも波及し、ユグノー教徒は次第に増えることに。アンリ4世は母がプロテスタントを信仰していたのでその影響からプロテスタントでした。カトリック信者のことを旧教、プロテスタントのことを新教とも言います。

そして両者は対立し、1562年からユグノー戦争が始まりました。この戦争は休戦を挟みながら1598年まで続くことになります。とても長い戦いですよね。

1-2 アンリとマルゴの結婚

1572年にアンリとヴァロワ朝の王女マルグリット(愛称マルゴ)が結婚しました。アンリは母の影響で新教徒。対する王女マルグリットは旧教徒でした。当時はユグノー戦争の最中だったため、カトリーヌ・ド・メディシスらが旧教徒と新教徒の2人が結婚すれば国内が安定させることができると策を練ったのです。ところが結婚を祝うために集まった新教徒たちを旧教徒らが襲いました。サンバルテルミの虐殺です。この虐殺によって3000人もの新教徒が命を落とすことに。

1-3 「3アンリの戦い」

兄シャルル9世が病死したため、新たにヴァロワ朝の王座へ座ったのは弟のアンリ3世。フランス国内の宗教内乱は次第に3アンリの戦いと呼ばれるように。これはヴァロワ朝のアンリ3世と、名門貴族ギーズ公アンリ、そしてブルボン家のアンリが王権争いをしたためでした。

3人のアンリによる三つ巴は、まずギーズ公のアンリに軍配が上がります。同じ旧教徒同士のヴァロワ朝のアンリ3世とギーズ公のアンリが手を組んだことで、追い詰められるブルボン家のアンリ。そしてヴァロワ朝のアンリよりも国民人気が高かったギーズ公アンリでしたが、アンリ3世によって暗殺されてしまうことに。

1-4 アンリ4世、ブルボン朝を開く

3つ巴のライバルだったギーズ公もヴァロワ朝のアンリ3世も暗殺により倒れてしまい、王冠はブルボン家のアンリの元へ回ってきました。

ブルボン家アンリこと、アンリ4世は1589年にブルボン朝を開き初代王に就きます。ところが、これを認めたのは新教徒のみ。フランス国民のほとんどは旧教徒でアンリ4世を認めなかったため、彼の戦いは続きます。ようやく国内を治めても今度は国外からの圧力がかかることに。大国スペインを率いるフェリペ2世です。フェリペ2世は隣国がプロテスタント国家となることに強く警戒していました。そこで自分の妻がカトリーヌ・ド・メディシスの娘であったことを理由に、自分の娘をフランス女王にと口を挟んできました。アンリ4世は同じプロテスタント国のイギリスらの力を借りてフェリペ2世を退けます。

アンリ4世は国内を安定させるために、改宗することに。こうしてアンリ4世は旧教へ改宗し、ナントの王令を出しました。ナントの王令により、旧教徒たちは信仰の自由が認められ国内は安定したのでした。

\次のページで「2 アンリとガブリエル」を解説!/

2 アンリとガブリエル

アンリには最も愛する愛妾ガブリエルがいました。アンリ4世は、3人もアンリの子を産んだガブリエルを王妃として迎えたいと考えていました。しかし離婚されることになるマルゴは反対。廷臣たちも再婚を反対する状況となりました。この章ではガブリエルの死の真相について見ていきたいと思います。

2-1 不幸な結婚生活

カトリック信者マルゴと結婚したプロテスタントのアンリ。しかし彼らは完全に政略結婚でした。しかもマルゴはアンリ4世ではなく、ギーズ公アンリ。アンリはアンリで姑のカトリーヌ・ド・メディシスを嫌っていました。2人の溝はとても深かったのです。

2-2 愛妾ガブリエル

アンリ4世のあだ名として有名な「宙返りのアンリ」。ですが、アンリ4世のあだ名はこれだけではありません。もう一つのあだ名は、「色事師」。アンリ4世は多くの戦争や政治に忙しかった人物でしたが、次々と恋人を作っています。なんと50人という説まで。これはかなりの人数ですよね。その中でも特に愛していたのは、愛妾ガブリエル。妻のマルグリットとは別居しており、夫婦仲も最悪でした。アンリ4世は後継ぎ問題に悩まされますが、アンリとの間に3人の子どもを設けていたガブリエルを王妃に迎えようとします。

2-3 この絵が意味するものとは?

