幕末日本史歴史江戸時代

長州藩を窮地に追い込んだ事件!「禁門の変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

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長州藩が京都に進軍したのは戦いではなく抗議が目的だったわけだな。しかし朝廷にそれを拒否されて京都を抑える会津藩や薩摩藩と衝突、これが禁門の変だ。そして、朝敵とみなされた長州藩はこの先さらに窮地に陥ることになるぞ。

長州藩滅亡の危機

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幕府による長州征討と外国による四国艦隊下関砲撃事件

朝敵となった長州藩はまさに日本の敵状態であり、これをチャンスと捉えたのが幕府でした。幕府を頼りとしない尊王攘夷の考えは幕府からすれば当然面白くなく、そのため幕府は長州藩を嫌っていたのです。今なら朝敵であることを理由に長州藩を叩ける、幕府はそう思ったのでしょう。

そこで幕府は長州藩を征伐するための長州征討を実行、それも朝廷から勅許を得てのことでした。一方、朝敵とみなされた長州藩は武器を購入することもできず、攻撃を仕掛けてくる幕府に対してもはや太刀打ちするだけの力は残っていません。

これに追い打ちをかけたのが、長州藩の過激な尊王攘夷運動に対する外国の報復です。イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国の連合艦隊が長州を攻撃する四国艦隊下関砲撃事件が起こり、戦力が大幅に低下した長州藩は幕府と交戦することなく幕末の要求を受け入れたのでした。

攘夷の断念から倒幕へ

四国艦隊下関砲撃事件は長州藩を滅亡の危機に陥れましたが、同時に長州藩が窮地から脱出するきっかけにもなりました。と言うのも、この事件をきっかけに長州藩は外国の軍事力の高さを実感し、攘夷が不可能だと思い知ったからです。

このため、長州藩は長年思想としていた尊王攘夷を断念して倒幕へと考え方をシフトチェンジ、この方向転換が後に長州藩を窮地から救うことになります。実は外国の軍事力の高さを実感していたのは長州藩だけではありません、薩摩藩もまたそれを実感していたのです。

薩摩藩は薩英戦争の経験で長州藩同様に外国の軍事力の高さを思い知っており、今の日本では外国に対抗できないと思っていました。薩摩藩が公武合体を思想としていたのは、日本が一つにまとまらなければ外国と対等に渡り合えないと考えていたからで、幕府の頼りなさから薩摩藩もまた倒幕を考えるようになったのです。

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朝敵とされた長州藩は幕府に攻撃され、また外国から尊王攘夷運動の報復も受けて滅亡の危機に晒された。ただ外国の強さを知ったことは尊王攘夷の思想を改める機会となり、倒幕へとシフトチェンジしたことで事態は思わぬ方向へと進んでいくぞ。

長州藩の未来を変えた倒幕への切り替え

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