Scuola di fontainebleau, presunti ritratti di gabrielle d'estrées sua sorella la duchessa di villars, 1594 ca. 04.jpg
By School of Fontainebleau かつてはFrans Pourbusの作とされていた。 かつてはFrançois Clouetの作とされていた。 - Artiste anonyme, パブリック・ドメイン, Link

この絵は、フォンテーヌブロー派の画家が描いた「ガブリエル・デストレとその妹」です。右側の女性がガブリエル。当時流行った髪をアップにするヘアスタイルと左手に持っている金とサファイアの指輪によって彼女がガブリエルだと分かります。この指輪はアンリ4世が戴冠式で身に着けていた物。そしてガブリエルの左が妹とされていますが、妹の詳細については分かっていません。この絵は多くの謎を含んでいます。もしもこの絵がガブリエル暗殺後の作品ならば、画面奧の絵画は娼婦のガブリエルを揶揄。侍女が縫物をしていますが、これは彼女の死に衣装。そして侍女の隣にある箱は本来アンリと結婚する際に使う予定だった箱。そこに緑の布が掛けられていることから、もう使わない=彼女の暗殺を仄めかしているのです。となると、ガブリエルの隣の女性は妹ではなく、次にアンリの愛を獲得した新しい愛妾なのかもしれませんね。

2-4 ガブリエルの死の真相

ガブリエルは暗殺を恐れ、アンリ4世が戦争へ行ってもついて行きました。アンリとガブリエルの結婚には王妃マルゴや家臣など多くの者が反対。これは、フランスの財政がかなり厳しい状況だったため。廷臣らは、ガブリエルよりも多くの持参金をもたらす女性がいいと考えていました。仮に彼女が王妃となると、アンリとの子の長男が王位を継ぐことに。しかし長男が生まれた時には2人との互いにパートナーがいた時期。つまり不倫の末に生まれた子だったのです。もし彼が王位を継ぐとなると、納得されないでしょうね。ガブリエルにとっては敵だらけでかなり厳しい状況にいたことが分かりますね。

しかしアンリの尽力によってマルゴとの離婚が決まり、ガブリエルとの挙式の日取りが決定。カトリックでは離婚が認められていませんが、力関係の弱い教皇側は認めました。ところが式の数日前にガブリエルの運は尽きてしまいます。その日の夕食を食べ終えた彼女は体調不良に。次の日に出産しますが、死産。そしてガブリエルの最期はかなり苦しんで迎えることになりました。なぜか彼女の元医師が呼ばれることはなく、そのまま亡くなりました。彼女の死因は産褥熱と発表されましたが、一説には毒殺とも。

\次のページで「2-5 誰がガブリエルを殺したのか?」を解説!/

2-5 誰がガブリエルを殺したのか?

こうして、アンリ4世の4人目の子どもを身ごもっていたガブリエルは突然死を遂げることに。彼女を手にかけたとされる容疑者たちの中には、王妃マルゴ、結婚に反対した廷臣たち、果てはアンリ4世までいます。しかし、ガブリエルの葬儀で王妃並みの待遇で彼女を葬ったアンリ4世。個人的にはアンリではないのだろうなと思いたいです。それでは、彼女を殺したのは一体誰だったのでしょうか。単に彼女は本当に産褥熱で死んだのでしょうか。未だに明らかになっていません。

2-6 再婚したアンリ4世

ガブリエルが亡くなった後、王妃マルゴとの離婚が成立しました。アンリ4世はマルゴに多額の年金を払うことに。さて、アンリ4世の懐事情としては多くの戦争などによって経済的にかなり厳しい状況でした。そこでアンリ4世は多額の持参金を持ってきてくれる女性と再婚しようと考えます。そこで候補として挙がったのが、メディチ家出身のマリー・ド・メディシス。イタリアフィレンツェの大富豪からフランスへやって来たマリーは国家予算並みの持参金を持って嫁いできました。

2-7 フィレンツェの大富豪の娘マリー

アンリの再婚相手であったマリーは一体どんな人物だったのでしょうか。マリーは幼少時代に母を亡くし、継母に育てられました。しかし15歳の時に父を亡くした後は叔父の元で暮らすように。しかし叔父がマリーの結婚相手探しをしないままマリーを放置。その結果アンリと結婚する時のマリーの年齢は27歳になっていました。当時の結婚適齢期が14~17歳、遅くても20歳には嫁ぐのが当たり前の時代。マリーは当時としてはかなりの晩婚だったのですね。こうしてアンリと20歳も年下のマリーは結婚生活を送ることに。

2-8 巨匠ルーベンスが描くマリー

Peter Paul Rubens 036.jpg
By ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, Link

アンリ4世と結婚後、マリーはルーベンスに連作を依頼していました。巨匠ルーベンスはマリーの人生を神話に見立てて、壮大に描きました。ただマリー自身に魅力が足りなかった模様。ルーベンスが描くマリーの絵画は、「マリー・ド・メディシスに生涯」と名付けられた21点にも及ぶシリーズの作品。かなり豪華な作品ですね。しかし実際のマリー自身の生活はアンリ4世と仲が悪く、宮廷の生活では思い描いていたものとは程遠いものとなったのです。

マリーはフランス語を習っていなかったため、宮廷では取り巻きとばかりいました。宮廷では社交が必要な場でしたが、マリーはなかなか宮廷での生活になじめませんでした。そして豊かなフィレンツェと比べて当時のフランスは宗教戦争で荒廃。マリーとしてはわざわざ貧しいフランスへ来てやったというおごりもあったのでしょう。マリーから見ると、アンリ4世は老いても愛人が多くおり宮廷内はたくさんの庶子がいたそう。宮廷内ではマリーよりも愛人たちの方がたくさんの宝石を買い与えられていて、自分よりも豪華に過ごしている様子を毎日見ていてとても悔しい思いがあったのではないでしょうか。

3 老王アンリの最期

仲が悪かったアンリとマリーでしたが、2人の間に3男3女に恵まれました。この章ではアンリ4世の最期について触れていきたいと思います。

\次のページで「3-1 アンリの政治」を解説!/

3-1 アンリの政治

アンリ4世はナントの王令を出して国内の安定を図っただけではありません。アンリは1604年に東インド会社を設立。アンリの治世では残念ながら交易をすることはありませんでしたが、後のルイ14世の命を受けたコルベールが再興することに。いわばアンリ4世が交易の基礎を作ったのですね。

また海外の植民地を獲得するため、海外へ進出。現在のカナダを植民地としました。

3-2 暗殺されたアンリ4世

Assassination of Henry IV by Gaspar Bouttats.jpg
By Gaspar Bouttats - one or more third parties have made copyright claims against Wikimedia Commons in relation to the work from which this is sourced or a purely mechanical reproduction thereof. This may be due to recognition of the "sweat of the brow" doctrine, allowing works to be eligible for protection through skill and labour, and not purely by originality as is the case in the United States (where this website is hosted). These claims may or may not be valid in all jurisdictions. As such, use of this image in the jurisdiction of the claimant or other countries may be regarded as copyright infringement. Please see Commons:When to use the PD-Art tag for more information., パブリック・ドメイン, Link

その日は訪れました。アンリ4世はドイツ遠征に向けて、留守の間の国内の統治を王妃マリーへ委ねます。当時は王の不在時に王妃が留守を守るのが当たり前の時代。しかし今回はなぜかマリーの強い要望の戴冠だったのです。そして戴冠して翌日にアンリ4世は不審な死を遂げたのでした。

アンリは馬車で移動している際に狭い通りを通ります。すると荷車がアンリの行く手を阻むように置かれていました。従者が荷車をどかそうと王の元を離れた時、突然アンリはカトリック側の男に刺されてしまいました。護衛はなんと馬で馬車を囲んでいたのにも関わらず、不自然に次第に馬車から離れていったため、警備は手薄の状態。裁判では単独犯として処理されましたが、あまりにもタイミングがいいアンリの死。まるで誰かに仕組まれたかのような最期でした。

3-3 消えたアンリの首

アンリ4世は、1610年にカトリック教徒の青年によって命を落とし墓へ葬られました。しかしフランス革命のさなかに墓は掘り起こされ、なんとアンリの首が持ちさられることに。既に亡くなっているにせよ、墓を荒らすのは恐ろしいですね。アンリの首は様々な人の手に渡り、2010年にフランスの法医学チームによってアンリ本人の首と判明し墓へ戻されることに。きっとアンリ4世もホッとしているのではないでしょうか。

4 「宙返りのアンリ」と呼ばれたアンリの光と影

アンリ4世の人生には実に多くの暗殺や不審な死が起こりました。ライバルであったギーズ公のアンリ、最愛の寵姫であったガブリエル、そしてアンリ4世。もしもギーズ公のアンリが暗殺されることがなければ、アンリ4世は王朝を開くことができなかったのかもしれません。もしもガブリエルが不審な死を遂げることなくアンリと結婚していたら歴史はガラリと変わっていたことでしょう。歴史において、もしもを考えることはナンセンスかもしれません。しかし後世を生きる私たちから見ると想像するだけでワクワクしますね。

アンリ4世の最期は暗殺でしたが、彼がブルボン朝を開いたことで次のルイ13世に王朝が託されました。今でもアンリ4世はフランス国民の間で人気を誇っています。

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フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史世界史歴史

「アンリ4世」を歴女がわかりやすく解説!寵姫ガブリエルを殺したのは誰か?

今回は、フランスのブルボン朝を開いたアンリ4世についてです。アンリ4世はユグノー戦争と呼ばれる宗教戦争をナントの王令で終結させ、フランスをまとめた君主です。今でもフランス国民の中で高い人気を誇っている王です。

それじゃあフランスのアンリ4世について詳しい歴史大好きまぁこと一緒にアンリ4世について紹介していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁り、歴女ライフを満喫。ここ最近はブルボン家に関する本を愛読中!そんなまぁこがアンリ4世の知られざる生涯と愛妾ガブリエルの死について紹介していく。

1 「宙返りのアンリ」と呼ばれたアンリ4世

image by iStockphoto

アンリ4世ブルボン朝を開いた人物です。彼はフランス歴代の王の中でも人気があります。それはナントの王令によってユグノーと呼ばれるプロテスタントの信仰を保護したため。しかし彼の周りでは不審な死を遂げた人物がいました。それはアンリ4世の愛妾だったガブリエル。今回はアンリ4世の治世について紹介しつつ、寵姫ガブリエルの死の真相について見ていきたいと思います。

1-1 ユグノー戦争

Francois Dubois 001.jpg
By François Dubois[1], パブリック・ドメイン, Link

まずユグノーについてですが、これはカトリック信者から見たカルヴァン派のプロテスタントの呼び名です。もともとフランスはカトリックを信仰していた国。ですが宗教改革がフランスにも波及し、ユグノー教徒は次第に増えることに。アンリ4世は母がプロテスタントを信仰していたのでその影響からプロテスタントでした。カトリック信者のことを旧教、プロテスタントのことを新教とも言います。

そして両者は対立し、1562年からユグノー戦争が始まりました。この戦争は休戦を挟みながら1598年まで続くことになります。とても長い戦いですよね。

1-2 アンリとマルゴの結婚

1572年にアンリとヴァロワ朝の王女マルグリット(愛称マルゴ)が結婚しました。アンリは母の影響で新教徒。対する王女マルグリットは旧教徒でした。当時はユグノー戦争の最中だったため、カトリーヌ・ド・メディシスらが旧教徒と新教徒の2人が結婚すれば国内が安定させることができると策を練ったのです。ところが結婚を祝うために集まった新教徒たちを旧教徒らが襲いました。サンバルテルミの虐殺です。この虐殺によって3000人もの新教徒が命を落とすことに。

1-3 「3アンリの戦い」

兄シャルル9世が病死したため、新たにヴァロワ朝の王座へ座ったのは弟のアンリ3世。フランス国内の宗教内乱は次第に3アンリの戦いと呼ばれるように。これはヴァロワ朝のアンリ3世と、名門貴族ギーズ公アンリ、そしてブルボン家のアンリが王権争いをしたためでした。

3人のアンリによる三つ巴は、まずギーズ公のアンリに軍配が上がります。同じ旧教徒同士のヴァロワ朝のアンリ3世とギーズ公のアンリが手を組んだことで、追い詰められるブルボン家のアンリ。そしてヴァロワ朝のアンリよりも国民人気が高かったギーズ公アンリでしたが、アンリ3世によって暗殺されてしまうことに。

1-4 アンリ4世、ブルボン朝を開く

3つ巴のライバルだったギーズ公もヴァロワ朝のアンリ3世も暗殺により倒れてしまい、王冠はブルボン家のアンリの元へ回ってきました。

ブルボン家アンリこと、アンリ4世は1589年にブルボン朝を開き初代王に就きます。ところが、これを認めたのは新教徒のみ。フランス国民のほとんどは旧教徒でアンリ4世を認めなかったため、彼の戦いは続きます。ようやく国内を治めても今度は国外からの圧力がかかることに。大国スペインを率いるフェリペ2世です。フェリペ2世は隣国がプロテスタント国家となることに強く警戒していました。そこで自分の妻がカトリーヌ・ド・メディシスの娘であったことを理由に、自分の娘をフランス女王にと口を挟んできました。アンリ4世は同じプロテスタント国のイギリスらの力を借りてフェリペ2世を退けます。

アンリ4世は国内を安定させるために、改宗することに。こうしてアンリ4世は旧教へ改宗し、ナントの王令を出しました。ナントの王令により、旧教徒たちは信仰の自由が認められ国内は安定したのでした。

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